餃子 1
目が覚めた時、自分がどこにいるのか全く分からなかった。
「こちらですよ」
という女性の声がして、金属的な音がした。部屋のドアが開いて、看護師さんと共に入って来た男の人が誰なのかもさっぱりわからなかった。
その人は若いけれど自分より少し年上の、20代前半ぐらいだろうか、白いポロシャツに黒いズボン。真面目そうな印象だったが、表情には強い陰りが見えた。
誰だろう。
誰ですか、と聞こうか迷った時、向こうが先に口を開いた。
「父さん……」
父さん?
父さんって、何だ?
僕は。そうだ。
僕は砂霧翔太、高校生だ。
昨晩はテストの点数がよくなくて、カラオケで発散して、帰ったら声がガサガサになって、「なにやってんだ」とテストのこととダブルで父親に怒られた。
見知らぬ彼は、心配そうにこちらを見つめている。
「あの……、あなたは、誰ですか」
ほんとすみませんが、みたいな感じで言うと、彼は軽くショックを受けて、それからがっかりした顔をした。
「僕のことを覚えてないみたいです」
彼は、僕ではなく看護師さんに向けて言った。
「頭を強く打ったみたいなので、後遺症があるかもとは言われているんですが」
「頭……?」
それを聞いて試しに軽くゆすると、強い痛みが走った。頭部に触れると、包帯がぐるぐるに巻かれている。あわてて看護師さんが駆け寄ってきた。
「あっ無理しちゃだめです。カイトウしたんですから」
「カイトウ?」
「頭蓋骨を切って開いて、脳の手術をしたんです」
なにそれ無茶苦茶。
「自分の名前が、分かりますか?」
看護師さんが、僕に向けて言う。
「砂霧、翔太」
「階段で転んで落ちたことは覚えていますか?」
「ぜんぜんわかりません」
「こちらの、息子さんのことは分かりませんか」
「……、すみません、僕はそもそも、まだ高校生なのですが」
そう言うと二人の顔色ははっきりと変わった。それを見て、とても申し訳ない気分になった。
それになにやら頭は痛いし、ぼうっとするし、気まずいし、現状がわけが分からないし、僕はとても参っていた。
「……また来ます」
そう看護師さんに頭を下げて、僕の息子という男性は家に帰り、それから僕は看護師さんや先生にテストや質問攻めにあった。
生年月日、年齢、干支、日付、住所、などなど。簡単な計算なんかもさせられた。ガンガン音が鳴る機械に入る検査もはさんだ。
僕はそれにじっと耐えながらただ「早く家に帰りたい」とだけ思っていた。
帰って、また自分の部屋で寝っ転がって、ゲームして、友達にラインして……。事故にあったのなら父さんに「心配したんだぞ」って怒られて、謝って、母さんの料理を食べて……。ハンバーグとか、からあげとか積み上がったやつを。
そうだ、父さんと母さんは……。何がどうなっているのか分からないけれど、息子が病院で頭を開いたなら、見舞いにぐらい来るはずなのに。
息子。そうだ、あの息子という青年は誰なのだろう。もし僕の息子というのなら、奥さんもいるのだろうか。
そしてあの年の息子というなら、僕は。
そうだ、そうすれば何かがわかるじゃないか。
衝動的な強い不安にかられ、僕はナースコールを押して、「鏡を見せてください」と看護師さんに頼んだ。
見たとたん、ヒュッ、と息を吸い込むような悲鳴が出た。
そこにいたのは自分のいつもの高校生の顔ではなかった。頭や顔はひどく腫れ膨らんでいた。しかしもとの皮膚にはシミや皺が刻まれている。確実にそれは中年の男の顔だったのだ。
嘘だ。
嘘だ嘘だ、嘘だ。
手はごつごつそして、血管が浮いている。
見ると全身が、昨日までと違っていた。
どうなっているんだ、何がどうなっているんだ。
僕はすがるように看護師さんを見て、「怖い、一体なんでこんな、怖い」と繰り返した。
看護師さんが、「精神科への予約を入れてありますから」と言っていた。
精神?
