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「ソーシャル・エクスペリメント」 第3話

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被験者1、日本国: 森永 秀太郎 (チル)
場所:パリ

 大竹明、との待ち合わせはノートルダム寺院の近くのカフェだった。シェイクスピア&Coという古本屋さんでカフェも併設されている。少し早くついたので中の本屋を覗いてみた。狭い階段を登ると二階にもぎっしりと本があり、学生らしきおしゃれな若者たちがポツポツと中のソファーに腰をかけて本を読んでいた。

 住所を調べるときにWikipediaのページが出てきたので調べてみたら、本の販売だけじゃなく1万冊の蔵書を持つ英語文学専門の図書室併設している。創業者はアメリカ人のシルヴィア・ビーチという人で、若いライターに無料で宿を貸したりと、英語の文学をパリに広めた人と行っても過言ではない。

 美術館系の写真の本が並ぶので、当てもなくそれをパラパラと見ると、携帯のメッセージが入った。「着きました・アキラ」と入ってきた。

 外に出ると、メガネをかけた背の高くすらっとしているアジア人がいたので、アキラさんだな、と思った。「すみません、森永です」と挨拶をすると、メガネの横を押さえながらお辞儀をしてくれた。

 そのままテラスの席に着席して、二人ともカフェを頼む。どこから話を切り出せば良いのか分からず、出てきたコーヒーをすする。

「あの、そのプロジェクトなんですけど。多分同じプロジェクトに参加してますよね?なんか知っていることってありますか?」

「僕も、何も聞かされずにこっちに来たから、知っていることも少ないんです。いつ終わるとか、いくら支払われるとか。森永さんはどうですか?」


「僕も同じです・・あ、さん付けじゃなくて結構ですよ、チルって呼んで下さい」そしてまたコーヒーをすする。

 同じプロジェクトに参加していても結局、わかることが少ないと話も盛り上がらない。

 結局、何も話が盛り上がらないまま、お互いのパリ生活について少し話して解散した。カフェの向かいがノートルダム大聖堂だったので、中を見学することにした。

 ノートルダムは、パリが発祥した場所と言われていて、そこをスタートに一区が始まる。ノートルダム、は我々の聖母マリア、という意味で、世界中に同じ名前の教会や聖堂があるので、正確にはNotredame de Paris、パリのノートルダムと言わなければならない。数年前の火災で入れない場所があったが、中は広く、壁画や天井などが立派だった。賽銭、といえばいいのか、お金を入れてキャンドルに火を灯す。これをやると、どうしてもパンパン、と手を二回叩いてお願い事がしたくなるのだが、とりあえず手を合わせて祈ってみる。何を祈ろうか、このプロジェクトが無事に終わりますように?でも終わってしまったらカリーンに会えなくなるのは悲しいな、と思った。この間のパーティーで、髪をおろしているカリーンを思い出した。普段は結んでいるウェーブのかかった髪を下ろして、ほんのりいい匂いがした。

 祈っている途中でこんな不謹慎なことを考えてしまい、十字架に磔られているキリストに恐縮して、もう少し賽銭箱にお金を入れて、聖堂を後にした。

 ノートルダムを後にすると宛てもなくセーヌ川のほとりを歩く。しばらく歩くとルーブル美術館が見えて、チュルリー公園があって、コンコルド広場が見えてくる。そしてさらに真っ直ぐ行くとシャンゼリゼ通り、凱旋門まで長い一本道だ。歩いたら二時間くらいかかるが、歩けない距離でもない。

 今日は、いや今日も、と言った方が正しいのか、特にやることもないからこのままフラフラと凱旋門まで歩いてもいいかな。

 コンコルド広場を抜けると緑が多いエリアに差し掛かる、左手にはグラン・パレや美術館が右手にはエリゼ宮、大統領が住む家か。

 フランスの大統領はこのプロジェクトを知っているのか、もちろん国の最高責任者だから、一応、大統領の責任で僕たちはこのプロジェクトに参加していると思うと少し面白く感じた。

 ここに植えてある木はとっても高く、幅も形も統一されていて美しい。フランスの庭園は自然を加工して幾何学的な左右対称の美しさを作り、日本庭園は不規則な形で左右対称ではないが、その不規則に見えるが、整った規則がある、という複雑な美意識がある、というのをインテリアの授業で習った。それをまじまじと体験できるのは、すごく貴重な経験をしているな、と思えた。

 公園を抜けてAvenue Montagneが交差する道で、遠くの方にモンマルトルが見えた。坂の上なのでこういった交差点などで隙間からひょっこり顔を出すことがある。写真に撮ってみたが小さすぎて、あまり意味がなかった。

 シャンゼリゼ大通りは高級車のウィンドウがあったかと思うと、ファストフードの店や、ハイファッションの洋服屋、スーパーや高級ジュエリーなど色々な種類の店が並ぶ。強いて言えば、上に行けば行くほど高くなる感じがした。なんでも買えると言われていた通り、と資本主義社会が融合した場所だな、と感じられる。どこの首都に行っても同じ店が並ぶので、パリであろうが、出張で行ったロンドン、マドリッドも同じ店が並んでいたのを思い出した。

 歩き疲れて、帰りはメトロに乗る。またあの生臭い匂いとそれをかき消そうとした消臭剤の混ざった匂いがする。最初は息をするのも苦しい、と感じる匂いだったが、最近は「あの、なつかしい感じの匂い」と特定できるようになった。どことなく動物のような匂いだ。

