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「ソーシャル・エクスペリメント」 第4話

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被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー
場所:パリ8区


 Alma -Marcau駅を出るとエッフェル塔が片方にみえ、ダイアナ妃が亡くなったトンネルには大きな火の記念碑があり、生花が乗っていた。ル・モンド紙で働くジャン・ミシェルは学生時代の友達だ。同じ大学のプレパーで知り合った。同じように進学コースを二年終わらせ、私は大学で経済学を学んだが、彼は国際政治に進学し、そのままLe Monde社に入社した。こうやってみると経済省、新聞社、エリートばかりが集まる学校のように聞こえるがそうでもない。きちんと仕事について成功しているのは半分くらい。あとは何をしているのか、どこに住んでいるのか連絡先も知らない。

 Avenue George Vのカフェのテラス席にジャン・ミシェルは座っていた。相変わらずのヘビースモーカーで、もうすでに灰皿の中にはタバコの吸い殻が2本入っている。

「マリ・ロー、ça fait longtemps!」久しぶりと挨拶をしながら右の頬、左の頬にキスをする。フランス式のあいさつだ。パリでは2回が主流だが南に行くと3回、4回キスをする友人もいる。ジャン・ミシェルは根っからのパリジャンなので回数を気にすることはない。

「Et alors, comment vas-tu? 元気かい?今日は急にどうしたんだ?俺が恋しくなったか?」相変わらずくだらないジョークで口説いてくるのは彼のお決まりだ。

「Bien sûre, tu me manque toujours. 当たり前じゃない。いつも恋しいわ。でも今日はそれ以上に重要な話があるのよ」

 マリ・ローは深い息をつくと、ジャン・ミシェルに最初から全部話す。被験者として日本に行ったこと、数週間すると研究者が訪れて、ロシアで開発された抗うつ剤を飲まされ、自身は具合が悪くなったこと。研究者の局長が行方不明になり、彼が所持していたUSBのファイルが今ここにあること、このファイルにはこの抗うつ剤の正体、長期間の服用によって精神状態が安定しすぎて、そのうちどんな試練にも耐えられる奴隷人間が出来上がる、等。

 15分ほど話し続けただろうか。ジャン・ミシェルは時折確認するような質問をしたが、マリ・ローが全てを話し終わるまで、メモを取りながらじっくり聞いていた。

 そしてメモを見つめながらゆっくりと口を開いた。「つまりは、この話をおおやけにする事で君たちに手を出せなくなるという事だね。もう誘拐されている人がいるわけだし・・。ただル・モンド社でも調査をしないとこれを公表していい情報かっていうのは分からない。スクープには違いないが、他の証拠が必要だ。信憑性のない記事なんて出したら俺の首が飛ぶ。なんとしてもGoサインを出したのが誰か、経済省の方から分からないのか?どこかに判を押した書類が残っているはずだ」

「そうね・・今から行ってみる?どうせ5時を過ぎたら館内は静かだわ。財布に入館バッジも入っているし。ちょっとアーカイブに連絡しておくわ。鍵を私のデスクに置いておくように指示するわ」

「VIP対応だね、さすがマダム経済省のスター」

「結婚してないからマドモワゼルですけどね」

「最近はマドモワゼルも差別用語になるから、子供もマダムって呼ばないといけないらしいぞ。だから結婚してようがしてなかろうが君はマダムだ」

「Je ne suis pas d‘accord. 納得いかないわね。世の中は変わったわ」そういってマリ・ローは電話でアーカイブ室に連絡を入れている間に、ジャン・ミシェルは会計を頼むためにサーバーに合図をする。


被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:パリ12区 Bercy

 経済省と金融省、Ministère de l’économie et des finances はセーヌ川の真上に、電車のレールが突然切れたような格好のビルが特徴だ。Bercyには国立図書館、Bibliothèque Nationaleを含め、八十年代後半から九十年代に政府の機関を移動させるミテランド元大統領のプロジェクトで建築家にデザインを求めた、その中で選ばれた5つのデザインがそれぞれ経済/金融省のビルとなった。

