見出し画像

なぜ「反パターナリズム漫画」は「スカートめくり漫画」でもあるのか

先日、このnoteで週刊少年ジャンプで連載していた「ぼくたちは勉強ができない」という漫画がスカートめくりを始めとした「性暴力を娯楽にする表現」をしていると指摘され話題になった。

しかし一方で、このように「ぼくたちは勉強ができない」は「反パターナリズム的な主題」がある漫画でもあると指摘されている。

ぼくたちは勉強ができない問117
目指す進路についての才能はないから志望分野を変更しろという押し付けに心が折れそうになった古橋文乃が、緒方理珠の言葉に勇気づけられるシーン。ぼく勉屈指の名シーンである。

なぜ「才能のあることよりも自分のやりたいことをやるべき」というパターナリズム的な押し付けを否定するような先進的な考えを持つ漫画が、他方では「性暴力を娯楽にする表現」を当然のように描写するのか。作品と作者の家庭環境から考えていきたい。

唯我輝明という存在を補助線に

唯我輝明とは「ぼくたちは勉強ができない」の主人公である唯我成幸の父親である。
唯我輝明は唯我成幸が中学生のときに死亡している。生前は高校の教師をしており、漫画の中では時折回想の中で立派な人物であったとして語られている。
しかしながら実際の作中で行ったことを見ていくととてもではないが立派な人物とはいい難い。以下に例を上げる。

  • 親友の町医者に大病院にあるような設備がなければ手術できないような病気の手術を頼み込むが、当然無理なので親友に手術を断らせてしまい、結果として親友を救えなかったという罪悪感を負わせる。

  • 一人で悩む教え子に周りの人間に頼れということを直接伝えず、見るかもわからないタイムカプセルにそのことを書いたノートを入れる。

  • 壁や窓に亀裂が入ったまま放置するほど貧乏なのにも関わらず不良生徒を家に連れ込みご飯を食べさせる。(教師としては立派かもしれないが家庭人としてはいかがなものか)

手放しに立派とは言い難いことをやっていると思うが、これらの行動は作中では全く否定的な評価をされていない。そしてこういった行動とは裏腹に、彼は立派な人物であったと語られている。こういった歪みはどこから生まれるのだろうか。

作者の父親

「ぼくたちは勉強ができない」の作者である筒井大志の父親は筒井豊春という人物である。
筒井豊春氏は野村證券を経てモルガン・スタンレー証券、クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券に務め、その後キャピタル・パートナーズ株式会社という証券会社を設立し、日本証券業協会の理事にも名を連ねている。その他ら・べるびぃ予防医学研究所やブロンソン・ジャパンなどの健康分野の会社も設立(現在はともに筒井大志の弟が代表を務めている)しており、多彩な分野で活躍している。
経済分野以外でも日本ベトナム文化交流協会の理事長にも就任しており、自民党の国会議員にベトナムをテーマにした勉強会を行うほどその分野に精通した人物でもある。そしてこうした華々しい経歴を誇りつつ、子育てにおいては子の自主性を重んじている。
例えば筒井大志が大学を中退して漫画家になることを決めたときも、自身の設立したら・べるびぃ予防医学研究所に勤めさせながら絵の勉強をさせることで自分の子が夢を実現できるようサポートするなど、子供の可能性を活かす教育方針であったということが伺える。

左:ら・べるびぃ予防医学研究所のInstagram
右:当時作者が描いたと思われるイラスト(クレジットがないため推測)

こういった経歴から見るに、筒井豊春氏は公私両面において素晴らしく立派な尊敬すべき人物であるのだろう。
こうした尊敬すべき人物の背中を見て育ってきた作者のなかに、父親とは立派なものであるという思想が生まれたとしてもおかしくはない。

作者の作風

筒井大志の作風として、キャラクターを舞台装置のように扱うことが挙げられる。
すなわち、やりたい・言わせたいことを描くことの優先順位を物語そのものやキャラクターの性格や行動などの整合性よりも上にする傾向がある。
唯我輝明の歪みもこのような傾向から生まれたものと考えられる。

