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短編小説『妄想猫』

 私がまだ学生だった頃、猫を飼いたかったが、狭いワンルームに住んでいたので諦めていた。その代わり、ラグドールの毛に似た安いポリエステル製の絨毯を買って敷いていた。黒いパンツを履いて寝転がると猫の毛のような繊維が沢山くっついた。出かける前、粘着テープで毛を掃除しながら、大学を卒業してもっと広い部屋に住んだら本物の毛でこれが毎日できる、と妄想するのが楽しかった。
 私の妄想はエスカレートして、ついに餌やケージを買ったり、冬には毛糸で猫用の服や帽子を編んだ。エアコンをつけっぱなしで出かけていた時期もあったが、電気代が跳ね上がったのでやめた。私は目には見えない猫と一緒に住んでいた。
 妄想上の猫は私に様々な楽しみや安らぎを与えてくれた。体調不良で起き上がれない昼や台風で雷鳴が聞こえる夜、暑くて気だるい朝も猫はいつもそばにいてくれた。私は猫にラギーという名前をつけた。ラグドールのラグから、名前っぽくしてラギーだ。実際に飼うことができたらこの名前にしようと決めた。
 ラギーのお気に入りの場所は、部屋の隅に置いてあるビリーという大きなクマのぬいぐるみの膝の上だった。ビリーは小学生くらいの大きさで、恋人がクリスマスにプレゼントしてくれたものだった。私はぬいぐるみが好きなので嬉しかったけれど、部屋に来た友達はそのエピソードを聞いて顔をしかめた。ぬいぐるみはダニの巣窟だから嫌いだそうだ。毛の長いカーペットも怪しいから気をつけて、と友達は忠告してくれた。そして「人には人の、だね」と友達は言った。その通りだと思ったので、私は大きく頷いた。
 友達にラギーの話はしなかった。見えない猫と住んでいるだなんて、さすがに頭がおかしいと思われるだろう。友達が遊びに来るときは、餌や服など明らかに猫関係のものはクローゼットの中に隠した。幸い、クローゼットだけはドラえもんが4人住めそうなくらい広かった。
 ラギーの性別が一番の問題だった。性別の枠にとらわれない人生を、という人類のあいだで最近主流になっている考えを適用しようと思ったが、動物となると管理上の問題でなかなかそうもいかなかった。ラギーは普段はやんちゃだが、私が静かにしているとじっと待っていてくれる淑やかさをもち、遊びとなると思いっきり飛び跳ね、ネズミのおもちゃを見ると険しいハンターの顔つきになり、眠るときは女神のように眠った。静と動のどちらも簡単にしなやかに行き来するので雌雄どころか性格が計り難かった。
 ある日、ラギーの動きがいつもより緩慢だった。湿気のせいかと思い、風通しをなるべく良くしてしばらく様子を見ていたところ、ご飯を食べる時にお腹をかばうような動きをするようになった。最初は病気を疑った。私はこれでも獣医学生なので、講義資料やら参考書やらを引っ張り出してそのような症状をもつ猫の疾患を調べた。しかしまだ4年生なのでよく分からず、研究室の先生に「実家の飼い猫のことで…」と相談したところ「妊娠じゃない?」と笑いながら言われた。
 部屋に帰ってから、ラギーの様子をじっと観察した。妊娠。お腹の中に胎仔。大いに考えられる可能性だった。甘やかしすぎで最近太ったなと思っていたぽってりした腹部、そこには新たな生命が宿っているような気がした。
 その日からラギーのお腹がわずかに光るようになった。夜に見ても、眩しいほどではないが微光を発しているのが分かった。その光は日を追うごとに強くなり、明らかに光っていると思った日曜日の朝、ラギーは子猫を3匹産んだ。

                                (つづく)

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