 セーヌ川には常に二台のモーターボートが常備されていて、経済省長や金融省長が急に出かける用事ができた場合にすぐに移動できるようになっている。

 私もこのデザインは嫌いではなかった。駅には実際に書類を各省に運べるワゴンがあって、Gare du Lyonまで十分で着くようになっている。近代的な作りとパリの街並み、過去と今がうまく調合されたビルだ。館内は静かで、オフィスにはきちんとアーカイブ室の鍵が置いてあった。アーカイブ室には普段、ニコールという多分五十代であろう、ものすごくセクシーなお姉さんというのか、熟女の方が管理しているが、五時近くに資料を探しにくると残業をするのが面倒なのでこうして鍵を渡して帰ることは珍しくはない。もちろん誰にでもこんな対応をするわけではないが、私は特別信用を得ているらしい。用事があるから、と四時くらいに帰ることも珍しくない。

 アーカイブ室には特有の匂いがある。懐かしい本の褪せた香り、ニコールがいる時は彼女の香水のいい香りもするが、入った瞬間に落ち着く香りがする。入口にはニコールのパソコンがあり、ここからどういった資料を探しているか検索すると場所を教えてくれる。

 書類には”Classification”、格付けがされており、機密文書はパスワードを持っている人が限られる。しかし、ニコールは官僚の、誰かは分からないが、愛人関係にあるのでそういった資料も彼女のパソコンからだと見れる。アーカイブ室自体にはまだ紙の書類としての保管はしていないがデジタルで見つけられるはずだ。

とりあえず思いつくだけのキーワードを入れてみる。ジャパン、フランス、鬱、薬、シーポル・・・検索結果はゼロだ。

「そんな安易に分からないように隠してあるんだよ。日付で絞ってみたらどうだ?」

 日本行きが決まる面接の数週間前にサインオフされたはず・・その日付と、ジャパンと合わせて入れてみる。

「ビンゴ。3件しかヒットしない。このうちのどれかだ」

早速その三件の書類を探す。二件は関係のないものだったが最後の一件は思った通り、このプロジェクトのGOサインを出す書類だ。格付けも機密文書喜んで最後のページ、誰がサインしたかをめくるが・・・

「サインの場所が黒塗りされている、くそ!」

名前のサインがされている場所には真っ黒な帯があざわらうかのようにこちらをみている。


被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:パリ

 アキラの携帯電話にマリ・ローから連絡が入ってきたのは午後八時を過ぎていた。「今Bercyにいるからどこかで逢える?あの吉田研究員は大丈夫?」

「あぁ、学生寮の空いている部屋を用意してもらったよ。ここのビルの隣に遅くまで空いているカフェがある、そこで待ち合わせよう。吉田研究員も起こして連れて行くよ。チルは僕と一緒にここにいるし」そう言いながらチルの方を見る。一人になりたくないと言ったので一緒に部屋で待機していた。

 吉田研究員の部屋の前でノックをすると眠そうな彼が中から出てきた。

「マリ・ローが話したいことがあるから、お休みのところすみませんが一緒に下のカフェまで行きましょう」そう伝えると、吉田研究員はコートを鍵を取り、3人で下に向かった。

 カフェの外のテラス席には学生のグループが何組か座って楽しそうにおしゃべりをしていた。カフェの中を覗くと中にいくつかのテーブルが並んでおり、空っぽだった。三人で一番奥のテーブルに座る。何を飲むか少し迷ったが、ビールを注文した。ここのバーはビールの価格が良心的だが、パリはビールが高い。やはりワインの国だと言われるだけある。

 しばらくするとマリ・ローが男性と一緒に店に入ってきた。ル・モンドの新聞記者だろう、風貌がそうっぽい。小綺麗だが少し髭が無造作に伸びているところや大きめのリュックを背負っているところがなんとなくだが新聞記者っぽい。