上で親友の町医者と述べた。この町医者はヒロインの一人の父親として32話で登場したものの、主人公の父親である唯我輝明の親友だったと明かされたのは全187話中の174話である。「ぼくたちは勉強ができない」は150話で本編を終わらせた後にifとして各ヒロインのルートを描いているからそのifルートで突然現れた設定であり、それまでにそれを匂わせる描写は全く無い。話を盛り上げるために後付でそういう設定を加えたのだろう。
また同じように上でタイムカプセルにアドバイスを書いたノートを入れたと書いたが、実は本編中ではノートのアドバイスと食い違うことをその教え子に伝えている。このノートは上記と同様ifルートで突然現れた問題を解決するため、最初のアドバイスを否定するためのノートである。普通に直接伝えていたことにすると本編前に解決してしまい、これ以外の作中の描写と矛盾してしまうから苦肉の策としてタイムカプセルに入れたことにしたのだろう。

唯我輝明はこうして話を盛り上げるために舞台装置のように使われた。盛り上げるために加えられたこととはいえ、こういった行動を客観的に判断するなら立派とは言い難いと思われる。しかし作者にとって、自らの経験上父親とは立派で尊敬すべきものであるから立派な人物であったと語らせている。
立派な人物であればやらないであろうことであるのに、自分の思う展開にしたいからそれをやらせる。そうさせるなら立派な人物じゃないことにすべきであるのに、父親とは立派なものであるから立派な人物であることにする。
このように作者は自らの実体験をときに作中の描写や整合性よりも上位に置くことがある。
人物評価と実際の描写に歪みが生まれたのはこうした理由なのではないだろうか。
またこうして作品に作者自身の経験を反映させているという視点を持つと、「ぼくたちは勉強ができない」という作品に通底するテーマである「どんなに才能がなくても、どんなに反対されても、自分のやりたいことに向かって全力で努力すれば夢は叶う」というコンセプト自体も、大学を中退してまで漫画家という夢を追った作者の実体験と重なる部分が見えてこないだろうか。

つまり「ぼくたちは勉強ができない」という作品は、そのコンセプトにしても作中の描写にしても、作者の実体験が強く反映されている作品なのである。
したがって「反パターナリズム」や「スカートめくり」も、同じように作者の実体験に影響されたものなのではないだろうか。

結論

Q.なぜ「反パターナリズム漫画」は「スカートめくり漫画」でもあるのか
A.作者自身の体験をベースに漫画を描いているから。

ある問題については自分の経験にあるから先進的な考えを持ち、別の問題については経験がないから従来のテンプレートをただなぞる。
「自分の夢を追うこと」は実体験として正しいことであるから肯定し、「スカートめくり」はされた経験がないから単なる「ちょっとエッチで笑えるエピソード」として描く。
何か思想があって「反パターナリズム」であるとか「性暴力を娯楽にする表現」を描いているわけではなく、実体験から来る経験則で話を描いていて、自分の身に降りかからないものについて考えが及ばないタイプなのだろう。
作品内外含めてそのような傾向が見られる。
(もっとも、自覚がないことこそ問題であるのだという指摘はあり得るだろうし、もっともな指摘でもあるだろう)

追記(誤読への反駁)

n-styles 要約すると「作中のあるシーンが作者の実体験に基づいていると推測されるので、ほかのシーンも実体験に基づいているだろうと推測する」みたいな感じ?じゃあ、筒井先生は複数の同級生や先生とイチャイチャしてたの?

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/otorina/n/n403da5fd32ad

どちらも「作者自身の体験をベースに漫画を描いているから。」だけ読んで脊髄反射で書いたのだろうが、それにしても「体験をベースに」と書いているからといって「作中の描写は全て作者の実体験によるもの」と読み取るとはどんな解釈をすればそうなるのかまるで理解ができない。
ベースとは基礎、土台という意味である。私が文中で書いた作者の体験とは「立派な父親に育てられたこと」「努力すれば夢が叶うということ」であり、それが作品の土台となり作品に反映されているという趣旨にほかならない。それを何をどう読み取れば「作中の描写は全て作者の実体験によるもの」などと読み取れるのだろうか。彼と私ではベースという言葉に込める意味が違うのだろう。同じ日本語を使っているとは思えない。ひっくり返りたいのはこちらのほうだ。

