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「ソーシャル・エクスペリメント」 第2話

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被験者2、フランス国: フィリップ・ブエ

場所:東京


 到着して一週間が経つが、こんなに毎日が発見ばかりで新鮮に感じれるのであるのなら、もっと早く日本にくれば良かったと思うばかりだ。

 東京は面白い、まず一階だけにレストランがあるわけではなく、2階にも3階にも、高層ビルの何十階にもレストランがある。それだけでパリにあるレストランより確実に数が多い。

 そしてどこにいっても人が親切で、丁寧に対応してくれる。

 昨日行ったバーはどこだったか忘れたが、確か五階だか六階だかにあって、マスターが作るカクテルがやたら美味しくてずっと居座ってしまった。レコードではセンスの良いジャズのスタンダードがかかっていて、それを聞き入りながらマスターがおすすめ、と言ってくれた東京カクテル、というのを飲んでいたら二時をまわっていた。

 夕飯を食べていなかったのでコンビニにいって、レジの横にある、あのフライドチキンでも買うか、と思っていたらラーメン屋から出てきたカップルがいた。男は黒人だったので英語がしゃべれるだろうと、話しかけてみたら、このラーメンはうまいから食べた方がいい、と勧められた。

 中に入ると「・・・SHAMAZEー」と叫ばれる…シャイマセ、と発音しているのか? 何回聞いても、その正体が分からない。座ろうとすると、入り口のマシーンを指される、あ、あの機械で注文するやつだ。いつも忘れてしまう。どこに行ってもこの国は機械で注文を通したがる。

 とりあえず一番上の普通のやつを買った。

 日本人のスパイシーは辛すぎてだめだ。フランスでは辛いものがほとんどないけど、私はモロッコ料理が好きだから辛いものには自信があった。でもこの国の辛さはそんな想像をまるで超えた凄まじいレベルの爆発力が口に広がり、取り返しのつかない辛さが身体全体に駆け巡る辛さだ。一度失敗しているので絶対買わないようにしている。

 着席すると氷の入った水が出された。

 そして間も無くしてラーメンが目の前に出される。

 そういえば箸が使えないんだった。店員にフォークを頼むと変な顔をされた。

 麺をフォークですくって、レンゲの中でくるくる回し、一口サイズにしてスパゲッティーのようにほおばる。日本人はなんでもかんでもずるずるとすする。ラーメンでも鼻水でもすするのが好きだ。あの音は不快ではないのだろうか。

 ラーメンは美味かった。

 上に載っているチャーシューが少し脂っこかったが、麺もスープも相性がよくて最高だった。

 腹一杯になったところで借りたゲストハウスまで歩く。最初に泊まったホテルから遠くないところにゲストハウスがあると聞いて、そこの一室を借りている。古い民家を改装して外国人の中期ー長期滞在者向けの住まいになっている。

 夜風が気持ちよかった。ネオンと電灯の光がはっきりしているがどこか寂しげで、高速を走る車の音がする。今日も楽しい一日だった。よく寝れそうだ。


被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:パリ、13区


 フランス国立図書館、Bibliothèque nationale フランソワ・ミッテラン館はパリっぽくない、近代的なビルだった。

 学者の両親に育てられ、博士号まで取ったが、アカデミア、という、知的で勝負するというよりは、些細な間違えを他の学者たちに逆手に取られて叩かれる、という世界から脱線して、ブロガーとして哲学的な考えを書いて生計を立てていた。正直、論文で出版するよりも多くの人に文章を読んでもらえるし、つまらない専門性に足を取られて批判されることもなくなった。

 それでも図書館は大好きだった。天井まで本が詰まった空間を歩くだけで、その何千万時間の思想の間をくぐり、歩いている、という感覚が好きだった。フランソワ・ミッテラン館は九十年代に設立されて、当時としては世界最大の図書館、として蔵書数1400万書が保管されている。自分が尋ねた中でも最大の図書館で、この巨大な四つのビル中が全部、本で埋まっているかと思うとゾクゾクした。

 エスカレーターに乗り、地下へ進むと入り口だ。日本の大学で使っていたスタッフカードを見せるとすんなり中に入れてくれた。ビルの中は静かだが、大きな窓から光が入る様にデザインされているため、明るい印象があった。入り口がある下に進むと大きな中庭に面した部屋にたくさんの机があり、そこで勉強をしたり、本を読んだりしている学生がたくさんいる。さらに下の階に進むと一番下の階は関係者以外立ち入り禁止になっていたので、その手前の階の机に座ってパソコンを開いた。

 このプロジェクトの話が舞い込んできた時には自分以上に適任者はいないのではないか、と思うくらい興奮した。色々と謎の多いプロジェクトだが、ただでパリに来れて、今までと同じ様にブログも書き続けられるので収入の心配もない。パソコンのスクリーンを見つめながら、飛行機の中で考えていた記事、なぜ哲学は現代の生活に必要なのか、という記事に取りかかる。

 大学の専攻は哲学だった。哲学者だ、と初めて会った人に言うと、「難しそうですね」とか「なんか沢山考えてそうですね」と言われる。哲学といっても、想像するのはソクラテス、プラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャ哲学者を想像する人が多い。人が生きるのはなぜか、といった答えのでない問題をひたすら考えている、と思われている。自分が研究していたのは16世紀以降の近代哲学であって、今の様に、理系が物理、天文、気象などに分かれていなかったため、全部をひっくるめて哲学、と読んでいる。

 なので研究の内容は「理系の歴史」といった方がもしかしたら正しいのかもしれない。地球は太陽の周りを回っている、とか地球は丸い、なんて概念はもう2000年以上前から哲学者の間で話されている考えだった。地球はたいら、という絵は残っているが、その時代の人がそれを信じていた訳ではない。学者や哲学者の中では地球は丸い、という認識が普通で、一般の人やアーティストの中でそう言った事を信じていた人も居たかもしれないが、お化けや幽霊を信じるような感じと一緒だ。

 哲学は知らない事を勉強する学問、と言われている。知らないものを問う、と言った方が良いかもしれない。今は情報化社会で携帯やインターネットでなんでも調べられる、がその情報が正しいのか間違っているのか分からない。

 例えば、昔はタバコ会社がこぞって「これは良い、リラックスする、ストレスの軽減」など唱え、タバコが健康に良いもの、と出していた。でも実際はデーターを改ざんしたり、見せたいデータだけ見せていて本当は健康によくない事を隠していた。

 今の世の中、ネットに載っている情報は本当に正しいものなのか。今流行っているFacebookやインスタは本当に人の交流を豊にしているのか?それともタバコみたいにスクリーン中毒になるようにコンテンツを増やして、商品を売ろうとしているだけなのか?