 そうだ、帰ったら猫に餌をやらなきゃな、そういえばキャットフードも買っておかなきゃ、と急に思い出した。


被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:パリ

 森永さん、いや、チルと短く会った後は、シェイクスピア&Coの図書館の方に寄った。ここでは貴重な本が、貸し出してはくれないが、観覧が可能だ。だから仕事ついでに来れるこの場所を指定した。

 思っていた通り、彼もプロジェクトについては何も聞かされていないし、人数も何人いるか分からない。多分自分たちだけでなく、他の人もいるかもしれないが、パリにいるとは限らない。この間見つけた在仏日本人のウェブサイトで問いかけてみたらもしかしたら見つかるかもしれないが、見つけたところでチルのように何も知らないから、何人集まっても謎のままだろう。

 それよりも、なんとも美しいこのオリジナルの翻訳版だ、有名なドイツの哲学者の資料を英語に訳したオリジナルの本だが、だいぶもろくなっているので気をつけて扱う。色々な学術論文に引用されているからデジタル版はパソコンに保存してある、しかし、こうやってオリジナルの本が生で見れるというのは感動ものだ。広辞苑の最初の出版を手に取ってみた感じだ。

 その他にも気になる本を色々と見ていたらもう夕方になって、図書館は閉まる時間になっていた。

 外のカフェにはワインを飲みアペリティフを飲む人たちが集まる。携帯を出すとクロエから、チルと会えた?よければ大学の近くでアペリティフをしているから来て、というメッセージがあった。今終わったから向かうね、と返事をする。セーヌ川の向こうに見える夕日が川の流れをキラキラと反射させて美しかった。


政府極秘調査「ソーシャルエクスペリメント」本部

吉田 稔 研究員


「吉田くん、その後の堀内くんとフィリップの様子はどうだ?」

 堀内夏希とフィリップ・ブエに、ビタミン剤と言って渡した、未発表の抗うつ剤を毎日摂取するようになってから二週間が経つ。


「お二人とも順調な様子です。堀内さんは創作活動にのめり込み、フィリップさんは活発に日本のいろいろな所を旅しています。エネルギーに満ち溢れた生活をしている、という報告を頂いております」

「そうか!でかした!副作用等の心配もなさそうだな」

「今のところはそうですね。お二人の中では副作用がなさそうです」


「ではいよいよ、全員に投与するテストをしてみようじゃないか。残りの3人、森永、マリ・ロー、大竹くんにも現地の医者を派遣して、抗うつ剤を出しておきなさい。作用や副作用の研究には沢山のサンプルが必要だからな」

「もうちょっと待ってからの方がいいと前回おっしゃってませんでした?一般のうつ症状がない方への投与の研究結果はロシア側から出ていませんし」


「こういう結果は時間の勝負だからな。フランス側にも了解をとった。彼らがプロジェクトの最初にサインした契約書にも万が一薬の投与で副作用が出ても私たちを告訴することはできないようになっている」

 吉田研究員は苅野先生を見ながら、彼の四方八方に飛び散る髪の毛からマッドサイエンティストとしてマッドとあだ名をつけたが、本当にちょっとイカれているところがあるな、と感じた。

 この研究は未だかつてされていない、未知の世界の領域に踏み込んでいる、という研究者としての欲望もかられている。ここで鬱の改善、鬱の症状がなくとも副作用がない、という事がわかればノーベル賞が一気に近くなる。ロシアでも同じように研究が続けられているので、ここは誰がいかに早く、正確に結果を出せるかの時間の勝負だ。

 フランス側にはパリにいる森永と大竹に薬を渡すように指示のメールを出し、マリ・ロー・シャヴィエーの最後のレポートによると現在は静岡の富士山近辺にいることがわかった。よし、遠くないぞ。


 急いでマリ・ローが宿泊する予定の宿の位置を調べ、夕方に出発する新幹線で静岡に向かえるように準備をする。

「あの、苅野先生、夕方に向かうので、このマリ・ローさんが泊まっている宿で一泊することは可能ですか?」

 屋上の露天風呂から富士山が一望できる、という旅館だからちょっと泊まってみたく、ダメもとで聞いてみたが、

「何を言っとる!新幹線がなかったら夜行バスでもいいから帰ってこい!」

 やっぱりマッドからは承認が降りなかった。


被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:静岡県


 旅館についてからすぐ、黒いスーツをきた男性がお待ちです、と言われた。

 旅館のロビーの奥の方に案内されると、若い日本人の男性に挨拶される。

 吉田、という名前だそうだ。上手ではないが、コミュニケーションが取れる英語で話を続ける。プロジェクトの関係者で、健康状態のチェックにきた、と言っていた。私の睡眠や食事、精神状態はどうだと細かく質問された。

「食事はそろそろご飯ばかりでなく、パンやパスタが食べたくなったわ、でも十分に満足できている。色々と旅ができて、すごく充実した日々を過ごしているわ。夜も最近はベッドのある旅館にしたけれども、布団でも十分寝れているわ。やっぱり一日中観光をしていると疲れるからどこでも寝れるようになるわね」と答えた。


 吉田さんは、そうですか、と言いながらカバンから瓶に入ったカプセルを取り出した。「被験者さんの健康状態がこちらでも気になっていたので、大したものじゃありませんがビタミン剤を渡しておきます。観光や移動でお疲れでしょうからきちんと体調管理をお願い致しますね」


