Oko

N国H県K市の草深い山里に在住。最近は大河ドラマ『どうする家康』が一番の楽しみ。

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N国H県K市の草深い山里に在住。最近は大河ドラマ『どうする家康』が一番の楽しみ。

最近の記事

どうする家康 第40回「天下人家康」

 第40回で描かれているのは、豊臣政権の様々な矛盾が顕在化していく過程である。秀吉が死んだ後、五大老五奉行の合議制によって運営されていく事となった豊臣政権には、初めから三つの矛盾が内在していた。先ず、前回の「太閤、くたばる」を観れば分かる通り、秀吉には二つの遺言があった。その内の一つは、「…天下人は、無用と存じまする…豊臣家への忠義と、知恵有る者達が話し合いを以て、政を進めるのが、最も良き事かと」と提言する三成に対して「…儂も同じ考えよ。望みは偏に、世の安寧、民の幸せよ。治部

    • どうする家康 第39回「太閤、くたばる」

       この回において、死を前にした豊臣秀吉は次の「天下人」について三度意思表示を行う。それは言うなれば、秀吉の遺言である。それゆえそれを受け取った石田三成、徳川家康、茶々の三人は、その三人の後継者という事になろう。  この三つの意思表示を順に検証してみる事にしよう。秀頼に羽根を渡そうとしていた秀吉が意識を失い、縁側から転落したのは、恐らく慶長三年正月(1598年2月初め頃)の事である。そこから考えて、三成が秀吉の寝所へ駆け付けたのは、その少し後という事になる筈だ。己の死を覚悟し

      • どうする家康 第38回「唐入り」

         第38回「唐入り」で描かれているのは、豊臣秀吉が耄碌し、醜く老いさらばえていく過程である。言う迄も無い事だが、この「醜く」という語が意味しているのは、盛りを過ぎた花が色褪せて萎んでいく様に身体が衰えていくという現象ではなく(それは誰しも逃れられない事であるし、東アジアにはそこに「美」を見出す、という文化もあったのだから)、人間として堕落していくという事態である。秀吉の耄碌は無謀な朝鮮出兵も然る事ながら、彼が怒りっぽくなったという事からも窺う事が出来よう。浅野長政が「唐入り」

        • どうする家康 第37回「さらば三河家臣団」

           小田原征伐により北条家を滅ぼした後(とは言え、北条家はこの後、狭山藩としてその命脈を保つ)、徳川家に関東への国替えを命じた秀吉には三つの狙いがあっただろう。それは先ず第一に、徳川家を馴染み深い旧領五ヶ国から切り離し、領地、領民との特別な結び付きを断つ事である。「一所懸命」(「中世、1か所の領地を命をかけて生活の頼みにすること。また、その領地」『デジタル大辞泉』「一所懸命」)という言葉がある事からも分かる様に、武家にとって自己の所領は何よりも大切なものであったが、家康と徳川家

        どうする家康 第40回「天下人家康」

          どうする家康 第36回「於愛日記」

           「お慕いする人が逝ってしまった」後、二人の子供を養う為、浜松城での勤めに出る事となった於愛に対して、上役のお葉は彼女の両頬を持ち上げ、「嘘でも笑って居なされ。皆に好かれぬと辛いぞ」と助言する。その助言に従い、努めて明るい笑顔を作るようになった於愛は奥女中の「皆に好かれ」るようになり、遂には徳川家正室の瀬名に「良い、笑顔じゃ…あいや、殿の事、宜しく頼みます」と側室としての勤めを託され、瀬名が死んだ後は事実上の正室としての役目を果たすようになる(この回で、正信と忠世が彦右衛門と