 哲学は自分がどう生きるのか、それを選ぶ手伝いをしてくれる。

 キーを叩くとそれにつられるかのように文章が湧水のように出てくる。少し書いたら読み返し、その続きを書いていく。もう飛行機の中で書く内容を頭の中でまとめていたからスラスラとかける。

 ある哲学者の書物の名前が分からなくなり、ネットに繋ごうとしたが、この図書館にはWifiがないらしい。机の端を見ると、イーサネット ケーブルが出ている。多分、Wifiの電磁波が体に悪い、と言い出した図書館員が居たのだろう。時計を見ると昼近くなっていたので、どこかのカフェで食事をするついでに調べよう、と席を立った。

 外に出ると小雨が降っていた。傘は必要がない程度の軽い雨だったのでフードをかぶって大通りに出た。ちょっと歩くと感じの良いサンドイッチ屋が目についた。バゲットを豪快に半分に切ったなかに卵やハムが挟まっている色とりどりのサンドイッチが並んでいて、学生らしきグループが中のテーブルに座りながらコーヒーを飲んでいる。

ショーウインドウに並ぶサンドイッチ、やっぱり生ハムとモッツラレラのイタリアンサンドか。クッキーも美味しそうだからメニューにしてドリンクも付けようか、迷っているとカウンターのお姉さんが話しかけてくる。”Vous avez fait votre choix?" 

 意味は分からなかったが、ご注文は?と聞いてるのだと思う。

 必死の指さし術で、なんとかイタリアンサンドと、チョコクッキーをオーダーし、アメリカンコーヒーを付けてもらった。”Vous avez votre carte d'étudiants?" 

また何か聞かれたが、分からなかった。エクスキューズミー?と聞き返すと、

”Student?"と聞きながら壁の10% OFFの表示を挿す。

 正確には学生ではないが、スタッフカードを見せた、そしたら首をかしげたが、ま、いっかという仕草で10%割引してくれた。

 サンドイッチはパンがカリッとしていて、でも中はしっとりしている。「本場のフランスパン、マジうめー」と思いながら「これ毎日食べたい」と自分の中で白米と同等のレベルにのし上がった。

 ちょっとかじってしまったのは残念だったが、かじったところが見えないように写真を撮る。ツイート用と、最近始めたインスタグラムに載せるようだ。ブロガーの仕事も面白いのだが、常に、毎日、何か配信していないとせっかくついたフォロワーが離れてしまう。こうして様々なソーシャルメディアに顔を出す事で、そこからつながった人から新たなフォロワーが生まれる。自分の生活の中でほんのわずかなキラキラしている一部分だけを見せ、アイディアに悩みながら眠れない、インソムニアを体験する部分は省く。

 ブログ収入で生計が立つようになるまでしばらくかかった。最初は大学の仕事があったので趣味程度に書いていたが、そのうち自分の論文よりも読まれる頻度が多くなり、一般の人に向けた専門的な記事がうけるようになった。

 どんどん書いていくうちにフォロアーが増え、いつの間にか広告収入だけで月収を超えてしまった。ただその仕組みを把握してしまった大多数の人が競争相手になってしまったため、もちろんブログの収入でもやっていける事はできるが、長く続く気はしない。今は良いが、これが十年も二十年先までできるような気がしない。

 だからまだ研究はそこそこ続けている。他の学者が出した本ももちろん読んでいるし、いつでも常に最新の情報が扱えるような状態にしている。

 お昼を食べ終わると食後の腹ごしらえにちょっと散歩する事にした。十三区は比較的新しい近代的な建物が多く、パリの第七大学のキャンパス、「ムーラン」がある。キャンパス、と言っても囲いがあってここが大学の敷地だ!というよりはあちらこちらに少し大きめの建物があり、それが十三区のBibliothèque nationale 駅の近くのあちらこちらに存在する、と言った方が正しい。

 セーヌ川を渡り、ベルシー公園を散歩すると、ピクニックをしている学生や、カプエラを練習しているグループが居た。カプエラはブラジル発祥のダンスと格闘技が一体となったスポーツで、一度体験してみたがステップを覚えるのが難しく、バランスをとるのも大変だった。パリでも盛んに行われているのか、と思いながら通り過ぎる。愉快すぎるほどの音楽と、真剣にキックやパンチを練習し、ムキムキになっている講師のギャップが面白く、ずっと見ていたいぐらいだがそろそろ図書館に戻って三日おきのレポートをまとめるべきだな、と足を急がせた。


政府極秘調査「ソーシャルエクスペリメント」本部

吉田 稔 研究員


「おい、吉田、最初のレポートは全部届いたか?」

苅野先生の声が実験所に響いた。苅野先生はアインシュタインの日本の双子のような風貌で、マッドサイエンティと、狂った科学者という称号がとても合っている。白い髪が電気ショックを与えられたように四方八方に飛び散り、いつも驚いた顔をしている。研究員の中では密かにマッド、というあだ名で呼ばれている。