 そう言って彼は宿から出て行った。

 錠剤はカプセル錠になっている。旅館に着く前に、駅の近くの売店で買ったペットボトルのお茶があったので、ビタミン剤なら、と思い一錠飲むことにした。



被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:パリ


 いつものように図書館で仕事をしていると、黒づくめの二人組がやってきた。受付にいたクロエはビクビクしながら僕が二人と外に出るのを見守った後、すぐにテキストで「大丈夫」というメッセージがきた。自分自身にも何が起きているか分からないが、とりあえず話は聞くだけ聞こう。

 外に出ると快晴だった。こんな日に図書館に籠るのももったいないくらいの天気だった。パリではしょっちゅう雨が降るので、こういう天気の時には皆が外に出て公園で日向ぼっこをしたり、テラス席が満席になる。二人組はあえて人がいないカフェの中に座ろう、と言った。やはりプロジェクトとして進んでいるので周りの人に聞かれてはまずいのだろう。

 二人組の男性の方は流暢な日本語でしゃべり、女性の方は医者だと言った。健康状態の話を聞かれたが、特に困っていることはない、というとそうですか、と言ってビタミンの錠剤を渡された。「食生活が日本食と変わりましたので、今は体調が良くても栄養不足になっているかもしれません。よければこれを毎日飲んでみてください」と言って、二人とも帰っていった。

 クロエには問題なかった、とメッセージを入れる。すると「休憩時間になるし、外は晴れているから一緒に散歩しない?」とメッセージが返ってきた。今日は朝からずっとパソコンに向かってブログをアップしたり文献を読んでいたので疲れていた。気分転換にちょうどいい。


 国立図書館から坂を降りて、Pond de Talbiacを渡るとBercy 公園に入る。公園の中ではピクニックをしている学生らしい人がたくさんいて、大きなシーツを芝生の上にひいて、水着で日焼けをしている生徒もいた。水着なのか、もしくは下着なのか分からないが、じっと見たらクロエに変に思われたら嫌なので、見ないようにしてそこを歩く。公園を抜けるとCours Saint Emilionというちょっとシックなショッピングエリアに出た。

おしゃれなワインや雑貨屋さんが並ぶ通りを抜けると、大きなカフェがあった。「ちょっと休む時間ある?」とクロエに聞いてみた。

「どうせあなたがいないと暇だから、いいわよ」と笑いながらクロエは答える。

 クロエはさっきの人たちは誰だったの?と聞いてきた。

「僕にも分からなくてね、でも僕が参加しているプロジェクトの運営の人で健康状態を気にされて、お医者さんがビタミン剤まで出してくれたよ」そう言って、さっきもらった瓶をクロエに見せる。


「あなたはプロジェクトで、なんの為に来ているのか分からない上に、こんなもの飲まされているの?人体実験じゃないでしょうね」クロエはそう言いながら錠剤の瓶を興味深く観察する。人体実験までは言い過ぎだとしても確かに、頼んでもいないのにこれを飲め、というのは少しおかしい感じがした。

「でもフランス人はお薬大好きだからね、ちょっとした風邪でも何種類も薬が出るし、私の両親の家なんて小さな薬局が開けちゃうんじゃないかってほどなんでも薬が揃うの」

 コーヒーを飲みながら二人で色々な話をした。クロエは話しやすく、安心させてくれる。たわいもない話なんだけれども彼女と喋っていると心の底から暖かい感情が湧いてくる。

「いっけない、そろそろ行かなきゃ」そう言って立ち上がろうとするクロエの手を取った。どうしてとっさに手を取ったのか分からなかったが、多分行ってほしくなかったんだと思う。そしたらクロエは微笑んで、そっとアキラのほっぺたにキスをした。


被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:静岡県


 頭が重い。起きた時にそう感じた。

 いや、頭は重い、というかガンガンする。反対に体は元気でエネルギーがみなぎっているさ。Restless leg sydrome, そう、むずむず脚症候群の感覚だ。頭は眠いのに、体が休みたくない、ムズムズしている感覚だ。


 マリ・ローは目を擦り、重い頭を起こそうとゆっくりと座った。洗面所に行き、顔を洗うと少しスッキリしたが、なぜか二日酔いのような頭の痛みがある。もしかしたら朝風呂で目が覚めるかもしれない、そう思って、朝食を後回しにして大浴場に向かうことにした。


 マリ・ローはエレベーターが嫌いだった。待つ時間が嫌いだし、閉鎖的な空間も苦手だった。大浴場は5階だったのでいつものように階段で登ることにした。

 それにしてもひどい頭痛だ。階段を一歩ずつ登るごと、頭痛も重くなる感じがした。


 大浴場に着くと脱衣所に腰掛けながら服を脱ぐ。立っていると倒れそうなくらい頭が痛い。シャワーを浴びて、浴槽に入る。富士山の景色に癒され、気分は少し良くなったが、やっぱりまだ完全ではない。部屋に戻り、チェックアウトの時間になったが、今日はこのままもう一泊この宿に泊まることにした。


被験者1、日本国: 森永 秀太郎 (チル)

場所:パリ

 朝起きたら、大竹明からのテキストメッセージが届いていた。「君のところにも黒ずくめの二人組が来たか?」と聞かれた。黒ずくめの二人組?誰の事だろう、と思っているとドアをノックする音がした。

 扉を開けると黒ずくめの二人組が立っていた。アキラが言っていたのはこの二人のことか。部屋に通すと健康状態の話を聞かれ、食事のバランスが気になる、と言われビタミン剤を置いていった。

