友人に勧められ、吉本隆明の著者を手に取った。『遺書』というタイトルである。選んだ理由は、価格と、タイトルになんとなく惹かれた、ただそれだけであった。 吉本隆明は詩人、親鸞の研究などで知られる評論家でもある。本書『遺書』は” 死" を「国家」「教育」「家族」「文学」など様々な視点から捉え、彼自身の死生観を俯瞰的に語った一冊である。大変興味深かったため、軽く紹介させてほしい。 そもそも「死」には様々な概念がある。 吉本隆明の言葉を借りれば、「肉体の死」、そして「観念の死」。
さて、わたしは監獄小説が大好きである。 監獄で書かれた手記は、大変美しく、興味をそそる。ジュネを筆頭に、ラスネール「回想記」、ワイルド「獄中記」にソルジェニーツィン「収容所群島」、国内からは山本譲司の「獄窓記」や、世間を騒がせた市橋達也の「逮捕されるまで」など、凶悪犯に政治犯、冤罪に至るまで種々多様の監獄手記が存在し、一定の人気を保っている。(話すと長くなるので省略。) 仏語翻訳家の小倉孝誠による、犯罪者の手記を論じる文章を読んだ。 彼は凶悪殺人犯がこのような手記を残す
生きているだけで物凄い税金。なんてこった。 生きたくも死にたくもなくて、生きている言葉を書ける人に、泣ける人に、死ぬパワーがある人に憧れる虚しい日々。本当はなんにもしたくない。嫌なことを嫌と言いたい。だけどそこに流れるのは、誰かと生きたいと思ってしまう惨めな時間。自分のような人間に、社会で生きる空間など与えられない。他人と生きる唯一の方法は演技すること。それさえも嫌なのなら死ぬまで救いなどない。どこかで演技ができなくなった日、わたしはまた見捨てられる。その繰り返しを人生と
終点、新宿。嫌いじゃない。 最初の記憶は小学校の頃で、長期休みに母に連れられあの凄まじい駅構内を歩いた。大江戸線に乗換え祖母の家に行くと、そこに新学期の前日まで預けられた。ストレスのせいか吐いてばかりいた。 次の記憶は社会人になる頃で、新宿は馴染の場所となり毎日無表情で駅構内を歩いた。お気に入りはヨドバシ街のブックオフと新南口のサンマルクカフェ。東口のナンパは改札内までついてきて、南口のデパ地下で知り合いが働いていた。わたしはその最低の街の百貨店やアパレルショップでし
沈みゆく夕焼けを見て、あの太陽と一緒に消えたいと思うとき。泣けるひとに憧れながら眺める、泣きたくなる空。死にたくなる、生きている言葉。太陽が昇ればまた無意味な一日か、と肩を落とす。 死んだ人の文章を読んで生きてる、と誰かが書いていた。穂村弘か、虫武一俊あたりだったと思う。 自分の話はしたくない。 素直な気持ちを話したら一人になってしまうことが分かるからだ。わたしは独りになりたくなくて、肩に力を入れ、熱心に人の話を聞く。 好きなものを好きと言うと、嫌なことを嫌と言うと、見捨て
我々は信じたくない。思い出とは、過去とは、経験とは、ただ、自分のなかに佇むだけで、その体積のわりに、現在に一切の知恵も利益も与えてないことを。それどころか、その思い出のせいで我々は怖気づき、行動は制限され、退化しているとさえいえる状態に陥っている。スピッツの草野さんだって言っている。「君が思い出になる前に、もう一度笑って見せて」と。 成長は退化だ。時間が経てば精神は朽ちる。自分を含めて、人類はどうもその事実を信じたくない。いろいろと都合が悪いのである。それ故に、過去の出来
今からパワハラ上司と9時間ふたりきり缶詰乗務なので応援お願いします。今日次第でこの職場に留まるか逃げるか多分決まります。
突然だけれど、人生の全ては真似事である。 わたしは普段、大人の真似をして、”大人みたいな顔”をして街を歩いている。仕事だってベテランの真似事をしているに過ぎない。そういえば友人はそれを”コスプレ”と呼んでいた。真似事の回数が増えれば習得までにかかる時間は短くなり、まるで”出来る人”みたいになってくる。だけども中身は中学二年生頃から全く成長した感覚がないし、家ではゴミもまともに捨てられず、掃除も洗濯もできない(しない)。自炊なんて夢のまた夢で(望んですらいないけれど)、人体の