「はい、先生。今日で全員分届きました。」

「様子はどうだ?誰が良い実験台になるか判明できたか?」

「まだ最初ですからね。皆さん苦労してますよ。読んでいて面白い。もちろん、まだ誰にするかは何度か届いたレポートを吟味、精神分析してから決めますがね。今夜にはざっくりとしたまとめが出来そうです。」

 苅野先生はふんふん、と嬉しそうにうなずきならがら出て行った。

 吉田稔はまた届いたレポートに目を戻す。フランス語の研究所にも同じように被験者のレポートのまとめを提出する仕事も残っているが、それはもう数日待てるだろう。

またすごい研究に参加したもんだな、と今更ながら考える。

 これが成功すれば確実に世界的なセンセーションになる、吉田は自分が世界的に有名な研究者になるシーンを想像してニンヤリした。


被験者3、日本国: 堀内 夏希

場所:バスク地方


 Arcachonで数日過ごしてからさらにBayonne, Biarritzにより、Hendayeというスペインとの国境の街についた。橋の向こうにはスペインが見え、白浜のビーチがずっと続いている。電車の遅延にも多少慣れたし、もう移動するのも嫌になったので、民泊を調べてみたら長期で割引して貸してくれるところを見つけた。オフシーズンだったのでオーナーに連絡を取ってみると、長ければ長いほど割引をしてくれる、と言ったのでとりあえず一ヶ月借りることにした。

 絵もスケッチ程度だが、また少しずつ描き始めた。海にスケッチブックを持っていってスペイン側の景色を何枚も書いた。ちょっと丘の方に行くと、美しい城があり、そこのスケッチも何枚か描いた。そして最初の一週間が過ぎたあたりに、気分が急変した。

朝起きても布団から出たくなかった。そのまま二度寝をし、更に夜までグダグダと部屋で過ごした。翌日も同じような症状だったが流石に食料が尽きてしまい、向かいのパン屋さんでサンドイッチを買った。それを半分食べてまた布団に入る。

 パン屋で売られているバゲットに入ったサンドイッチは量が多い。二食に分けるとちょうど良い大きさだった。その日の夜は、昼近くまで寝ているせいでちっとも眠くなく、かと言って何かをやりたいわけでも、絵を書きたいわけでもなく、深夜遅くまでネットサーフィンをして日本のニュースを読んだり、ビデオをみたりした。ニュースには去年の大惨事やパニックの状況を国ごとにまとめた資料があった。目を通した程度だったが、どれだけの被害が出ていたか、一目で分かる。この大惨事も何かが原因だったわけではなく、パニックがパニックをよんで結局たくさんの人が死んだり、失職したりした。私だって、この期間から絵が描けなくなってしまったから精神的になんらかのダメージがあったのだろう。

 翌日はレポートの提出日だ。何もしていないから書くこともなく、「疲れて沢山寝てしまっていた。」と書いて適当に提出した。



政府極秘調査「ソーシャルエクスペリメント」本部

吉田 稔 研究員


「苅野先生、このレポート見てください。」

 吉田稔は、堀内夏希のレポートをスクリーンに写しながら嬉しそうに指をさす。

「この人が最初の実験台に相応しいと思います。」

 苅野先生はボサボサの頭をぽりぽりと掻きながらレポートの内容に目を通す。


「いいじゃないか。よし、ようやく実験を開始できそうだな。フランス側にも連絡しておけ、向こうの研究員と話し合って実験一号が彼女でいいか賛成を求めておけ」


 そう言い残すと苅野先生は鼻歌を歌いながら自分のオフィスに戻っていった。


 吉田稔研究員は自分の発見にニヤリとしながら、ゆくゆくノーベル賞に繋がるんじゃないかと期待を持ちながらフランスの研究室へのメールを書き始めた。この新薬の開発実験の第一号者が日本人で、成功に繋がれば自分の功績を世界に残せる。


被験者3、日本国: 堀内 夏希

場所:バスク地方


 堀内夏希のアパートに黒ずくめのフランス人の男女がやってきたのは、Hendayeのアパートを借りて2週間ほどたった後だった。

相変わらず生活リズムは昼過ぎに起きて、夜中までダラダラとネットサーフィンをし、たまに絵を書く、という生活だった。彼らがベルを鳴らした九時はまだ寝ている最中だった。


少し時間をください、と言い、顔を洗いその辺に脱いであったパーカーを、パジャマの上から羽織る。

 黒ずくめの男女の二人は、特に焦る様子もなく、堀内夏希の準備が整うまで玄関で待った。数分後、眠そうな彼女がドアを開けて、黒ずくめの男女二人を中に招き入れた。

「ヴゥレブ アン カフェ?」コーヒー飲みますか? 

 たどたどしいフランス語で聞いてみたら意外にも男性の方から「いいえ、結構です」と日本語で返ってきた。女性の方は「Moi, je veux bien, Merci Natsuki」ええ、お願いするわ夏希さん、とにっこりと微笑んだ。

 コーヒーを用意してキッチンの向こうにある小さなテーブルに腰をかけると、男性の方が流暢な日本語で「夏希さん、このプロジェクトに参加されてしばらく経ちましたが、どうですか?正直に感想を教えてください」と聞いてきた。

 正直に、と言われてので、何がどうなっているのか分からず、毎日当てもなく生きている感じが不安でたまらない、いつ日本に帰るのか、給料の支払いや、住む場所の手伝いも全くないのでそれがストレスだ、と話しているうちに涙がボロボロと頬を伝った。 泣くつもりもなかったのに、見知らぬ人の前で号泣してしまうほどストレスが溜まっていたのには自分でもびっくりした。

 男性は優しく微笑み、ポケットティッシュを差し出した。フランスのティッシュは日本のポケットティッシュと違い、硬いし、大きい。こんな小さな違いでも日本の柔らかいティッシュが恋しくなってまた涙が出てきてしまった。

