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VTuberの台頭と「スターアイドル」からの堕落、あるいは本筋と関係ない「推しの子」の話

以前書いた「メディア特性」の話でも触れたが、VTuberが「映像表現のハードルを下げる」1技術的コンテンツであった時代は過ぎさり、代わりにアイドル性が表出したことは記憶に新しい。ところが、アイドル論、特にメディアよりも産業寄りの論旨でこれをどう処理するかは主張の分かれるところではないかと思う。本稿では、仮に「アイドルのスター性」という観点からの経時変化による理解を試みたい。

アイドル、特にテレビアイドルの登場は1970〜80年代、「スター誕生!」を契機に、カラーテレビを中心とした、言うなれば人工的なアイドルが文字通り誕生したことによる。それ以前の、なにかの見目美しい選手やあるいは映画スターといった、いわば自然発生的な(とはいえマスメディアによる偏向は当然介在するとして)アイドルに求められたような偶像的性質をも引き継ぎつつ、かつ何処か親しみを持った存在として仕立てられたテレビアイドルは、カリスマ性とも呼べるそれを失いつつも、それでもなお「アイドル」であったと言える。
補足として、この「親しみの持てるアイドル」というのはカラーテレビというメディア媒体によってできた特性でもある。つまり、様々な意味で「銀幕」よりもこちら側(例えば、そのアイドルのために必ずしも毎回金を払う必要が無いという心理的ハードルの面において)の存在であることが、「アイドル」の偶像性と親しみという奇妙な共存を成立せしめたのだ。さらに言えば芸能活動と音楽の利権には切っても切れない縁があるが、その話題は他に譲ることにする。

アイドル産業が成立した後にもアイドルは比較的早いスパンで生産された。結果として、目新しさや差別化といった既存の生産モデルの課題を早急に解決することが求められるようになる。そうした経緯でもって天才的なひらめきで、しかし不可避的に誕生した「ちょっと気になる可愛い同級生」なる新アイドル像は、確実に既存のアイドル観を破壊していった。それは簡単に言えば、これまで奇妙な共存をみせてきた偶像性の失墜であったが、同時にそれは偶像性の消失を意味しなかった。新しいアイドルたちは体感的により近く、しかしながら「こちら側」とは一線を画すアイドルたちは、しかし「ナマモノ」であるがゆえに倫理的に守られている部分があった。その後、「学園女子の再現」とでもいうべき坂道シリーズの発明がありつつ、VTuberの登場によってアイドルのスター性は新たな地平を見ることになる。

黎明期には種々の混乱があったが、結果として2022年までのVTuberの扱いはあるべき姿に収まったように思える。超日常的な「属人性」としての露出スタイル、それと同時に体感的人権の消失にみられるように「反属人性」としての立ち絵概念が共存する、一見破綻しているようも見えるバランスで成り立っている。

これは奇跡のようでもあり、やはりアイドルという文脈が生み出した超法規的コンテンツでもあるのだろうと思わざるを得ない。
そんな新しいアイドル観に感化されて久しい文脈で、なおアイコニック(伝統的)な「スターアイドル」を題材とした推しの子が人気なのは、妙な気持ちにもなる。しかしながら、推しの子のストーリー構成は寧ろ「スターアイドル」を構造上棄却する向きもあって、このテリングはアイドルのカリスマ性が良く堕落した今でこそできる表現なのかもしれない。

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