カミュの「異邦人」を再読した。 そもそも死刑史上主義文学が大好きなわたしにとって、本書を避けて通ることは不可能だった。初めて読んだのは、ジュネやユゴーを読み始めた頃で、悲しみの概念を知らない主人公にわたしは激しく同情した。 (そう、我々は、自分の死さえも心の何処かで願っているのだからそれは当然のことだ。) 話が逸れた。死刑の美学について語るとさらに話が長くなるので、そういう話は省略。 今夜は、主人公の恋人マリイについてさらっと書く。 本題に入るとわたしは、マリイ、つま
突然だけれど、「過去はある?」と聞かれたら、「無い。」と答える。別に哲学的な話をしている訳ではなくて、わたしは自分の衝動性ゆえ、過去に気を配る能力が極端に低い。 突然頭に閃光が走り、行動する。そのとき、わたしが持っていたはずの、過ぎ去った時間(のようなものは)姿を隠している。わたしは見向きもせずに(できずに)突っ走る。 思い出は、痛い。それも多ければ多いほど痛い。だから後ろは振り返らない。痛いのは嫌だから逃げて回る。時間が経つとそれらはただの傷跡になり歴史に刻まれる。まる
コミュ力が高い。無駄に、めちゃくちゃ高い。つまり、わたしは弱い。最近はそれを再認識する出来事が立て続けに起こった。 生きる力が、実は全然ない。自由を愛するにも関わらず、ひとりでは生きられない。どこからか漠然とした不安がやってきて、家族のことを思い出しては孤独を感じ、死ぬことに憧れる。 人と話しているとき、その漠然とした不安のようなものはどこかに隠れる。一生消えることのないその不安が。ひとりになればそいつはまた戻ってきて、わたしは再び空虚な空間にひとり投げ出される。肉体の中に
国境を超えて一ヶ月経った。つまり、何度目か分からない逃亡から、一ヶ月経った。 よくよく考えると、この一ヶ月で自分でもびっくりするくらいたくさんの人に出会って、しかもみんなみんないい人で、何故か見ず知らずの自分を助けてくれた。 居場所はいくつあっても良い。帰れる実家も、頼れる家族もいないが、今何かあったら帰れるなと思える場所が、2つある。 感謝してもしきれない。恩だってどう返したら良いのか分からない。だけど、今回に限っては、わたしはその人たちに本当に助けられた。そのおかげで
部屋ができた。が、わたしの全財産はスーツケースひとつである。布団を置いたがあまりにも殺風景で、廃材で何か作ろうかなと考える。 今から10年くらい前、わたしは物を拾うことと、盗難との違いが分からなかった。はじめてひとりで住んだ場所の備品は、殆どそういう形で手に入れた。道端で、大きいマンションのゴミ捨て場で、ときには屋上や空き家で。資源回収の日は特に楽しみで、早起きして近所で本や漫画を漁って読んだ。忘れもしない、幸福な火曜日。こうして書いていて思うけど自分は何かがおかしい。
最近気がついたこと ※面白くありません 少しでも自由が制限されると逃げる。 目の前にいる人が、"気に入りそうな人" を一瞬で見極めその演技をする能力がやけに高い。 見捨てられることが怖かったからだろうか。 そのため大抵気に入られるが、演技しているうちに行動が制限されはじめ疲れて逃げる。 逃げて傷つくのは自分だけではない。 で、また逃げそうで怖いから他人に気を許すのが怖い。 酒を飲んでいるときしか食欲がない。 なので逆に酒を飲まなければ殆ど何も食べずにいられるな
エレカシを聴いて泣いた。 カツ丼を食べに3時間歩く。 知らない土地でたまたま泊まった宿の、屋根裏部屋に住んでいる。 その宿代として、朝10時から掃除をする。 無職期間がもうすぐ終わる。 誕生日が過ぎ去る。 海外への未練は消え去る。 傷は残る。 保険証がないせいで強制断薬状態になり目眩がする。 屋根裏で知り合った51歳のスナフキンみたいな人と飲み倒す。 花火が買いたい。 花粉症にアレグラがめちゃくちゃ効く。 全財産がスーツケースひとつ。 出会う人に恵ま
でも何処へ? わたしはずっと迷子だよ。 居場所なんて、最初からない。自分から作らなきゃいけない。頭では分かってる、分かってる。分かっているけど解らない。迷子には帰る場所が必要なのだ。 ひとつの居場所に留まること、と配られた地図には書いてある。 人間は、例えそれが堕落だとしても、楽な方へ漂う生き物らしい。わたしは、はぐれることに夢中になる。一度置いていかれたら、大人しく後を追えば良いこの世界でひとり。 全く別の道を歩き出すことには中毒性がある。幸せさえ感じる。わたしは何度も