「夏希さん、よく分かりました。あなたの日記のレポートを読んでいて、私共も不安になり、今日こうして伺った訳です。私の隣に座っている彼女は医者です。彼女と少しお話をしてみてください。そして彼女の判断で必要があればこのプロジェクトも中止にも出来ますので。では私は一旦席を外します」そういうと黒ずくめの男性は部屋から出ていき、夏樹は黒ずくめの女の人と向かい合う形で残された。

 彼女は笑顔で優しく接してくれた。「私の名前はマリアです」と日本語で名前を教えてくれた。そして今どう感じているのかゆっくりでいいから話すように言われた。

 私のつたないフランス語と英語のミックスで自分の状況を話すと、マリアはコクリ、コクリとうなずきながら、笑顔ではないが、夏希の事を理解している、という優しい表情で聞いてくれた。大海原に囲まれているような暖かさを感じた。彼女は実は聖母マリアなのではないかと内心思うほど、不思議な安心感を放している。

 三十分ほどしただろうか、黒ずくめの男性がノックしてまた入ってきたと思ったら、マリアはPardon、失礼、と言いながら席を立ち、早口で聞き取れないフランス語で話したと思ったらまた夏希の向かいに座った。

「Natsuki, il faut que j'aille」夏希さん、行かなきゃならないけど、と言いながら、床に置いてあったブリーフケースを開けて小さな瓶を渡してくれた。これはビタミン剤で、パンばかり食べているから栄養が足りていないのかもしれないわ、と言いながらこれを毎日一錠ずつ飲んでみて、また話したくなったらこちらに連絡してね、と名刺を差し出してくれた。

 黒ずくめの二人を玄関まで見送ると、瓶の錠剤とにらめっこする。量にして三十錠くらい入ってくるのか。一ヶ月分か。ということはもう一ヶ月この生活をするのかと思うと少し気分が落ち込んだ。


 瓶を開けて一粒口に入れると、テーブルに残っていたコーヒーで流し込んだ。



被験者4、フランス国: マリ・ロー・シャヴィエー

場所:広島


「ロシアの新薬が世界を変える」というLe mondeの新聞記事に目が付いた。

 コラムの記事で、ロシアに滞在していた新聞記者が大統領補佐から流出した情報を元に書いた記事だという。

 昨夜、フェリーに乗って広島の宮古島の旅館に泊まり、朝ごはんを食べながらオンラインで新聞を読んでいた。もう流石にご飯には飽きた。どこにいっても白いご飯ばかりで、ステーキやバターソースのたっぷり載った白身魚が食べたくなった。そしてフランスパンが恋しい。どうして日本のパンは柔らかくふわふわしたものばかりなのか。がっちりと歯ごたえがある、そんなパンが食べたいのに、どこにいっても気の抜けたようなパンばかりだ。

 酸っぱ味のある緩いコーヒーに苛立ちを感じながらすすって記事を読み進めると、どうやらこの新薬は、根本的に不安を取り除きながら、ポジティブに物事を考えることができるそうだ。

 鬱になるのは脳深部で炎症に関与するPCSK5遺伝子が関連しており、これは遺伝子レベルで治療が必要になる。

 鬱病の家系ではない、正常なPCSK5タンパク質の領域の情報をコピーした分子を患者に投与することで、鬱や燃え尽き症候群の最新の薬としての特許を申請中だという情報が載っていた。

 今までの抗うつ剤は、自分の体に合っていないと副作用で服用を中止するケースが多かったが、この薬は全く副作用が出ないそうだ。いい薬が開発された。

 もう数年前に開発されていたら、シャルロットも飲めていたのにな、そしたら私たちはまだ付き合っていたのではないか、と考えた。

 シャルロットは表向き、とてもポジティブな雰囲気が合ったが、付き合ってみてから色々とネガティブな方向性に考える性格が浮き彫りになった。どこかに出かけたり、予定を組むことも気が重い彼女は旅行に行く直前までストレスを感じており、行ってしまえば楽しく過ごすのでパッと見ポジティブに見えるのだが、そのポジティブに行き着くまでは煮えたぎったような不安と怒りに耐えているのだ。

 もっとポジティブに考えられるように、何が不安なのか書き出すように促してみたり、一緒にカルチャーセンターで瞑想に連れ行ったりもしたが、同じ出来事に対面しても、私は割とポジティブに、彼女は常にネガティブにしか物を考えられなかった。遺伝子レベルでその違いがあるといわれれば納得いく。

 この薬が早く一般の人に届くといいな、と思いながら、またコーヒーをすすった。

 なんで同じコーヒーなのに、こんなにまずく作れるのか謎だった。

被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:パリ

 一週間ぶりに晴れたので、今日は公園に行ってみようと思った。大ぶりにはならず、しとしとと降ったり、止んだりが降り続いたこの一週間は、ほぼ毎日図書館に通っていた。パリ人のようにちょっとの雨では傘をささず、帽子をかぶる、という技を身につけた。というのも初日で傘を無くしてしまい、また買うのが億劫だったからである。   ちょっと雨が強い時は三十分も待つとまた小雨に戻ったり、止んだりするので、別に傘を差す必要がなかった。

 今日は朝から快晴なので、六区にあるルクセンブルグ公園に来た。中心にある小さな池の周りに椅子が置いてあり、そこに腰かけて図書館で借りてきた十六〜十七世紀のネオ・ストイシズムという本を開いた。様々な学者の論文が一冊にまとまっている本で、特に、フランスの接学者、ルネ・デカルトのCongitationes privataeという彼の仕事が、古代ギリシアのストア哲学のストイシズムの影響を受けている、という論文だった。フランスの有名な教授の論文で、今はリール大学の教授だと書かれていた。

 英語に訳されている彼の論文は読んだことがあるが、フランス語での本を見つけたので興味があって手に取ってみた。フランス語は多少は分かるが、この手の論文になると、翻訳アプリを片手に苦戦する。一ページ読むだけでだいぶ時間がかかる。

