悪意なき暴漢にならない事
比較的に天候に恵まれた連休も昨日で終わり。
遠ざけておきたかった現実に、否応なく向き合う平日がまた訪れて界隈からの嘆きが聞こえる火曜日。
私は仕事が嫌いではないので休み明けだから嫌だなぁという気持ちになる事はないが、連休前まで頭の中で描いていたプランの構想がボヤけてしまうのが悩みだ。
あくまで私見であり、データ検証した訳でもないが人間の脳は記憶力と発想力と論理的構築力のトータルを100%とした場合に、各能力の占有率は相当に個人差があるのではないか?と思っている。
何が言いたいかと言うと、私の脳は記憶力がとても低いのだ。
人の顔や名前、約束した事など本当に覚えられない。
だからこそとにかく手帳を携帯し、書くようにしてるのだが手帳の何処に書いたのかを今度は忘れてしまう有様。
記憶10% 発想45% 論理45%くらいで脳が働いてるように感じる。
例えば社内で「どんな人が好みか」と言う話題になった時も、芸能人の顔は浮かぶのだが名前が出てこない。
「あのドラマの…ほら、NHKの…3年前くらいの朝の…」
みたいな感じで、名前を思い出すのも一苦労なのだ。
仕事でも多くの人と名刺交換をするのだが、中には
「ポテけんさんに名刺貰うの三回目ですよ(笑)」
なんて事もしばしば起こる。
「7枚集めたら願いが叶いますから!」
とその場は誤魔化すのだが、記憶を辿っても名刺交換した記憶は全くないのだ(汗)
海馬が壊れてるのか、大脳新皮質がしょぼいのかわからないが、いいお薬はないのだろうか。
批判なのか疑問なのか
普段から公私に関わらず、私が肝に銘じている事がある。
「疑問があれば、その答えを持ってる人に聞く」
「批判は本人にしかしない」
この2点だ。
先日こんなことがあった。
うちの子供はバスケットボールのクラブチームに所属してるのだが、土日は毎週試合や練習で必ず移動がある。
先日は島根県松江市で二日間の大会があったため、子供は勿論宿泊になり、保護者も任意で宿泊する人達がいた。
二日間で7試合をこなすのだが(1試合約30分)、レギュラーでもなければ試合に出る時間は少ない。
中には計210分の試合時間で数分しか出られない子供もいる。
そう言った子供の親御さんは遠征にはほとんど来ない(時間と費用が嵩む割に試合に我が子が出ないのは割と苦痛だからだ)。
今回、そういうレギュラーではない子供の親御さんご夫妻が宿泊して二日間とも会場に応援に来られていた。
それに対し、私の身内がこういったのだ。
「たった数分しか試合に出ないのに、なんでわざわざ夫婦で泊まりがけでくるのか不思議」
恐らく他の保護者もそうだったのだろう。
「そうだよねー」なんて賛同していた。
これはすごく危険だなと感じた。
否定はどんな状況でも可能な暴力
少し雰囲気悪くなるかも知れないなと思ったが、そのままでは良くないと思って私は少し話をした。
「じゃあご夫妻が来なかったらどうしてた?」
「我が子の出番がたった数分だとしても、普通見に来るよね!っていう論理で否定するんじゃないか?」
皆一様に推し黙った。
否定ありきで着地点を決めて人を批判するのは、情けない。ただの暴力だ。
ご夫妻が参加してるなら
「数分でも応援に来てくれたら子供は嬉しいよね」
でいいのだ。それとも、本気でなぜ来たか理解したくて言ったなら本人に聞けばいいのだ。
疑問の体裁を借りて暗に否定し、その場で仮想敵を共有することで味方を作ろうというのはあまりに稚拙で罪深い。
会社でもSNSでも同じ
これと同じ事は会社でもSNSでも毎日見聞きする。
叩こうと思えば、例え対象が大谷翔平でもイチローでも幾らでも叩ける。
何故なら完全な正義など何処にもないからだ。
そして肯定しようと思えばどんな状況でも肯定できる。
完全な悪もまた無いからだ。
例えば、某国。
独裁政治で軍備増強し、バンバン日本海にミサイルを撃っている。
「狂ってる!滅んだらいい!」
なんて声が圧倒的だろう。否定は簡単だ。
しかし以下の内容を加味するとどうだろう。
⚪︎地球の自転の影響でミサイルは日本海にしか撃てないという事実。
⚪︎日本の中枢は何処にいつミサイルを撃つのか双方承諾済み
⚪︎武威を示して無ければあっという間に国家が滅ぶ状態
⚪︎仮に滅んだら、そこは確実に中露の領土になる。日本は確実に今より危機的な状況になる。
こうなると、まだ今の方がマシだと(肯定できる)思えるのでは無いだろうか。
批判する立場にない事を理解する
私を含め、ほぼ全ての人は判断を頻繁に間違えるものだ。
今の自分の社会的立場を見てみるとわかりやすい。
莫大な資産をゼロから築けているだろうか?
ノーベル賞の候補になった事は?
将来、日本の紙幣に顔が描かれる可能性は?
もし常に判断を間違えてないなら、そのくらい成功してるはずだ。いまその場所にら辿り着けていないならば、必ず何度も何処かで判断を間違えて生きてきたのだ。
だとするなら、他人を批判する権利はないと私は思う。自戒を込めて。
批判する者は、悪意なき暴漢だと思う。された者はひどく心を傷める。
人の心を痛めつけて得られるものはない。生産性もない。
それならばなんとか褒めるところを見つけたいと私は思う。
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