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『 小銭をかぞえる 』を読んで クズ文学の最高峰

私小説家は、ケツの穴のシワまでを見せる。
そのような文章を読んだことがある。
ケツの穴を見せるのは、とても恥ずかしい。
そこで、ふつうの作家はケツの穴を隠したり、飾りつけたりする。
西村賢太はちがう。
きたないケツの穴のシワをひろげ、読者の目につきつけてくる。
そのありさまは、水戸黄門が印籠を悪人につきつけるように、西村賢太は肛門を読者につきつける。

その汚いケツの穴を凝視できるか、どうか、その汚さに耐えられない読者は本を放りなげるがよろしい。

さらに西村賢太は胸襟をひらき、隠すことなく、己が心のうちを書いている。
虚栄心も自尊心、嫉妬、卑屈、あざけり、嘲罵、羨望、怠惰、薄情、こざかしさ、人嫌いなくせに、女性をもとめる乖離。

他人をけなし、おとしめることで、やっと自我をたもてる矮小な自尊心をもつ主人公。
同居する女性をあやつろうとする、ラフレシアのように腐臭にまみれた言葉。
西村賢太が書く主人公の心のありさまは、上から見ても下から見ても銭と嘘にまみれている汚物。
その汚物ともいえる心のありさまは、クズな私とまるっきりおなじだと気づかされる。
ここまで飾ることなく自分のことをしっかりと書くのかと驚かされた。
と、同時にクズであるところの私の日記を読んでいるような錯覚をおぼえ、叫び声をあげ本を放りなげたくもなる。

自分だけがかわいく、他人を傷つけることにためらいがなく、傷つけ後悔したとしてもすぐに他人が嫌いになる。
そして、徹底的に他人を傷つけることに容赦がない。
とくに『 焼却炉行き赤ん坊 』のラストは血の気がひく。
他人の気持ちのよりどころをためらいくなく引きちぎり、かける、よごす。
異様な光景に、声をあげることも、息をすることも忘れ人間のヘドロともいうべき汚い姿にひきずりこまれた。

西村賢太も私もクズだ。
西村賢太が文才をもたなければ、ただのクズだっただろう、私のように。

なぜ、西村賢太は文才をもてたのか。
藤澤清造の研究に没頭し、没後弟子と自称するまでほれ込み、さらには藤澤清造全集までを発売する。
藤澤清造の文章を推敲することで西村賢太の文才は育ったのではと考えた。
文才を育てたい人は、文章の師匠をみつけ、そして、模写や推敲をしてみてはいかがだろうか。

南木佳士さんも開高健を師とあおいでいた。
西村賢太と南木佳士さんは陰と陽。汚と清。
師をもった二人の作家。ふたりのちがいは師の影響なのか、作家個人のもつ気質なのか。

藤澤清造に弟子いりし、研究し、藤澤清造の全集をだす。
その様子は小説のなかにも書かれている。
そして、全集を発売するために、小銭をかぞえることになる。

そして小銭をかぞえるだけでなく、小銭をあつめるために同居人を傷つける。
同居人をたくみな言葉で誘導し金をひきださせる。
同居人だけでなく親族をも巻きこむ。
主人公である西村賢太しか得をしない同居生活。

文章の行間からは、同居人である女の慟哭が聴こえてくる。
耳をとじたくなるような悲哀あふれる声なき嘆き。
主人公との生活をつづけると不幸のドン底に落ちるしかないとわかっていながら離れられない絶対的矛盾。

女の年を人質のように握りつぶしながら女に干渉する主人公。

クズな男にひっかからないために、クズな男の心境を学習するためにぴったりの小説と言える。
クズな男にひっからない自衛のために西村賢太の『 小銭をかぞえる 』を読むことをおすすめする。

西村賢太の『 焼却炉行き赤ん坊 』と『 小銭をかぞえる 』には同居人の女性が登場する。
主人公は西村賢太がモデルだろう。
同居人の女性に実際のモデルがいないことを祈る、切実に。
もしもモデルがいたのであれば、幸せな生活を送られていることを願う。

西村賢太は、藤澤清造の墓の横で眠りについていた。
2024年の能登半島地震でふたりの墓石が倒れたことを書きくわえておく。

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