 池を見ると小さなヨットのラジコンで遊んでいる子供たちがいた。学校は休みなのだろうか?と思ったら今日は土曜日だった。ずっと図書館にこもっていたから曜日の感覚が狂っている。

 空を見上げると今日もどんよりとしていたが、雨は降っていないので良しとしよう。予報は一日曇りの予定だが、パリの天候は不安定だ。突然雨が降ってくることもあるな、と思いながら論文に目を戻す。公園の程よい雑音が、なぜか図書館より集中できる。何かのビジネス書で、「本は立ちながら、そしてカフェやちょっとガヤガヤした場所で読む方が集中できる」と書いてあったら、論文を持ったまま起立し、読み続けた。

 しばらくすると数滴、ポツポツと雨が降ったが、またすぐ止んでしまったのでそのまま公園に居ようとも思ったが、お腹も空いたので散歩がてらどこかに食べに行こうと荷物をまとめる。

 ルクセンブルグ公園にはなかなか立派な銅像がたくさんあり、泉の周りに銅像が立ち並ぶのをぼんやりと眺めていた。南の方の門に向かうと、大きな芝生が左右に広がり、そこで友達とピクニックを楽しむパリジャンたちがグループごと楽しそうにしゃべっている。ギターを弾いている友人を眺めるグループや、昼からワインを開けてピクニックがてらパンやハムを摘まんでいるグループ、横になって日向ぼっこをしながらキスをしているカップルもいた。

 公園を抜けてしばらくはめぼしいカフェもレストランが見つからず、ぐるぐると歩き回っていると、トイレにも行きたくなって余計に焦り始めた。その時に“Menu de jour 15 Euros”と書いてある看板が目に入り、今日のメニューが15ユーロだからそんなに高くないだろうと思いとりあえず入る。

 レストランの中もガラガラで、外のテラス席もガラガラだったから、あ、しくじったと思ったがトイレは使いたいし、腹も減った。とりあえずテラス席を選び、トイレはどこか、と聞くと奥の左、という答えが返ってきた。

 お世辞にも綺麗とは言えないトイレで用を足すと、スッキリしたのかさっきよりリラックスした。外のテラス席に座り、メニューを開くと、サラダや、鴨肉、ステーキなどが並ぶ。しかし全部20ユーロ、また30ユーロ近い金額だ。

店員が注文を取りに来る。”Vous voulez boire quelque chose?" 何か飲みたいか聞かれている。

「Menu de jour? What is it?」日替わりメニューはなんですか?と英語で聞いてみた。

「Chicken」鶏肉、というそっけない答えが返ってくる。鶏肉のなんだ、フライなのか、オーブン焼きなのか、どこの部位かも分からないが、値段の安さに釣られて

「One please」一つお願いします、と頼む。

 ”Et boisson? vous voulez un verre de vin blanc ou rouge? Wine?” 猛烈に早いフランス語の後に、ワインと言ったのが聞き取れた。ワインでも飲もうかなという気になったが、「カラフ・ドォー」と答える、フランス人に教えてもらった水道水という頼み方だ。そうしないと飲み物でまた5ユーロかかってしまう。

 定員は何も言わずにそのままキッチンへ消えていった。周りのテーブルを見渡すと、新聞が置いてあるテーブルがあったので、食事を待つ間、読むことにした。

 フランス語は大学の時に少しかじっただけなのでほとんど分からないが、英語と同じ綴りの単語が多いからなんとなくだが読める気がする。新聞はル・モンドというフランスでよく見かける新聞だ。トップページの見出しに、ロシア、薬、鬱、という単語が並んでいるのが理解できた。続きは5ページに続くと書いてあったので、記事を開いてみる。

 二回ほど読んでみたが、ロシアとなんかの薬が関係していることしか分からなかった。無愛想に食事を運ぶウエィターが来たので新聞は空いている椅子に置いた。

 チキンはカラカラに乾いたササミのオーブン焼きのサイドにオーブン焼きのポテト、それから控えめのサラダが数枚、色つけのために皿に載っている。

 パリに来て分かったことは、人気のない店にはうまい飯がない、という事だ。

 マスタードがテーブルに置いてあったので、気休めにそれをチキンにつけて食べた。

 このパサパサの肉、ポテトに更にフランスパンを持ってきた。どんだけ乾き物でテーブルを埋め尽くすつもりか。「カラフ・ドォー、シルブプレ」水を持ってきてくれ、さっき頼んだじゃないか、”ah si, oui" あ、忘れてたわ、というような声を出してまたキッチンへ消えていった。そしてすぐに小さな水の容器を持って出てきた。


被験者2、フランス国: フィリップ・ブエ

場所:東京

 日本は楽しいが、楽しいことをすることにも飽きてしまった。

 元々、そんなに美術館や観光にも興味がないし、バケーションと言ってもモロッコやチュニジアなどのリゾートでホテルで、三食付きのコースを選び、昼からプールサイドで飲み、もうそろそろ飽きたな、という頃に帰る、そんなバカンスしかしたことが無かったから、日本でも何をしていいのか、どこに行けばいいのか、3週間もすると流石に物珍しかった気持ちも収まり、家族が恋しくなった。


 妻のシャルロットは子供たちが生まれるタイミングで教員免許を取り、小学校で教えている。夏休みは、子供たちと同じ夏休みが取れるし、私も年間で5週間休みが取れるから夏休みは最低2週間は家族で旅行に行くと決まっている。子供が小さかった時は、3食付きのホテルが楽だから、という理由で毎年行っていたが、子供たちが大人になる頃には毎年行くから、という理由で同じように似たような場所に行くことが多かった。全く60近くなるまでつまらない人生を送ったもんだ、と日本に来て初めて感じた。