どうかしてしまったのは、僕の『中身』のほうなのか。
昨日は、何もなかったのに。
ただカラオケで喉を少しつぶして夕食を食べて、眠って……。
それで何故、目が覚めたら、中年の男になって息子がいて、頭蓋骨が切り開かれているんだ。
それからゆっくりと、僕は理解した。というか周りにさせられた。もはや「あなたはこうなのよ」という、説得に近い。
僕の名前は砂霧翔太。47歳。
息子が一人いる。
酔って階段から滑り落ち、頭を強く打った。
中が出血したので、開頭手術して、出血を止めた。まだひどく腫れている。
そのダメージで、記憶に障害が出たらしい。
運動機能は、奇跡的に影響がない。
おそらくいるはずの、奥さんや、僕の両親は、と聞いたが教えてもらえなかった。
何か、不幸でも起きたのだろうか。
手元にスマホが無かったので、「僕のスマホは……」と看護師さんに聞いたが、少し逡巡があった。どうやら今はスマホはスマホと言わないらしい。そうだ、三十年も時が経っているなら、いろいろ変わっているはずだ。
ということは、僕は未来に来ているのだろうか。精神的にはだが。
社会はいろいろ変わっていて、常識が通じないのかもしれない。外に出るのが怖かった。
息子という人は一週間に一度ほど来て、着替えやティッシュなど必要な品を置いていったり、先生の話を聞きにきた。
「あの……、迷惑かけて、ごめんなさい」
彼が来るたびに僕がそう言うと、彼は少しだけ笑って、「生きてるだけで、いいから、十分だから……」とだけ小さく言って、短めに去っていった。
僕の息子だという彼の名前は、リョウというらしい。
それも彼に名前を聞くチャンスがなく、看護師さんに聞いた。なんという漢字を使うのだろう。砂霧リョウ。
退院したら、彼と二人で暮らすのだろうか。
不安だった。
もしかしてもう二度と、あの両親のいる元の家には帰れないのだろうか。
悩んでも悩まなくても、何もしなくとも時は経つ。
体は回復し、ついに退院することになったが、あまり喜びはなく、不安だけが募った。
聞くと僕は会社に勤めていたが、息子と先生、会社との話し合いの中で本人も知らぬ間に離職することとなったらしい。
正確には「こうするけどそれでいいか」と聞かれて、「うん」としか言いようがなかったのだが。
なにしろ僕には自分が何の仕事をしていたかも、全く分からない。
これからどうしよう。まさか高校に行けないよな。コンビニのバイトとかならできるかな……。と思ったが、長い入院生活で、身体はすっかりと弱っていた。退職手当をもらいながら、様子を見ることになった。
さて。
退院の日、息子のリョウくんは車で迎えに来てくれたので、驚いた。
「運転、うまいね」
そういうと、「車は父さんのだけどね」とまた小さく笑う。
ようやくちょっとした会話は交わせることができるようになってきてはいたが、二人の間にはまだ距離があり、まだ大事なことは聞くことができなかった。
家族のこと。特にリョウくんのこと。僕の妻や、両親のこと。二人でどうやって暮らそうかということ……。
ほぼ無言のまま、全く見知らぬ家に着き、見知らぬ部屋に案内されて、僕のだというベッドに寝転んだ。ひどく疲れていたが、これからどうしようという気持ちで眠れはしなかった。
考えた末、がばと起きて、手紙を書くことにした。
机にはペンやコピー用紙があったので、そこに思いついたままを書きだす。字は汚いし文は乱雑だが、気になるならあとで書き直せばいい。
とにかく、知りたいことを箇条書きにして、そして僕の気持ちを書いた。
ぐちゃぐちゃのそれは、清書してもたいしたこと改善はなかったが、とにかく封筒にも入れず、「リョウくんへ」と書いてたたみ、リビングのテーブルの上の真ん中にバーンと置いた。
そして気が済むと眠気が襲ってきたので、やっとベッドで眠った。
リョウくんへ。
君にとって、そしてこの世界にとって僕は君の父親で、47歳の中年の会社員だったみたいです。
けれど、肝心の中身の僕はこの間まで17歳の高校生で、テストで悪い点を取って父親にどやされていました。
目覚めたら頭は割れていて、息子ができていて、30年後の未来に来ていて、とても混乱しています。たぶん街に出れば、何もかもが変わっているでしょう。
どうやって生きていけばいいのかわかりませんが、なんとか自分が慣れながら、(今でもあるなら)コンビニのバイトなどして働こうかと思っています。
そしてリョウくんがよければ、一緒に住んでくれると嬉しいです。僕には分からないことばかりなのでたくさん教えてほしいし、家事はやったことがないけれど、頑張って覚えます。
そしてリョウくんのことを、もっと知りたいです。どんな字でリョウというのかも、僕は知りません。どうやら父親なのに。
そして一番知りたいのは、僕の両親と、奥さんのことです。病院では誰も教えてくれませんでした。
もし不幸なことになっていても、大事な人たちのことだから、僕は知りたいと思います。
どうか、返事を書いてください。お願いします。
砂霧 翔太
目覚めると、昼に眠ったのに真夜中だった。よっぽど疲れていたのだろうか。
リビングに降りるとテーブルの上にラップをした食事と、手紙が置いてあった。
父さんへ。
僕は砂霧亮。この字を書きます。漢字をつけたのは父さんの父親、おじいちゃんだと聞きました。リョウという呼び名は母さんがつけたらしいですが、字はおじいちゃんがこれならなんか三国志の諸葛亮に字面が似てるとかなんとか言ってつけたそうです。
僕は浪人生で、父さんの入院中に受験が終わり、受験の結果はまだ出ていません。だから今は何もしておらず、ヒマな状態です。
僕の母さんと、父さんの両親、おじいちゃんおばあちゃんのことはうまく書けそうにないので、朝になってから直接言います。
僕は八時ごろ起きます。
食事はチンして食べてください。
砂霧 亮
しばらく何度も、その見慣れない字をたどり、ぼーっとしていた。
とりあえず、彼と手紙で意思疎通ができてよかったと思う。
安心して、空腹を感じた。さてチンしようか、今でもチンするっていうんだなと思ったとたん。
線香の匂いを感じた。
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