 二人が出ていくとすぐアキラに連絡する。「今、帰ったところだ。なんかビタミン剤を渡された」

 「俺も一緒だ、ビタミン剤を渡された。なんか怪しくないか?」とすぐ返信がくる。

 ビタミン剤が怪しいか、と言われると、別にそうは思わないが、ビタミン剤をわざわざ黒ずくめの二人組が渡しに来ている所は怪しいと思う。

 「アキラはもう飲んだのか?」

 「いや、まだだけど。なんか胡散臭いよな」

 「どうする?飲んでおかないと日記に書けないし」

 「俺は多分適当なこと書いておくと思う。エネルギーが増した的な」

 チルはビタミン剤のボトルと睨めっこする。取り出してみるとカプセル錠になっていて、中に粉みたいなのが入っている。普通のビタミン剤っぽいが、何個か取り出してみると一つの錠剤の周りに少し粉が付いている。

 なんとなくだが、錠剤のボトルをみても、ちょっと粉が漏れている感じも、なんとなくだが工場で作られている感じがしない。なぜこんなものを持ってきたのか、そして飲む必要があるのか。

 でも飲みませんでした、と言ったらプロジェクトから降ろされるのか?アキラのように適当な事を書けば良いのかもしれないが、それがバレてしまったら・・・支払いも無しで急に帰れと言われたら、この期間が全部無駄だったことになる。

 ちょっとカプセルの周りに付いていた粉を舐めてみる。もし変な薬だったら今夜具合が悪くなるかもしれないし、そうでなければ明日半錠だけ飲んでみよう。そうだ。ちょっとずつやれば問題ないと思う。

 それで数日様子を見ながらビタミン剤をちょっとづつ飲みましたとレポートできる。自分の身を守りつつ、相手の言うこともしっかり守ることが出来そうだ。


被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:静岡県

 一日休んだら具合が良くなったので、翌日にはまた大浴場に行き、富士山の景色を堪能し、朝ごはんを食べて荷造りをする。

 旅の疲れが溜まっていたのだろう。

 部屋を見渡すと黒いスーツの男、そうだ、吉田という男だ、が置いていったビタミン剤の瓶がベッドサイドテーブルに置いてあった。忘れるところだった、と思ってスーツケースに入れる。

 そういえば、具合が悪くなる前日にこれを飲んだな、瓶の蓋を開けてみて匂いを嗅ぐ。なんとなくだが、工場で作ったような精巧さがなく、なんとなく雑、な感じと言ったらいいのか、均等ではない、という気持ちになった。

 昨日寝込んでいる時は、頭痛と合わせて何もかもが真っ暗な感じがした。何もしたくない。熱がある訳でもなく、ただただ何もしたくない。

 なんとなく、うつの症状に似ている、と思った。数日前にフランスの新聞社・ル・モンドで読んだ、抗うつ剤が開発されたニュースが頭をよぎる。

 ビタミン剤を飲んでうつになるわけが無い、ただの旅の疲れだろう。

錠剤をスーツケースにしまい、次の目的地へ向かう。

被験者1、日本国: 森永 秀太郎 (チル)

場所:パリ

 鏡を見ながら歯磨きをしていると、前髪に白髪を見つけた。

 ストレスが溜まっているのかな、うまく左手で髪を抑えながら、右手で抜く。白髪は抜かない方がいい、抜いてしまうと増えると聞くが、実際は増えることはないらしい。ただ、そこから生えてくる毛はまた白髪である事がほとんどなので、同じ位置に白髪が生えてくるのはそのためらしい。

 それにしてもそろそろ髪を切らないと。とは言っても、フランス語が全く喋れない状態で床屋に行くのも勇気がいる。

 身支度を整えて、またカリーンのカフェへ向かう。最初は書くのに二時間はかかっていたレポートは今では三十分もかからずに書けるようになった。渡されたビタミンの錠剤は半錠づつ飲んでいたが、身体の変化は全くない。すこぶる元気にやってますと書いてパソコンを閉じる。

「ヘアードレッサー?ドゥユノー?」美容師を知らないか?相変わらずカタコトの英語でカリーンとやりとりしている。カリーンは金髪のクルクルのウエーブを指でなぞっていた。あんなに美しい髪の毛を触れるとは羨ましい、と思いながらどこかに白髪が潜んでいるであろう自分の真っ直ぐな前髪を同じようにいじる。そうするとカリーンが前のめりになって僕の前髪を触りながら吟味し始めた。

「私が切ってあげてもいいけど。よくフラットメイトの髪を切るし」と僕の前髪を見つめながらそう言った。カリーンに髪の毛を切ってもらえる、ということは彼女の家に遊びに行ける、という事か。もしくは彼女がうちに遊びに来てくれる。どちらにしろ、二人で時間を過ごせることにウキウキしていたが、それを見せないようにクールに返事をしたかった。「サ、サ、サンキュウ」最後のウの声がうわずってしまった。クールでもなんでもない、前髪を触られて緊張したばかやろうの返事だった。カリーンはクスッと笑って、七時に上がるから迎えに来てね、と言った。彼女の笑顔にキュンとする。

 約束の時間までにアパートに戻り髪の毛を洗うことにした。このアパートの給湯器はものすごく小さいのか、他のアパートの住人と共同だからなのか、お湯がすぐ切れる。だから髪の毛が濡れた後に、シャンプーの間はシャワーを止めておく術をあみ出した。そうすると、髪の毛を洗い終わった後にもまだお湯ですすげるからだ。もちろん湯船はない。あった所で汚れが気になってゆっくりとは浸かれないだろう。