「みんな、友人のジャン・ミシェルよ、彼がル・モンドで働く記者。左から吉田研究員、アキラ、チルよ」ジャン・ミシェルは一人ずつと握手をする。

「今さっき、誰がこのプロジェクトをサインオフしたか、書類を見つけたんだけれども肝心のところが黒塗りされていて分からなかったわ」そいう言いながらさっきプリントアウトしてきた文書を見せる。「でもジャン・ミシェルはこれでも十分な記事が書けると言っている。狩野先生が行方不明になっている事も、もちろん合わせてね。日本でもそういった新聞社に記事を書いてもらえればと思っているのだけれども・・」

 アキラはしばらく考えたが、ふと、父親の友人が確か新聞社に勤めていたことを思い出した。「私の父の友人がもしかしたら手伝ってくれるかもしれません。特にル・モンド社がする話であれば快く記事にしてくれるかも。ネットニュースで取り上げてもらえれば、日本でもすぐ話が広がると思います・・」そういうと深夜なのは承知だが実家に電話をかけた。眠そうな父親の声が聞こえる。こんな時間にどうしたのか、何か大きな事故に巻き込まれたのか、とても心配そうな父の声を遠くの地で聞くのは心苦しかった。父はすぐに友人に連絡するといい、数十分後にはその友人から折り返しの電話がきた。ジャン・ミシェルに電話を渡し、両者つたない英語で話し合う。連絡先を交換し、ジャン・ミシェルは記事を書き上げるため、すでに編成したチームを取りまとめるために新聞社に戻る。

 準備は整った。あとは明日の新聞が刷るのを待つだけだ。マリ・ローが心配そうに口を開く。「今夜はどこか、大学の寮じゃないところに泊まった方がいいと思うの。ほら、あの黒ずくめの2人は寮にいることを知っているわけだし。Bercyじゃない、もっと市内の方に行きましょう。あなたたちみんな日本人だから2区の日本人街が良いかもね。木を隠すなら森の中っていうでしょう。アジア人を隠すにはアジアが目立たない場所、Cartier Japonais・日本人街ね。ピラミッドの駅までタクシーで行き、乗っている間にホテルを見つけましょう」

 タクシーの中で、チルが良さそうなホテルを見つけてくれた。チェックインを済ませるともう10時を過ぎている。その時にグゥとお腹が鳴った。そういえばまだ夕飯を食べていなかった。

 吉田研究員とマリ・ローは疲れているからと先に寝てしまった。チルも食欲がない、と言ったので一人で夜の街へと繰り出した。ホテルの前、Rue Saint Anneは日本食レストランで溢れかえっている。小さな居酒屋を見つけて、軽く食べられるおつまみを何品か注文をした。揚げ出し豆腐なんて1ヶ月以上ぶりでテンションが上がった。明日だ、明日で一度結末がおとずれる。そう思っていたら揚げ出し豆腐の余韻も合わせて気持ちが高揚してしまい、なかなか寝付けなかった。

被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:パリ12区 Bercy

“Putin! C’est quoi ce bordel !’

 信じられない。ル・モンドの記事が出たはいいが、私たちが書いた内容から改竄されていて、新型の鬱の薬がそろそろ発売される、と言う内容に変わっていた。狩野先生の誘拐の話も、私たちが未開発の薬の人体実験の対象にされていることもゴッっそり抜き取られている。ジャン・ミシェルに電話するとすぐ留守番電話に繋がった。どうなっているのか。しばらくすると知らない番号から電話がかかってきた。

“Allo?”電話の向こうはジャン・ミシェルだった。

「マリ・ロー、記事を読んだか? 新聞社の中に協力者がいたようだ。誰かが記事をすり替えて今日のニュースに出した。僕が昨日オフィスを出るときは元々の記事だったのに誰かがすり替えたんだ・・。この実験をしていた彼らの人脈は僕たちが予想していたよりも遥かに大きい。他の新聞社に元の話を刷ってもらうよう、持って行こうかとも思ったが、国際的にもル・モンドが刷った話が正論になってしまうし、非現実な陰謀説で終わってしまう」