 だが、日本にきたところでやっていることはなんら変わりなく、ちょっとエキゾチックな場所で全く同じことをしていた。レストランでご飯を食べ、新宿のホテルの部屋に帰ってきたらこのホテルで流れる英語のBBCチャンネルを見るか、Netflixで見たいものが見つからないタイトルをスクロールする。

 そういえば、明日でまた日記の提出が求められる。最初のうちは面白がってたくさん書いていたが、書くことも無くなってきた。ため息をつきながらNetflixの隣に新規タブを立ち上げ、メールを開く。

政府極秘調査「ソーシャルエクスペリメント」本部

吉田 稔 研究員


「苅野先生、このメール読みました?」

 フランス側の政府極秘調査官からのメールをさしながら、急足で研究室を横切っているマッドに声をかける。先生の事をいつもマッド、マッドと呼んでいるから、たまにうっかり「マッド」と呼んでしまうのではないかと不安になる。

「なんだ、何か面白い発見があったか?」

「あのですね、二人目の被験者・フィリップ・ブエも調査対象になるみたいです。私たちに薬を渡しに行けと要望が出ています」

「でかした!」と言いながらバンザイをしたマッドは書類を持っているのを忘れていたのか、バインダーに挟まっていた紙がバラバラと地面に落ちた。

 一瞬沈黙したまま、床に散らばったバインダーと紙を素早くまとめ直すと、苅野先生は続けて言う。

「よし、どこに泊まっているか、詳細を聞いて早速明日、このフィリップやらに会いに行こうじゃないか。吉田、英語は喋れたよな?

「え、僕ですか? う〜ん、中の上ぐらいです。」

「上出来だ。よし、メールの返事をしたら薬を準備しておけ!」

 そう言い残すとマッドはまた急足で研究室を出ていく。相変わらず台風のように来て、去る人だな、と思う。あと五年で定年退職の年だが、あの人から研究を取ったらそのままぽっくり死んでしまうかもしれないな、と思った。


被験者2、フランス国: フィリップ・ブエ
場所:東京

 黒いスーツに身をまとった男二人がホテルに来た時、正直フランスに帰れるのかと思っていたのに、結局はビタミン剤だけ渡されて「数日様子を見ろ」と言われたのにはがっかりした。

 妻のシャルロットと子供たちとは日本時間の夜遅く、向こうの夕方に話が少しするだけで、それ以外は何日も人と話していない。次の日記で、もう帰りたいと言えば帰らせてくれるのだろうか。

 ビタミン剤のボトルを見つめ、一つ取り出す。目の前にあったミネラルウォーターのボトルで一錠飲んだ。


被験者3、日本国: 堀内 夏希

場所:バスク地方


 黒ずくめの二人組がきた翌日の朝は久しぶりにスッキリ起きれた。

 朝から海沿いを散歩し、Mairieと呼ばれる市役所がある広場のカフェでコーヒーを飲みながらこのMairieのデッサンをしていた。

身体中からエネルギーがみなぎるかのような感覚がある。昨日のビタミン剤だけでこうなったのか?医者の彼女に話した事で心が軽くなったのか。

 どちらにしろ、ポジティブになっている間に、また色々とやってみたくなった。

 カフェを後にし、市役所の広場から一本入ると、さらに大きなマーケットに出た。ここでは週に二回、新鮮な野菜やお肉、お魚が手に入る。チーズ専門店や、スパイス専門店などもある。サンドイッチだけじゃなくてちゃんと自分で料理してヘルシーな、体にいい物を食べたくなった。

 マーケットの中を歩き回り、一人には多すぎる量の野菜やフルーツを買った。魚も買いたかったが、スーパーの切り身ではなく、ウロコも頭もついている状態だったのでどう調理すればいいのかイマイチ分からず、美味しそうなアサリのような大きさの貝をを見つけたので代わりにそれを買った。そしたら次に並んでいたおばあさんが、お頭つきの魚を3枚に下ろしてちょうだい、とお願いしていた。そういうことができるのか〜次は挑戦してみよう、と思ったところで、少し違和感を感じた。

 普段の自分であれば、こんなにポジティブにものを考えないし、おばあさんが先に買い物してたら買い方が分かったのに、とか後悔する気持ちが先に出そうな出来事だが、こんなにスッキリと「ま、いいっか、次回買えば!」と思考を転換できるのは久しぶりだった。幼い頃から絵を描くのに夢中になって時間を忘れ、宿題をやるのを忘れてしまった時に「ま、いっか」と思って寝た日を思い出した。

 鼻と食欲をそそる香辛料の香りがした。パエリアを作っているスタンドだ。パエリアはスペインの国民食だが、向こう岸に見えるのがスペインと考えれば食べるものが一緒なのは当たり前だろう。両手をいっぱい広げたくらい大きな鍋に、サフランで綺麗な黄色に染まった長めのお米、その上には手長えびやムール貝などの海鮮が豪華に散りばめられている。

 前にいる子連れの家族は大きなお弁当箱の容器に入れてパエリアのお持ち帰りを注文していた。私も食べてみたい!もう少し小さな容器があるか店員さんに聞いてみた。小さい容器も一人分には少し大きいように見えたが、また別の日に食べればいいや、と思ってお願いした。

被験者2、フランス国: フィリップ・ブエ

場所:東京

 黒ずくめの男たちが来た翌日はスッキリ起きれた。朝から活力があり、東京を観光しようと思ったが、思い切って日帰りでいける場所はないか探してみた。

 山がみたい、とかではなかったが、少し自然に近いところに行ってみたくなった。オンラインで調べると青梅、というエリアでは自然が豊かで山も川もあり、カヤックができると書いてあった。電話をかけて見たら午後からだったらカヤックのツアーに出れるという事で、早速準備をして新宿駅へ向かう。電車も1時間少しで着くそうだ。