 カリーンを迎えに行き、彼女のアパートへ向かう。メトロを乗り継いで、降りた駅前のスーパーに寄る。「髪切った後ご飯食べるでしょ?」と言いながらカゴにパスタやサラダの袋を投げ込むカリーン、そしてワインのセクションで立ち止まる。

「赤と白、どっちにしようか」

 フランスに来てからワインを飲む機会が増えたものの、知識は全然増えていない僕は、赤でも白でもあるものを飲んでいた。「エブリシング!」と棚を両手いっぱいに抱えるような仕草で、全部!とおちゃらけてみる。カリーンはケタケタ笑っている。そしてアルザス産の白ワインを手に取る。「美味しいのよ、これ」と行ってレジに向かうので、慌てて後ろから追いかけてカードを差し出した。髪の毛を切ってもらうんだから食事代くらいは出させて欲しい。

 カリーンのアパートのビルにはエレベーターがついていた。結構上の階まで荷物を持っていく覚悟をしていた分、ほっとする割合も大きかった。部屋は綺麗に片付いていて、フラットメイトの子が食事をしている所だった。「彼女はアミーラ。こちらはチル、よくカフェに来てくれるお客さんで、これから彼の髪の毛を切るの」カリーンは今買った食材を手際よく冷蔵庫につめながら言う。

 アミーラは長い黒髪にウェーブがかかって、目も大きく、眉毛も立派で中東の美女をスケッチしたらこういう容姿にするだろうな、という顔立ちだった。「ボナペティ」ー食事を楽しんでね、と声を掛けると、カリーンに続いて隣の部屋へ入る。

 アミーラが食事をしていたキッチンの隣にはソファーが置いてある小さなリビングルームだった。「ちょっとそこに座ってて。ハサミを取ってくるから。というと、カリーンはその奥の部屋へと消えていった。部屋から新聞紙とハサミ、それから椅子を一気に持って出てきたので、慌てて駆け寄って手伝う。

 カリーンのハサミ使いはお世辞にも上手、とは言えなかったが、髪の毛は短くなった。何より、彼女が切ってくれた髪型だから不細工でも嬉しかった。襟先だって手で触った感じだとザクザクしていて揃っていないだろうけど、何だか嬉しかった。パリでフランス人に髪の毛を切ってもらった、しかもめちゃめちゃ可愛い子に、その子のうちで。その上、ご飯まで作ってもらってワインも一緒に飲むなんてこの上ない幸せを感じる。

被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:東京都

 南から少しづつ北上して、東京についた。ここのエネルギーは他の場所とは違って刺激的だ。まず人が多い。パリには225万人で、東京の日中にはそれの七倍の人が居る。人の数は多いのだが、綺麗に整列されていてその多さを感じない。目をこしらえるとこんなにもたくさんの人がいる、と感じるが、綺麗に見繕った、個性のない同じ背格好のサラリーマンが無数にいるだけでそれ自体が一つの大きな塊に見える。

 パリにはいろいろな人種が集まるから皆が俺だ、私だ、と名乗り出るかの様に街を歩くから、どこを見渡しても同一人種という光景に違和感を感じる。たまにポツリといる日本人ではない外国人がもの珍しく感じ、見てしまう。私もそう見られているのか。

 結局具合が悪かったのは温泉のあの一日だけで、他の日は大丈夫だった。風邪だったのか、もしくはあのビタミン剤が原因だったのか分からないが、あれ以来、瓶は触っていない。

それにしてもこのプロジェクトはあとどれくらい続くのか?あてもなく旅をするのも楽しいが、数週間が経った今でも三日起きのレポート以外は何の進展もない。そのうち他の指示が出てもいいと思っていたが、こんないい加減なプロジェクトはいかがなものか。

政府極秘調査「ソーシャルエクスペリメント」本部

吉田 稔 研究員


 マッド、こと狩野先生は昨日も姿を見せず、今日も研究室に来なかった。

 携帯に連絡してみたが返事はない。自宅にもかけてみたが、誰も出なかった。急に休むような人ではなかったし、胸騒ぎがする。どうして彼は急にいなくなってしまったのか。

 おととい、吉田研究員が帰った時にはまだマッドは研究室にいた。まだ帰らないんですか、と聞くと人と会う予定があるから時間を潰している、と話していた。

 誰かにあったのか? その人たちがマッドの行方を知っているかもしれない。

 いてもたってもいられず、普段は入ることのないマッドの机の上のパソコンをつけてみる。パスワードは・・・多分・・・誕生日か・・・違う。誕生日の日付や年代を入れ替えて数回試してみたが、間違えた回数が多すぎてロックがかかってしまった。

 気を取り直して机の上や、引き出しの中に何か残っていないか、探してみる。するとブロックメモに「半蔵門スカイビル地下一階、九時」と書いてある。急いで携帯で半蔵門スカイビルを調べると地下一階には店はなく、駐車場の様だ。

 変だな、駐車場で待ち合わせをしていたのか?