 マリ・ローは答える「それも一理あるわ。でも私たちはどうすればいいの?まだ彼らに狙われていると思う?」

 ジャン・ミシェルは電話の向こうからこう返事した。「考えていたんだが、彼らはこれをゴールとしていたのかもしれない。何かしらの話題性というのか。君達で実験をしていたのは事実だが、どう転んでもこの話が表に出た時の話題性がある。誘拐もUSBも、それを君たちに見つけて欲しくて仕組んだ罠だったりしないか?」

「そんな馬鹿な事・・狩野先生は・・」そう言いかけた瞬間、マリ・ローの携帯にメッセージが入った。“狩野先生が研究室で発見された、吉田研究員は次の便で日本に帰る”

エピローグ

政府極秘調査「ソーシャルエクスペリメント」本部

吉田 稔 研究員

場所:東京都内の病院

「狩野先生!」

 嬉しさのあまり、狩野先生に抱きついた。いつもよりちょっと元気がないマッドは点滴に繋がれ患者様のパジャマを着ていた。キビキビと研究室を歩き回っている姿からは想像ができないほど小さく見える。

「吉田くんか、うん、よく来てくれた。本当に君のおかげで助かったよ、ありがとう」

 ル・モンド紙を始め、フランスでも日本でも大ニュースになったこの新薬が発表された日に、狩野先生はその日に研究室で倒れているのが発見された。命に別状はないが、念の為、数日間入院することになった。開発研究に携わった日本人研究員が実験室で倒れていた、という話がどこかから漏れたため、自宅の周りには新聞記者が待ち伏せしているため、病院側が退院を遅らせているそうだ。

 吉田稔はパリから羽田の便に乗り、その足で病院についた。数日しかパリに居なかったが、もう何年ぶりかに日本に帰ってきた気がした。

 「先生が無事で良かったです。僕本当に心配したんですよ!」

「悪い、悪い、そしてこんな事になってしまったからには、君も僕もノーベル賞はちょっと先になりそうだな」

「狩野先生はいつあのUSBを手に入れたんですか? 元々知っていた訳ではないですよね」

「なんのUSBの話だ?不思議な電話があってね、駐車場に来いと言われて誰かに殴られてね。そのまま連れて行かれたんだ。飲み薬を出されて、多分睡眠薬だったのか。起きたら病院に居たってわけだよ」

「USBの事を知らない? オペレーションシーポルのファイルですよ、この薬は長期に飲み続けると、そのうち痛みや苦痛がなくなり、奴隷のようにいくら働かせても大丈夫な人間ができてしまうっていうレポートが載っていたじゃないですか!狩野先生はその事実を知ったから誘拐されたんじゃないですか?」

「いや、僕は何もレポートなんて見てないよ。吉田くんは何の話をしているのかな」

 どうして狩野先生は覚えてないのだろう?もしくは本当にジャン・ミシェルさんが言っていたように、これは見つけて欲しかった証拠だったのか?

「ご無事でなによりです。ノーベル賞なんていいんですよ、次の研究でできれば!」吉田研究員は心の底からマッドの回復を祈った。


被験者3、日本国: 堀内 夏希
場所:東京

 自分が摂取していた薬はもしかしたら鬱の新薬かもしれないと気づいたのはYahoo!Newsのトップ記事を読んだ時だ。フランスと日本の共同研究という見出しで、被験者として参加していた研究が、センセーショナルな新薬であることが分かった。自分に再度活力を与えてくれたし、こうやってまた個展が開けるようになるまでになった。フランスで描いていた絵が特に好評だ。

「堀内さん、大盛況ですね。みなさん、あのバスク地方のシリーズ、色合いがとっても素敵って評判ですよ!半分くらいはもう売れちゃいました!私もあのビーチの絵がとっても好き。あとはマルシェの絵も色使いがとっても鮮やかで」