          どうする家康 第36回「於愛日記」

          どうする家康 第30回「新たなる覇者」

           信長が光秀に殺された後、織田家の主導権を握り「新たなる覇者」と成ったのは羽柴秀吉であるが、彼は信長とは全く違った種類の権力者である。本多正信の「秀吉は民百姓の人気が凄まじい。みな自分の親類縁者の様に奴の事を思うておる。あれは、人の心を掴む天才じゃ」という評言は、ただ単に民百姓が自分達と同じ(或いはもっと下の)階層から伸し上がって来た秀吉に好感を持っており、しかも秀吉が人心収攬術に長けているというだけの事ではなく、彼が他者の欲望を喚起し、それを己の利益の為に利用する、という特

          どうする家康 第30回「新たなる覇者」

          どうする家康 第31回「史上最大の決戦」

           第31回「史上最大の決戦」は第16回「信玄を怒らせるな」、第17回「三方ヶ原合戦」と類似した所が多く、そこから見て、このドラマにおいては三方ヶ原の戦いと小牧・長久手の戦いとが対比されている、という事が分かる。以下、両者の良く似た場面やモチーフを対比した上で、そこから見えて来るものについて考えてみたい。  先ず第16回には、武田家との戦いは避けられないと見定めた家康が服部半蔵に命じて、武田家の人質となっていた異父弟の源三郎を救出させる、という場面があった。言い換えれば、源三

          どうする家康 第31回「史上最大の決戦」

          どうする家康 第32回「小牧長久手の激闘」

           小牧・長久手の戦いは豊臣政権にとっても徳川家にとっても転機となる戦いであった。この戦いにおいては、十万人とも言われている秀吉軍が三万人の織田徳川軍に惨敗しており、結果として、それはこの時点における豊臣政権の弱みと徳川家の強みとを露呈させている。  このドラマに描かれている初期豊臣政権の弱みとは、池田勝入、森長可といった織田政権有力者の一部が、未だ羽柴秀吉に心服していない事である。小平太が秀吉を扱き下ろす檄文を小牧山城周辺に貼り出した時、勝入はわざわざそれを本陣に持参しただ

          どうする家康 第32回「小牧長久手の激闘」

          どうする家康 第33回「裏切り者」

           第33回の題は「裏切り者」であるが、この回の登場人物の内、徳川家から見て「裏切り者」となるのは、織田信雄、真田昌幸、石川数正の三人である。だが徳川家が秀吉と戦う際、名目上の総大将として担ぎ出されたという面もある信雄や、元々徳川家の家臣ではないのにも拘らず、沼田領を北条家に引き渡すよう迫られた昌幸からすれば、「裏切り者」呼ばわりは不本意であろう。この両者が秀吉によって調略された事は、秀吉と対立する徳川家にとっては痛手であり、忌々しい事ではあっても、彼らは飽くまで一時的な利害の

          どうする家康 第33回「裏切り者」

          どうする家康 第34回「豊臣の花嫁」

           家康がうっかり正信を「数正」と呼びそうになったり、直政が数正について「私は、あの方が好きではなかった」と言いつつも、「敬っておりました」と内心を吐露し、平八郎、小平太も暗に同意していたりする所からも分かる様に、数正の出奔は徳川家中に大きな喪失感を齎した。それゆえ第34回「豊臣の花嫁」は石川数正の出奔という出来事に対する解釈の試みとなる。  1586年9月、家康と重臣達は大政所の岡崎訪問を前にして評定を開き、そこで秀吉の臣下に入るべきか否かについて議論を闘わせる。この一年近

          どうする家康 第34回「豊臣の花嫁」

          どうする家康 第35回「欲望の怪物」

           第35回において最も印象的な場面は、矢張り何と言っても、初登場した石田三成が星を見ている場面であろう。両手を眉の上に翳し、一心不乱に星を観察する三成からは、常人とは違った何かが感じられる。日本でも古来、星を観察する人々は存在したが、彼らの多くはそこに(牽牛織姫の様な)お馴染みの神話伝説を見たり、そこから吉凶を占ったりしていたのに対して、三成は「星を見て、何とします?」という問いに「南蛮では、星々に、神々の物語を見出すと、聞き及びまして」と答えていた事からも分かる通り、そこに

          どうする家康 第35回「欲望の怪物」