 引き出しを開けるとペンや定規などの文房具が乱雑に入っていた。封筒に入っているUSBスティックを見つけそれを自分のパソコンに接続してみる、しかしロックがかかっている。

 さっき試してみた誕生日のコンビネーションを試す。年、月、日にち、いや違う。月、日にち、年、違う。年を2桁と4桁、両方でやってみる、それも違う。


 ふと、フランスからのメールの並びを思い出す。彼らのメールはいつも日にち、月、年だったはずだ。その順番でマッドの生年月日を入れてみたら・・開いた。


 USBにはさまざまなPDFファイルが入っている。ロシア語らしきファイルに、英語のファイル。ロシア語は読めないので、[Operation Sheeple] と書かれた英語のファイルをクリックして開けてみると、取り扱い説明書のようなものが出てきた。多分、被験者にビタミン剤として渡していた、抗うつ剤に関する資料だ。でも見せてもらったのと少し違うような気がする。ページ数がはるかに多い。

 斜め読みをしながら読み進めていくと、Military, PTSDという言葉と並びにDepression, Corporate, Soldiers, Slaves・・・日本語で言えば、軍隊、心的外傷後ストレス障害、鬱、大企業、兵士、奴隷・・・。


 要するに、この「ビタミン剤」という名目で実験中の抗うつ剤は、鬱やPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療の先に、痛みを感じなくなる兵士の様な人間、大企業にとっての奴隷を簡単に作り上げることができる、そういうマニュアルだった。Sheepleというのも羊のように従う、という意味合いがある。

 必要な投与の日数、そこから精神的な痛みに強くなった人間が出来上がり、どんな困難なことにも平常心で挑戦できる。そのうち、休みも必要のない無敵の人間奴隷が出来上がる、というわけか。

 パワハラ、セクハラなどの痛みも感じない、常に精神が安定する社員・・大企業は喉から手が出る様な人材だ。

 なんて危険な薬を開発したのか・・そして俺はそれを研究に協力してくれた人にビタミン剤として供給し、鬱の薬の研究、ノーベル賞などと馬鹿な期待をしていた・・


 マッドはどうしたのだろう。この事実を知ったからいなくなってしまったのか?いや、元々知っていたのか?知っていて薬の投与を容認するような人ではないはずだ。

 USBの入っていた袋を裏返したが、都合よく消印や住所がついている訳もない。


 まず真っ先にすることは今の被験者に真っ先に薬を飲むことを辞めさせなければ。


 すると研究室の入口から物音がした、誰か来たのか?USBのスティックをパソコンから抜いて、物音のする反対側の出口からこっそりでた。


 鍵穴から中の様子を覗くと、黒いスーツを着た男女がいる、外国語で話しているが、何語か分からない。さっきまで使っていたノートパソコンを取り、マッドの研究室の方に向かっている。もしかしたらこのUSBを探しているのかもしれない。

 どこに向かっていいのか分からず、とりあえずタクシーを拾って東京駅へ向かう。確か最後のレポートではマリ・ロー・シャヴィエーが東京駅の近くの宿に泊まっていたと書いてあったはずだ。携帯電話から彼女の連絡先を探し、電話をかける。


被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:東京都

 吉田研究員との待ち合わせ場所は東京駅の丸ビルの中のカフェ、と言われ、近くにいたはずなのに探すのに苦労した。到着すると、この間ビタミン剤をくれたあの吉田だった。研究員が着る白衣、ラボコートを羽織ったまま、うなだれた姿で座っている。

 「待たせてごめんなさい、ビルが分からなくて迷ってました」そう挨拶をすると、吉田は急に声をかけられたのに驚いて「あ、すみません、どうぞ、座ってください」と椅子を指した。

 彼のつたない英語から理解するには結構な時間がかかったが、持ってきたパソコンにUSBを接続してファイルを開くと納得した。この実験の概要は、フランス人を何名か日本に送り、そして日本人を何名かフランスに送る。そして何の指示もなしに過ごさせる。そしてストレスが最高潮になった時に医者を送り込み「疲労ですね、ビタミン剤を飲んで様子を見ましょう」という調子で薬の投与を始める目的だった。私たちを人体実験として使っていたのか・・。

 その情報を手に入れた、どの時点で手に入れたのか分からない狩野先生が昨日から行方不明になっている。この事実を知っていると危険というのも分かる。

 未研究の薬は開発してから、人を使った実験ができるには最低でも数年かかる。ロシアで開発されたこの薬は誰かを伝ってもれた。意図的にロシア側が漏らしたのか、フランス側がそれを仕掛けたかは分からない。ヨーロッパでは開発の手続きが厳重で、動物実験を何年か経てからようやく人を使った実験が承認される。それを全く無視して政府の研究としてこうして私たちに投与するまでに繋がったのは、ものすごく力のある、フランスか日本の政府の上にいる人がGOサインを出したに違いない。それが誰なのか突き止めればきっとこの事件の黒幕が誰なのか分かる。

 「吉田さんの他にプロジェクトを指揮していた方は誰なんですか?管理側という意味で・・」

「僕と狩野先生だけです。僕がレポートを読んでいました。フランス側にも二人いました。一人は日本語が話せて、もう一人は医者だと言ってました」

「被験者は何人いるの?私以外にもフランス人が日本に来ているし、日本人もフランスに居るはずでしょう?彼らにまず教えなければ」

「被験者はあなたを含めて合計で五人います。日本にはもう一人フィリップさんという男性、フランスには堀内さんという女性、森永さんと大竹さんの男性が二人います。フィリップさんと堀内さんは実際にこのプロジェクトで精神的な疲れが出てしまい、ビタミン剤として渡した薬を飲んで回復傾向にありました。逆にあなたは薬を飲んで具合が悪くなった。森永さんと大竹さんは体調に変化がない模様でした」