「ありがとうございます。杉元さんには本当にお世話になりました。絵が描けなかった時にもサポートしてもらって、こんな素敵な展覧会にも開いてもらって」

「いいのよ、そんな気にしなくて!アーティストはスランプがあって当たり前ですよ。それよりこうして素敵な絵をたくさん描けるようになって、本当良かったです」

 杉元さんは最初に個展を開いてくれたここのギャラリーの人。プロジェクトは突如終了となり、予測していた金額の遥かに多い額を頂いて日本に帰ってきたものの、その後の予定表はまっさらだった。結構な数の新作の絵が描けていたので杉元さんに連絡すると、二つ返事でギャラリーに飾ってくれたのだ。ちょうどテーマが世界旅行、という展示会があり、そこにスペースを作るから何点か持ってきてちょうだい、と言ってくれ、急いでフレームをつけどうにか展示会に間に合わせた。

 帰国してから展覧会の準備で目まぐるし過ぎて一息をつく暇もなかったが、昨晩、あの新薬はどうしているのか、気になって検索してみた。大手の製薬会社ここ最近、私が「ビタミン剤」として渡されていた薬と思われるものを発売した。昨年のパニックの後で精神的に病んでしまった人が予想以上に多かったのだろう。新薬を発売した製薬会社の株価はとどまるところを知らないかのように上がり続け、売り切れが殺到し、生産が追いついていないらしい。

 アトリエに飾ってある、描きかけの絵を見る。あの大西洋の長いビーチ、大きな波、そのキラキラした太陽の光がいっぱい詰まった絵を描き続けられる自信はあるか?自分の胸に聞いてみた。

 今は気持ちが安定しているが、またいつあの闇に覆い尽くされる生活が来るか分からない。こうして展覧会で忙しくしている生活が終わると、また絵が描けなくなってしまうのか。薬を飲み続けた方がアーティストとして最高の活動が出来る期間が伸び、スランプもなくなる。私はそんな自分になりたい、そう思ってドラッグストアのサイトからひと瓶注文した。


被験者1、日本国: 森永 秀太郎 (チル)

場所:パリ

 TIMのアパートの鍵を渡して、Thank youというとスーツケースを持って、かリーンに最後のお別れを言いにアベスのカフェへ向かう。

 ル・モンドのニュースがメディアを騒がせ、狩野先生も無事だと分かり、僕も日本に帰ろうと思っていたのだが、アパートを貸してくれていたTIMがまだアメリカから帰ってこないので猫をそのまま放っておけず、プー太朗としてパリの生活を続けていた。研究で手に入るはずの報酬は予想以上だったので別にこのままパリに居続けてもよかったのだが、このままちょっとづつ貯金を切り崩して何もしない生活も合っていないし、TIMが帰ってくるタイミングで日本に帰ることにした。

 カリーンとは相変わらず友達以上、恋人未満、という関係が続いた。もう日本に帰らなければならないし、もちろんこのまま一緒に居たいなという気持ちはあったけど、どう考えてもこの語学力では仕事なんてできない。毎日カフェに通ったこの道も、ラム肉の匂いも、今日でおしまいだ。

 カフェではカリーンがお客にコーヒーを持ってきている所だった。「アンカフェ、エ、アン クロワッサン シルトゥプレ」コーヒーとクロワッサン、最後にもう一度食べておきたい。あのバターがしっとり口の中でとろけてなくなる感覚がカリーンとの距離に似ていて涙が出そうになる。「もう帰るのね。残念だわ、うちのVIPのお客がいなくなるのは」カリーンが笑いながらいう。

「お代はいいわ、私からの餞別。私が日本に行ったらコーヒーを奢ってちょうだい」ゆっくりと味をかみしめたクロワッサン、最後のコーヒーはブラックで飲んだ。口の中のにがさも加わって、また目頭の後ろが熱くなった。


被験者2、フランス国: フィリップ・ブエ

場所:自宅

「パパ!」「パパが帰ってきたよ」

 もう子供とは言えない、でも親にとっては永遠の子供である16歳と14歳の息子と娘にハグされると、二人とも大人っぽくなった気がした。息子は出発する前よりも髭が濃くなった気がするし、娘もより綺麗になった気がする。

