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授業は気軽に見せ合えるのがいい

ある学校で授業を参観する機会がありました。中学校の英語の授業です。授業をするのは5年目の若い先生です。ふと、私が中学生だった時のことを思い出しました。

担任の先生が道徳の公開授業をやることになりました。当時は40代のベテラン男性教師です。県内の先生たちを集めて研究会を行うようでした。前日は教室を念入りに掃除し、掲示物もきちんと貼り直すなど生徒たちは準備に駆り出されました。生徒として私は何か特別なイベントが行われるような雰囲気を感じていました。

さらに公開授業の1週間前、担任はリハーサルと称して当日とまったく同じ授業を行いました。つまり私たち生徒は同じ授業を2度受けたのです。さらに驚いたのがリハーサルで先生はだれが資料を読み、どこでどんな発言(質問)をするかも決まました。あらかじめ台本を作って私たちに台本通りに行わせたのです。中学生の私もそれには驚きました。その研究授業がどんな意味を持つのか当時の私ににはよくわかりませんでしたが、それが適切なやり方でないと何となくかんじました。そして翌週の「本番」ではリハーサル通りに授業は進められ、生徒たちは台本通りの対応をしました。

教師になってからそれがどんなイベントだったかわかりました。あの時の担任の気持ちも少しは理解できま(共感はできませんが)。お手本になるような素晴らしい授業を見せたかったのでしょう。

私は教員だった時、他の人がどんな授業をしているのか知りたいと思い授業を見せてほしいと頼むことがありました。そしてたいていの場合返ってくるのが「たいしたことやってないよ」「見せるほどの授業じゃないよ」という言葉でした。別にすごい授業を期待しているわけではなく普段の授業を見せてほしいだけなのですが、相手はお手本になる授業をしなければいけないと思っているようでした。気軽に見せてくれる人もいましたが渋る人は少なくありませんでした。「今日はテストを返す日だから」とか「作文を書かせるだけなので」とか言ってやんわりと断られることもありました。テストを返す時の声かけや子どもたちが作文を書く様子を見るのも決して無意味ではないと思うのですが、できれば見られたくないという気持ちが感じられるのでそれ以上お願いするのをためらってしまいます。

公開授業は良い授業(模範)を見せることだと考える人が多いように思います。研究発表では特にそれが感じられ、「先生いつもと違うね」と生徒が言ったりします。先の私の担任のように経験を積んだ教師ほどその傾向が強いように思います。授業を見せるからには、立派で手本となる授業をしなければならないと考えます、参観者から「素晴らしい授業でした」と言われることが重要であり、それを望んでもいます。「大した授業じゃない」と思われたくないし、見るに値しない授業は見せたくない、新人と変わらぬ授業はやりたくない、自分の評価を下げたくないと思います。だから、授業を見せるときには念入りに準備をし、計画通りに授業を進め、参観者を満足させることを重視します。あえて「見せ場」や「受ける場面」を設けます。だから、直前になって「見せて」と言われても気軽に「はいどうぞ」とは言えないのではないでしょうか。

もちろん、普段から誰に見せてもいいような素晴らしい授業をやっている教師はたくさんいます。でもどんな人だって日によって授業がうまくいかないことはあるでしょう。カリスマ教師と言われる人だって常に完璧な授業ができるとは限りません。何年たっても満足のいく授業ができないと感じている教師は多いと思います。授業力というのは日々切磋琢磨しながら磨き上げていくものです。手本となる授業が常にできる教師などりいないのではないでしょうか。だから、ありのままの授業を見せ合い、その中で改善点を見出して行けばよいと思います。授業を見る側も、良い点は学び、まずいと思う点は自分ならどうするかと考える材料にすればよいのではないでしょうか。「見せ場」にこだわる必要などないと思います。
 

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