「彼らに連絡できる?」

「それが、彼らの連絡先は全て研究室にある僕のパソコンに保管されていました。そのパソコンは研究室に押し寄せた黒いスーツを来た男女二人が持っていってしまいしました。あなたの連絡先は静岡に薬を渡しにいった時に携帯に保管してあったからこうして連絡できたのです」

「分かったわ、でもあなたの話では大竹さんはいつもパリの国立図書館に居ることが分かるし、森永さんはアベスのカフェに居る。日本に居ても危ないかもしれないからフランスに戻りましょう」

「狩野先生はどうするんですか?僕だけ逃げることはできません」

「あなただって秘密を知っているから危ないわ。今こうやって東京駅で話していることも、あなたのパソコンのレポートを見ればどこのホテルに泊まっているか分かる。パスポートを持ってすぐ羽田空港に行けば深夜のパリ行きの便に乗れるわ」

 マリローはそう言って、ホテルへパスポートと荷物をまとめに行った。吉田研究員も自宅に戻り、パスポートとその辺にあった洋服をまとめる。数時間後、彼らはパリ行きの飛行機の中に居た。


被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:パリ


 いつも通り、国立図書館のエスカレーターを降りて、入口へ向かうと「大竹明さんですか?」と日本語で声をかけられた。日本人の男性、それから白人の女性が立っている。年齢は多分二人とも四十代くらいであろうか。疲れた顔をしている。

「そうですけど?」とそっけなく答える。

「私は吉田と申します。彼女はマリ・ロー・シャヴィエーさん。プロジェクトで日本に行っていたフランス人の方です。立ち話もあれですからどこかで座れる場所を探しませんか?ちょっと大変な事が起きたので・・」


 図書館のある大通りにはカフェが何軒かあるので、この時間帯にあまり学生が寄りつかない、隠れ家的なカフェを一軒選び、奥のテーブルに座る。三人ともカフェ・オレを頼んだ。

「どこからお話を初めていいのか分かりませんが、まずプロジェクト関係で渡されたビタミン剤はお持ちでしょうか?今すぐ接種を中止してください」

 大竹は少し驚いたが、元々接種していなかったため今までの生活に変更はない。

吉田研究員は興奮した声で続ける。「私たちは知らされていなかったんですが、このビタミン剤は別の意図がありました。表向きは鬱を改善する薬だったんですが、長い間服用すると痛みや精神的な苦痛を取り除き、そのうち何日も何ヶ月も、休みなしで働き続けられる、いわば奴隷のような扱いをされても大丈夫な精神になる薬なんです」


 マリ・ローはUSBに入っているファイルを自身のパソコンに表示させて大竹に見せる。「オペレーション・シーポル。シーポルというのは羊のように言われた事を鵜呑みにしてやる人の事を言う。私たちはこの実験に参加させられて精神的なプレッシャーをかけられたわ。吉田研究員が言うには五人の被験者の中で二人が鬱の様な症状を見せていて、彼らはこの薬を飲んで具合が良くなったらしいわ。そして私たち、あなたともう一人、森永さんという三人は、鬱の症状がなくても実験的にビタミン剤を渡された。私は飲んだ日にとっても具合が悪くなったの。あなたはどうだった?」


大竹はパソコンに出ている文章を目を通しつつ答える。「実は接種しなかったんですよね。なんか工場で作った感じがしなくて、気味が悪かったんです。でも誰がそんな人体実験みたいな案件をOKしたんですか?」


「それも不思議だが、この情報を手に入れた僕の上司の狩野先生がいなくなってしまったんだ。研究室にも二人組の男女が来て、僕のパソコンやらを持っていった。僕たちもこの情報を知っていることが危ないと思う」吉田は答える。


「知っている人数が多くなればなるほど、彼らも動けなくなるんじゃないか?元々極秘で行われていたプロジェクトだけれども、ネットやTwitterを使って拡散すれば、もし自分達の身に何かが起きる可能性も少ないんじゃないかな。とにかく、森永さんの連絡先は知っているのでここに来てもらいましょう」そういうと大竹は携帯を出してチルに連絡する。


マリ・ローも賛同する。「私も同じことを考えていたわ。たくさんの人に知ってもらった方が自分達が安全になると思う。誰がなんの目的でこの薬を開発したかっていうのも飛行機の中で考えていたんだけれども、こんな国をまたいでの大掛かりなプロジェクト、誰かがGOサインを出した。やっぱり政府の上の方の人だと思うの。フランス政府には大企業に優位になる法案を通して、自分はキックバック、裏金をもらうそんな人間の恥みたいな天下りの政治家がいるわ。でも地位もお金も権力も持っているから黙認されている。そこの誰かがこの薬をすぐにでも使いたい、そんな企業と協力してこのプロジェクトを組んだのかしら。抗うつ剤の記事はフランスの新聞・ル・モンドで読んだわ。ロシアのプロジェクトがどこかで流出して、誰が先に商品化するかにかかっていたと思うの。だからこんな偽のプロジェクトを作り出して、動物実験などをすっ飛ばして商品化しようとした。私も同僚に連絡して何か知らないか聞いてみるわ」


被験者1、日本国: 森永 秀太郎 (チル)

場所:パリ

 Château Rouge駅から4番線に乗って、ChâtletでBibliothèque Nationale行きの14番線に乗り換える。14番線はパリのメトロの中でも比較的新しく近代的で、ドアも自動だった。駅も新しい匂いがして、Château Rougeとは大違いだった。