「日本はどうだった?」妻が聞いてくる。久しぶりに見る彼女は覚えている以上にセクシーでいい匂いがした。「大変だったみたいじゃない。なんかすごい薬を飲まされたんでしょ?世紀の大発明の新薬ってニュースだったわよ」妻が話しているのをさえぎってキスをする。「僕には君たちがいてくれないとダメだ。本当に恋しかった」家族に再会できて心の底から思えた気持ちだ。


被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:パリ12区 Bercy

 ル・モンドの記事が出てから1ヶ月経つ。

 あの時のセンセーショナルな記事、パリの街ではみんな鬱の薬のプロジェクトについて話していたが、数週間過ぎるとそのまま忘れ去れて次の話題に移ってしまった。それどころか、それで一躍有名になった薬は一般販売になり、もともとは私たちの騒動で裁かれるはずの製薬会社やその業界が潤ってしまうという全く逆の処置となった。

 結局のところ人生ってそんなものかもしれない。うまくいく人は谷があってもまたよいしょといとも簡単に這い上がれるし、そうではない人はずっと底辺から上がれないままである。

 私の机の上には発売された薬がおいてある。飲んだ直後に調子が悪くなった前回のと違い、これは一回飲んでみたが特に副作用はなかった。かといって気分が明るくなったとか、そういう効果もなかったが、それは長く飲んでいないから、もしくは元々鬱症状がなければ別に飲んでも変わりないのだろう。

 あの一件のあと、元彼女のシャルロットに連絡をした。最近は新しい仕事を始めて気に入っているそうだ。花屋の手伝いをしているらしい。「ずっと体を動かしている仕事の方が私には合っているみたい、ゆくゆくは自分の花屋を始めたいと思っているの」とイキイキとした声で話してくれた。また落ち着いたらアペロでもしましょう、といって約束した日が今日だ。

持っていた薬の瓶を机にしまい、彼女の待つカフェへ足を急がせた。


被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:羽田空港

 AF437便、パリ発羽田着の便は予定時刻に到着した。羽田空港の出口でそわそわ待つ自分がドキドキしている事に気づく。

 クロエとパリで別れてからも、毎日メールや電話をしていた。そのうち大学が休みに入るから日本にちょっと行きたいの、という話をされて大喜びで承諾した。今日から三週間、日本で一緒に過ごす予定だ。

 どうして新聞のすり替えが行われたのか、誰がやったのかは分からない。あのジャン・ミシェルは実は僕たちを助けるふりをして、彼がすり替えたのかもしれない。マリ・ローは経済省で働いていたし、東京に居たのだから、これを全部計画してやったのかもしれない、誰が黒幕かわからないけど、結局、誰も傷つく事なく、金持ちはより金持ちになり、貧乏人はその金持ちが作ったものを買わざる得ない世の中になる。

 あの新薬が本当にオペレーショーンシーポルに書いてあるような効果があるならば、長期的に服用し続けた人たちが、苦痛を感じなくなり、もっと沢山働けるようになる。そうすると企業としても、精神的に病んで仕事ができなくなる社員が減るし、そういう症状が出始めた社員には、薬を服用してもらえばいい。

 製薬会社はもっと金持ちになり、大企業も人材を効率的に使えるので生産性が上がる。社員は苦痛がなくなり働きやすい会社だと勘違いする。

 WIN-WINではあるがしっくりこない。ファーストフードのような物だ。早い、安い、便利だが、長期的な健康を少しずつ侵害する。この薬だって長期的な服用があのレポートに書かれているものだったら、服用している人は危ないだろう。

 でも実際に幸せになる人だっているのだから、一概にも悪い薬だとは言えないのでこのヤキモキした気持ちをどう表現していいか困っている。

 到着ゲートの向こう側からクロエがまんべんの笑みで黄色い大きなスーツケースを転がしながら駆け寄ってくる。

「アキラ!」


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