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「で、ハルマゲドンはいつくるの?」 みみず腫れと「愛のムチ」 宗教2世日記③

昼間の住宅街を通ると、ごくたまに見かける数人組の異様な雰囲気の人たち。色もデザインも控えめで、真面目そうに見えるワンピースやスーツを着て、大きめのカバンをぶら下げている。「エホバの証人」たちの訪問勧誘のご一行様だ。

夕方から夜にかけての時間に「王国会館」という文字が書かれた施設に続々と集まってくる様子を見かけることもある。王国会館では、主に聖書や、それにまつわる書物についての勉強会が繰り返し行われていた。こちらは「集会」だ。

そこには、品が良さそうではあるけれど、同じような異様な雰囲気をまとった幼児や子どもたちもいるだろう。

それらを街中で見かけると、胃の下あたりがヒュッとして、思い出したくないドス黒い気持ちが一瞬で胸にブワッと広がる。

下を向いてばかりの学校生活や、お祝いが出来ないこと、地域の一般家庭に訪問する普及活動など、しんどいことが山ほどある「エホバの証人」生活の記憶の中で、1番心に強く残っている思い出は、やはり「愛のムチ」だ。

その名の通り「これは愛だ」と言って、ムチで打たれる。確かに小学生くらいの私の記憶の中にあるけれど、たった今の出来事かと時間感覚がバグるほどしんどい。

ムチで打たれる基準は、各家庭で違ったようだけれど、我が家の場合「正座を崩したから」「聖書の朗読を間違えたから」「集会中に私語を話したから」「居眠りしてたから」などという理由で「はい、帰ったらムチ一回ね、二回ね……」と、メモ帳に「正」の字で回数をカウントされていった。

お風呂に入る前に、それは行われる。無理矢理ではなく、子ども自らが進んで服と下着を脱いで、お尻を出さないといけない。相手が母といえど、その行為が成長期の小学生にとってどれだけ屈辱か。

罪状を読み上げる裁判官のように「〇〇したから一回、〇〇したから一回」と、執行される前に、今日の罪とムチの回数を告げられる。

床にうつ伏せになり、座布団2枚で背中と太もも部分を上から被せられ、お尻だけ出ている状態にさせられる。その状態でお尻を突き出すと、ムチで叩かれるのだ。

「ムチ」と言ってもSMプレイや拷問で使われるイメージの、あのムチではなく、1メートル定規、革のベルト、ゴムホースなど、日常にあるもので、ある程度の長さがあり、重さがあり、良くしなるものが使用された。

もちろん激痛だった。素材にもよるが、失敗して太ももの方にずれると目の前が真っ白になるほど痛い。私だけではなく、2歳年下の弟も喰らっていた。お風呂に入るとまたそのみみず腫れがしみて痛い。

どうしてこんな思いをするのだろう? と思いながら、打たれた後は「ありがとうございました」と感謝をしなければならなかった。どこが悪かったか、これからどう改善していくか、的確に答えないと追加で打たれたりもした。

今、書いていてもその酷さや理不尽さに対する怒りで震えてくる。

本当にあの時の母は、鬼にしか見えなかった。「私も辛いのよ。これは愛している証拠なのよ。あなたたちに楽園に行って欲しいからなのよ」と言いながら、母は、私たちの尻の皮膚がなるべく痛み、派手にみみず腫れを起こす素材を常に探求し続けて色々と試していた。

慣れてくると、あまり痛く感じなくなっていくのは確かで、痛そうにしていないと首をかしげ、違うムチを試されることになる。
私と弟は、あまり痛くないムチの時に、痛くてたまらないフリをするのがうまくなったし、痛くなく、かつ、みみず腫れになりやすい当たり方を探求する日々を送った。

私たちを想っての、愛のムチ。

本当に? 愛してるからなの? どうして私と弟だけ?
本当にこの先に、私たちだけの楽園があるの? 今、ここが地獄なんじゃないの?

下着を自ら進んで脱がさせられ、座布団2枚で地べたに押さえつけられ、いかにお尻にジャストミートさせられるか、いかに痛めつけるかを探求し続ける母こそ、私には悪魔に見えた。罪状を読み上げている母、痛みに震えながら反省を述べているのを、白々しい顔をして聞いている母は、悲しんでいるようにはとても見えなかった。

王国会館では、みんなニコニコしている大人たち。こいつらもみんな、家では子供たちに愛のムチを施しているんだよな、あんな鬼みたいな正体を覆い隠して、表面だけニコニコしてるのキモ……と、いつも思っていた。

それでも、母や大人のいうことがきっと正しく、鞭で打たれる私たちが悪いのだ、と思っていたし、そんな母に褒められたくて、一生懸命に聖書を覚え、正しい所作、求められる思考や回答をする努力をした。

今では、虐待とされている愛のムチ。私自身、どう考えても虐待だろ、と思うし、あの時の母の顔が、心の傷の1番深いところにあると感じている。今でも記憶に蓋をしないと平常心でいられない。

コメディエッセイストなのに、まったく茶化すことができない。

「エホバの証人」の運営側からは否定する声明も出ているようだが、愛のムチも、輸血の拒否も、実際に行われていた。私はここに断言する。

宗教に救いを求めることや、心の安寧を求めることまでを悪いとは思わない。しかし、子供たちにそれを強いることだけはやめてほしい。

強く願ってこの回はそそくさと終わらせていただく。しんどすぎる。

おしまい

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