 アキラから送られてきた場所のカフェに着くと、アキラの他に吉田さん、と呼ばれる日本人、マリ・ローさんと呼ばれるフランス人の女性が座っていた。みんながいっぺんに説明をしようとするので混乱したが、概要としてつかめた事は、とにかくこのプロジェクトは危ない、渡された薬も危ない、指揮をしていた吉田研究員の上司は行方不明で今、その事実を知っている自分たちも危ない・・。

 内心、全てを投げ出してこのまま日本に帰りたかった。こんなプロジェクトに参加するんじゃなかった。インテリアデザインの会社が倒産した時には辛かったが、身の危険はなかった。なんで自分がこんなことをしなければいけないのか。みんな正義ぶって犯人を探す様な話をしているが、このまま知らんぷりをして日本に帰ってはダメなのか?

 マリ・ローが困惑しているチルに声をかける。「大丈夫よ。私たちはこの情報を開示するわ。昔の友達でル・モンドの記者がいるわ、さっきメールをしたら今日逢えると言ってくれたわ。このUSBの内容を見せればきっと記事にしてくれる。そうなったらこれを計画した彼らも私たちには手を出せない」

マリ・ローはチルにニッコリとスマイルをする。フランスに来てから気付いた事だが、こちらの人は目が合うとニッコリする。日本では目をそらすことに慣れていたチルはマリ・ローに向かって自分もニッコリ顔を返す。マリ・ローはそのまま携帯を出すと誰かに電話をかけ始めた。さっき言っていたル・モンドの記者に電話しているのだろうか。早口のフランス語で話しているが、”Oui, à 16h. D’accord”と聞こえた。午後4時にどこかに待ち合わせをする事が決まったのか。

電話を切ったマリ・ローはその記者の出先の近くにあるカフェで待ち合わせるといってメトロの駅へ向かう。吉田研究員とアキラと3人で、知っていることについて話をするが、知らないことの方が多すぎて話が進まない。

「そういえば、フランス側にいる研究員はどうなんですか?吉田研究員と一緒でフランス側にも吉田研究員のように働いていた人たちがいたはずですよね?彼らは何か知っているんですか?」チルは吉田研究員に聞く。

「研究室に強盗に入った人たちが、何かしらの外国語で話していたし、僕のパソコンも取られてしまったのでどう連絡して良いか分かりません」そういう吉田研究員はうなだれる。旅の疲れも溜まっているのだろう、目の周りのクマがひどい。

「でもそれだったら僕たち、名刺をもらったよね? 問題があれば連絡してくれと」

そう言ってアキラは携帯電話を開ける。そこには名刺の写真が映し出され、名前と電話番号が載っている。「どうします?連絡とります?」

「待って、まず考えよう」吉田研究員は頭を抱えるように考えている。「とりあえずもう一杯コーヒーを飲んでも良いかな」とバーテンダーにコーヒーを頼む。

「案外、この人たちが一番怪しくないですか?だって薬を持ってきたのもこの人たちだし、もしかしたら研究室の強盗に行った人たちと同じ?か?もしくは日本に居るフランス人に頼んだとか」チルは頭をフル回転にして考える。「いずれにしろ、この人たちが命令を受けてこの薬を配った。でも吉田研究員のように嘘の情報、“鬱の治療”として配っていたのか、本当の情報を知った上、人の感情を少しずつ取り除き、そのうち精神的な苦痛を感じなくなる人間奴隷を生み出せる薬として配っていたのか。そこが分からないとなんとも言えないな」

 アキラが口を開く。「でも女性の方は医者として紹介されたよな。自分が医者なら試験的な薬の概要は読むはずだよな。だから俺は全部知っていて、違法的な人体実験をしているのを知っていて俺たちに近寄ったと思う。もちろん彼らが独断でやったわけではなく、どこかの大きな製薬会社か、たくさんの奴隷人間が欲しい大企業の奴らが裏から大金を払っているからだと思う」

 吉田研究員は悲しそうに喋る。「狩野先生は、この鬱の治療薬が世界的に認められてノーベル賞を受賞する、なんて言っていたんです。僕も信じていました。夢見たいな話でしょ?でも信じていたんです。実際に実験がスタートしてから二人の方に服用したときにちゃんと二人とも気分が良くなったし、以前のように活発に仕事や観光を再開していました。それを見て僕は良いことをしたな、って思っていたんですよ。良いことをしたな、ですよ? なんてばかな・・」そのまま泣き始めてしまった吉田研究員をどうなぐさめて良いのか分からずアキラと目があったので、とりあえずニッコリしてみた。

「僕らだってなんとなく実験に参加して、この状況を可能にしてしまったので同罪ですよ。僕らが参加しなかったとしても他の人が興味本位で参加していた。吉田研究員のポジションだって一緒ですよ。もし吉田さんがやっていなかったら似たような経験のある研究員や研究室が抜擢されていたはずですし。私たちが今できることはこれを阻止すること。それに力を注ぎましょう。間違えが起こってしまったのはしょうがないけど、それをそのままにしなければ良いんです」そうアキラがいう言葉の一つ一つ、チルは大きくうなずく。

「とにかく、今夜泊まるところを探しましょう。僕はこの近くの大学寮に部屋を借りているので、部屋が空いているか聞いてみましょう。そしたらまたマリ・ローさんから連絡があるまで休んでいて下さい。長旅でお疲れでしょう」そういってアキラは吉田研究員と一度カフェを後にした。

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