到着した日はこの新宿駅で一時間近く迷ったのを思い出し、クスッと笑った。今ではなんとなくだが、どこがJR乗り場かは分かるようになった。ほとんどは山手線で移動していたが、そういえば一度逆の方向に乗ってしまったな、ということも思い出してはクスッと笑った。

 久しぶりにこんなに清々しい気持ちになったものだ。昨日の二人が残していったビタミン剤が効いたのだろうか、やはり偏った食事をしていたから体が最初にギブアップしてしまったのか。ラーメンは少し控えた方が良さそうだ。

 電車を降りた瞬間から、青梅の空気は新宿と違う、と感じた。澄んでいる、と言えばいいのか。気温も少し涼しく感じた。

 カヤックスクールに到着すると、ウエットスーツに着替え、ヘルメットをかぶりオールとカヤックを持つ。久しぶりに自分の体より遥かに大きいものを持たされた感じがした。小学校の時に、ホッケーを習っていて、そのギアが自分より大きかった感覚に似ている。

 流れが急でない川の端にカヤックを置き、ひっくり返らないようにそーっと乗り込む。ウェットスーツを着ているが、夏ではないので、落ちれば水は冷たいだろう。ちょっとぐらぐらとしながらカヤックへオールを渡してもらい、右へ、左へ、ゆっくりオールを動かす。カヤックは何度かやったことがあるから、もうインストラクターの人がどんどん奥の方へ進んでいくのを追いかける。木陰の隙間から太陽の光が眩しく注ぎ込む中、カヤックはどんどん、川の奥に進んでいく。

 同じ東京の中に、高層ビルの森のような新宿から、こんなに緑の濃い山があるのか、なんか意外だった。そしてこの色の濃さというのか、木の生い茂り方がフランスと全く違う。

 額にはじんわりと汗をかいてきた。

 オールを右、左、右、左と漕いでいると水の動きと共に自分の体も自然の中に一体化される気分になって、心地よい。右、左、右、左。

しばらくすると川が少し狭くなる場所の前でインストラクターがストップした。

「ちょっと休憩しますか。ブレイクタイム、オッケ?」と言って、水のボトルを差し出してくれた。冷たい水に唇が触れると、喉が潤いを求めてごくごくと音を立てながら流し込んでゆく。この川のように、冷たい水が体内に入った事で、また体が自然に強調していくのがわかる。体内に水が入って、それが溶けてこの川の水へ流れ込んで行くような感覚だ。

 冷たい川の水を手に取り、それを汗ばんだ額へ、顔へ、当てる。気持ちいい。昨日まであんなに落ち込んでいたのが嘘のようだ。もっと早くこうして郊外の方に来るべきだったのか。いや、あのビタミン剤のように、もうちょっと栄養のある食事をしていれば免れた事だったのか。

 どっちでもいい。今この美しい景色、水、自然、全てを楽しめばいいのだから。インストラクターがオールを手に取り「レッツゴー」と声をかける、「Yes, Let's Go!」元気よく返事した。




政府極秘調査「ソーシャルエクスペリメント」本部

吉田 稔 研究員

「吉田くん、その後、堀内氏とフィリップ氏の調子はどうだ?」

 苅野先生、マッドは頭をかりかりと掻いている。ふけ、のようなものがひらひらと机に舞っているのが見えた。仕事にメガネは必要だが、この新しく作ったのはどうやら見えすぎるような気がする。

「二人とも好調なようです。ロシア側の公言どおり、副作用もなく、鬱症状だけが改善されているようです。あまりにも飛躍的なので、これはぜひ他の被験者にも投与したいのですがどうしましょう?」

「もう数日待とうじゃないか。フランス側にも確認をとる必要があるからな」

「それにしても、やっぱり苅野先生は天才ですね。ロシアから漏れた新薬品の開発資金をものすごいスピードで集めましたし、このまま実験も成功すれば私たちはノーベル賞受賞も夢じゃないですよ。今まで不可能だった誰でも使える抗うつ剤、レポートの様子を見ると不安や後悔などもほとんど無くなっている、という結果も出ていますし」

吉田研究員はスクリーンに映されるレポートを眺めながら、誇らしい気持ちでいっぱいになった。

「まだまだ安心するんじゃないぞ。この研究結果をどうまとめて、どうやって発表するかがまた大きな課題だからな」そういうとマッドはまた頭をかりかり掻きながら部屋を出ていく。彼の通った後にふけが光を反射し、キラキラと光っているようにも見えた。


被験者1、日本国: 森永 秀太郎 (チル)

場所:パリ


 Timのアパートは1週間も念入りに掃除をしたらだいぶマシになった。

 相変わらずカリーンのカフェで提出するレポートを書きに行ったり、アパートの様子を教えたり、気がつくとほとんど毎日通っていた。ある日カリーンが「今日の夜は暇?友達のうちでパーティーがあるんだけど一緒にくる?」と声をかけられた。

「イエス!」行く行く、と張り切って返事をした。「フーイズ、ディス、フレンド?」友達は誰なの?と聞く。”A Friend’s Friend” 友達の友達の家らしい。

 そんなところに誘われていない俺が行ってもいいのか?ましてやカリーンの友達でもないし、と迷っていると、”Meet me back here at 7? Ok?” と断る余地もなく、七時にここで待ち合わせて行こうと。


 夕方戻ってくるとカリーンはいつもと違ってちょっと化粧をして、いつも縛っているウェーブがかかっている髪をおろしている。唇はルージュがひいてあり、薄く化粧をしているだけなのにすごくセクシーに見えた。

”Shall we go?”とメトロの駅に向かって歩く。この友達のうちは地下鉄で十分くらい行った場所らしい。僕はさっき買ったボトルワインを持ちながら、財布を開けてメトロのチケットを出そうと苦戦していた。こちらの店では買ったものをそのまま袋に入れずに渡されることが多い。