要約のほうは確かにあの一文だけを読めばその解釈も不可能ではないだろうが、それ以降の文章を読めば意味するところは明らかだろう。要約と言いながら全く要約になっておらず文章の趣旨を捻じ曲げている。
意図的か知性不足によるものかわからないが、揶揄するならば最低限最後まで文章を読んでから行うべきだ。

ある問題については自分の経験にあるから先進的な考えを持ち、別の問題については経験がないから従来のテンプレートをただなぞる。

これを読めば「反パターナリズム」のような一見先進的な考えは、単に自らの経験がそれに当てはまっていたというだけにすぎず、それ以外の経験がない点については今まで良しとされていた表現を深く考えず描いているという結論であることは明らかだろう。
「経験がないから従来のテンプレートをただなぞる」と経験がない場合のこともはっきりと書いているにも関わらず、したり顔で「じゃあ、筒井先生は複数の同級生や先生とイチャイチャしてたの?」などと「これは経験からくる描写ではないはずだけど矛盾してない?」と書き込める神経は尊敬に値するが哀れでもある。

なお結論を丁寧に書き直すのであれば、

「反パターナリズム」のような表現はたまたま作者の実体験がそれと一致していたから一見先進的に見えることを描けただけに過ぎない。作者自身には先進的な考えはなく深く考えずに漫画を描いていると思われるのだから、「性暴力を娯楽にする表現」を当然のように描写するのは先進的な考えと食い違っているわけではなく当たり前のことであってなんら不思議ではない。

となる。

インターネットに公開する文章なのだから最初からこのくらい丁寧に書くべきだという指摘はごもっとも。控えめな読者も想定すべきであった。

再追記(ひろゆき論法には付き合えない)

なぜ私があえてあの2人を取り上げて反駁したのかと言えば、言うまでもなくこの2人が(URLを引用して、もしくははてなブックマーク上で)「作中の描写は全て作者の実体験によるもの」などという誤読をしていたからだ。
私の文章を読んで論理展開に飛躍がある(「車田ぶっ飛び」なる文言の意味するところは必ずしも明確ではないが、文意から便宜上「飛躍している」という趣旨で読み取るものとする)という指摘は今回の彼以外にもいくつかなされているが、それらについて私は反論していない。私が「ぼくたちは勉強ができない」を読んで作者は何も考えていないと解釈したのと同様、私の文章に飛躍があると感じるのも読者の自由だからだ。それは読者の権利であって筆者はそれを否定する権利を持たない。
だが上で挙げた2人は別だ。彼らはまともに文章を読み取れることができれば不可能なはずの解釈をひけらかしていた。だから私はそれは違うと反論したのだ。このことはなぜあえてこの2つの感想を取り上げたのかということに思いを巡らすことができればわかるはずである。

彼は私が「作中の描写は全て作者の実体験によるものではないかと主張し」ていると主張していたにも関わらず、その点について私が反駁すると「文章の論理が雑でそこが問題だ」などと主張を変えた。
彼が持ち出した論点を放置したまま別の論点へと話題をすげ替え「文章の論理が雑」だから「作中の描写は全て作者の実体験によるものではないかと主張し」ているという最初の主張も正しいのだと、本来全く関係がないはずの2つの論点があたかも関連しているかのように見せかけている。
ひろゆきの影響を受けているのかいないのか、私には判断する術はないが、いずれにせよ論法としては同様のものだ。不誠実極まりない。

なおおそらく違うとは思うが
「したがって「反パターナリズム」や「スカートめくり」も、同じように作者の実体験に影響されたものなのではないだろうか。」
という文章を「作中の描写は全て作者の実体験によるもの」と解釈したとの文意であった場合、彼には一文だけで文意を解釈しなければならないという縛りがあるのだろうかと疑わざるを得ない。その後の文章を読めば実体験の有無によって描写に差異が生まれているのだという趣旨は明らかなはずだ。影響されたという言葉を全て実体験によるものと受け取るのは日本語の解釈として不可能であるからこの仮定自体が間違っているはずだが。
もし万が一このような解釈が正しいのであれば不誠実という言葉は誤りであるので謝罪して撤回する。ただ脊髄反射という点では前回と大差がなく、なんの反論をしているつもりなのかは今ひとつわからない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?