 ようやく見つけた地下鉄の回数券を使って入ると、生臭い匂いとそれをかき消そうとした消臭剤の混ざった匂いがする。パリの地下鉄の独特の匂いだ。

 十二番線がホームに到着すると自動ではなく、フックを持ち上げ、ガチャリとドアを開ける必要がある。慣れている人はまだ電車が停止していない状態でドアを開けるから危なくないのかなと不安になる。

 地下鉄に乗ると、さっきとは違う匂い、今度は体臭が混ざって充満した匂いがする。夜の電車は仕事帰りのスーツ姿の人や、友達と遊びに行く若いグループ、高校っせいっぽい男の子はイアホンをし、参考書を開いている。試験が近いのであろう。

 次の駅で、アコーディオンを弾くおじさんが入ってきた。短い、陽気な曲を弾いたと思ったら、車両を歩回り、お金をせがんでいる。パリの地下鉄には物乞いが本当に多いが、こうやって音楽をひく人はその中でも努力をしている気がする。チルはポケットの中にあったコインをアコーディオンおじさんに渡した。

 優しいのね、とカリーンがつぶやく。別にカリーンの前でいい格好をしたいわけでもなかったが、優しいと言ってもらえたのは思いの外、嬉しかった。よく地元の駅前でギターを弾いて歌っている若者には小銭をあげていたので、初めてそれが役に立った気がした。

 友達の友達のうち、はRue la Fayetteという大通りにあった。Rueとは”通り”という意味で、道の片側に基数番号、右側に偶数番号が並ぶ。日本の丁目・番地よりも簡単に場所が見つかる。パリでは道の名前にさえ辿り着ければあまり迷子になることはない。

家の前に着くと上の階の窓が全開に空いていて、音楽がかかっていて、中ではたくさんの人がいる様子が見えた。思っていた以上の人数が来ている。

 五階まで階段で上がる。正確には、フランスでは一階がゼロ階の扱いなので、六階まで歩いて上がる。毎日こうして今住んでいるアパートまで階段で上がっているので、最初ほどゼエゼエすることも無くなった。

 アパートのドアを開けるとたくさんの人がワインを飲みながら雑談したり、踊ったりしていた。とりあえず通りかかる人一人一人止まって、女性だったら両方のほっぺたをくっつけキスをする”音”をする。男性には握手をする。女性同士もキスをするので、女性はずっとキスをし続けなければいけないんだよな、とカリーンを見ながら思った。

「今挨拶した人みんな知っているの?」とカリーンに聞くと「え、誰も知らないけど、こっちの礼儀なのよ、みんなに挨拶するの」と教えてくれた。「ほら、あっちに行ってワイン頂きましょう」と飲み物が並んでいるテーブルに向かう。僕は持ってきたワインのボトルを空けている間、カリーンはすでに白ワインを二人分ついでくれていた。だから他の空いているボトルと一緒に置いておいた。

「乾杯」と僕が言うとカリーンは「ちんちん」と言ったので吹いてしまった。”Why are you laughing?"なんで笑っているの?と聞かれたので、ちんちんは日本語で男性器を指すのだよ、と教えてあげたら、カリーンも爆笑しはじめた。周りの人たちもどうしたのか?と聞くのでカリーンは笑いながら説明するとみんな大爆笑した。

 日本から来たの?何してるの?と何人かに聞かれて、「プロジェクト、ワーク」とつたない英語で返す。「私の名前はスティーヴです」と日本語で自己紹介できる人も居た。みんな陽気に大きな声でチンチーン!といまここで習った日本語をお披露目する。なんか他にも汚い言葉を教えて、というので、クソとかうんことか教えたらみんな発音に苦戦し、「スティーブはクソです」「スティーブはうんこです」というフレーズをスティーブに連発しながらワインを飲む。


「そういえば、大学の図書館に最近よく来る日本人の子がいるわ」と、クロエという女の子が言った。「多分、日本人だと思うけど。私、13区のBibliothèque nationaleって所で働いてるんだけどね。毎日朝から晩までいるのよ。メガネかけて真面目そうだけど、なんかプロジェクトで来てるって言ってたわ、確か。あなたと同じプロジェクトだったりしてね」

 同じプロジェクト参加者だって?白ワインと赤ワインを飲んだ後の脳みそがまどろっこしく、でもすごい情報を手にした、という気持ちになった。

「毎日来ているから、遊びに来たら紹介するわ。確か哲学を専攻しているの」そう言ってクロエと番号を交換した。クロエは背が低く、ストレートの黒髪でメガネをかけている、カリーンとは正反対だ。カリーンの方を見ると、カールがかかった金髪の長い髪、背が高くてすらっとしている背中が遠くに見えた。

被験者5、日本国:大竹 明(アキラ) 

場所:パリ

 今日も図書館に来ている。この図書館には1400万の文献と2300人のスタッフが働いている超、巨大な敷地だ。4つの支柱のように立っているビルの上の方はまだスカスカで、これから出版されるであろう書物の分が空いている。

 図書館の秘書員の顔も覚えた。ストレートの黒髪のメガネをかけた女性が一番愛想がいいので、彼女がいると声をかけるようにしていた、名前はクロエだったと思う。昼の時間にランチに行こうとしたらクロエから呼び止められた。話を聞くと、昨日のパーティーでたまたま日本人に会った、そして彼もプロジェクトで来ていると言っていたと。プロジェクト?「なんかあなたの説明に似てたのよ、政府のとか、三日に一度レポート出してるとか。なんか面白そうだから一応番号聞いておいたの。よかったら連絡してみようか?」 

 政府がらみのプロジェクトで三日に一度のレポート提出なら同じプロジェクトに違いない。知っている事も自分と変わらないのかも知れないが、是非会ってみたいとクロエに申し出た。

 彼女は連絡してみて、お互いの番号を交換させておくから、と番号を聞かれた。クロエの事が気になっていたアキラは少し高揚を感じながら彼女に自分の番号を渡した。

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