りょーへい

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最近の記事

富士は見えない

2年ぶり…いや3年ぶりの沼津だろうか。 改札を出た私をのっぽパンが迎えてくれる。 初めてこの駅に降り立ち、手前の弁当屋で売られていたぬまっ茶を買った時のワクワクが懐かしい。ご当地商品が棚に陳列されている光景は、自分がその地に立っていることをいつも実感させてくれる。 駅前には相変わらずテーマパークの入場ゲートのような人工の違和感が漂っている。 カラフルな笑顔を咲かせたキャラクターたちが貼りつけられた巨大な看板とラッピングバスは、閑散静寂とした地方都市の景観に浮かぶようにその存

    • 吉祥寺

      ふと見たくなる風景が、 ふと食べたくなるあの味が、 ふと見たくなる、あの人の顔が。 どんなに遠くて面倒でもこの衝動には勝つことができない。こういうのを使命感と呼ぶのか、それともただの欲望、あるいは発作?そんなことを考えている間に脳内世界の私は先に"そこ"に到着して、私の欲望を刺激し膨張させる。 しかし大抵の場合、"そこ"に辿り着いたところで何も解決しない。 あるのは想像通りの風景と期待を裏切らない味。 そこから先はいつだって自力で、"そこ"に行けば何か運命のようなものが何

      • ダメスパイラル

        『何をやってもダメな日』というのが私にはある。 今日がまさしくその日なわけだが、 ・ミルクティーをこぼす ・バタバタして家を出るのが大幅に遅れる ・1時間半かけて鎌倉まで来たのに目当てのカフェが軒並み定休日 ・奇跡的に開いていた店は行列 ・楽しみにしてたドーナツ屋がほぼ品切れ ・営業時間を見誤って行きたかった盆栽屋に行けない てな感じで、本当に何をやってもダメなのか、はたまたミスに目が行きがちになってしまっているのかわからない状態に陥いるのがその主な症状だ。 折角リフ

        • lose my book

          “lose my way”という表現がある。 最も私が見失ったのは本であったが、 今朝方家を出ようとすると暇つぶしに持参しようと考えていた本が、6畳ほどしかない狭い部屋からすっかり姿を消していた。 この頃の日曜は大学1年時以来の知人、といっても実の父との間以上に歳の離れた方のもとに家庭教師の顔を片手に伺っている。ただここでこの話を出したのは教え子の成績について熱心な教育論を説きたい訳ではなく、自宅から先方宅まで片道2時間はくだらないことを訴えたかったからである。であるからこ

        富士は見えない

          白天の旅路

          恐らく私の卒業旅行となるであろう東北独り旅は、幸いにも天候に恵まれ例年のこの時期ではなかなか見られないほどの降雪となった。雪化粧に頬を染める山々、静寂に支配された銀世界の中にありながら脈々と粛々とせせらぎを宿す水鏡を眺めながら入る雪見温泉は、もうそれはこの風景を額縁に閉じ込めて部屋に飾りたいと思わせるほどに格別のひと時であった。 その中で訪れた一軒目の旅館でふと思いついたことについて、いつもの如くあてもなくふらふらと筆を進めてみたいと思う。軽く寝る前に書き上げてしまうつもりが

          白天の旅路

          全隊に告ぐ。本作戦は失敗。繰り返す、本作戦は失敗。

          本日12月10日木曜日は私が1ヶ月近く前より計画していたある作戦が実行されるはずの日であった。いや正確には計画自体は滞りなく遂行された。しかしそれにより得“る”はずであった‘’目的のもの”が私の手中に収まることはなかった。しかし本作戦における目的物は2つも想定されていたのに1つとして得られないとは、これを「二兎を追う者は一兎をも得ず」と称さずして他に何があろう。 このことわざを深い意図なく出して思ったが、今日の私はまさしく兎を追う1人の狩人だった。それも汚れの一点もない無垢な

          全隊に告ぐ。本作戦は失敗。繰り返す、本作戦は失敗。

          雑魚は何を夢に見るのか

          私生活の中でタスクに覆われてしまった時、ふとなぜ自分はこの様な雑魚ルーティンワークに追われているのかと虚無になることがある。 今日のメニューを紹介すると、まず起床すぐの「朝食」、こいつはなかなか厄介な雑魚で本質の「食べる」にかかる時間に比べ、その前後の「作る・片付ける」が総じて倍以上の時間を奪っていく。次なる「洗濯」は特にこの冬場にはこたえる雑魚で、末端冷え性の私はこの雑魚を終える頃には手先の感覚を失ってしまう。最後は学校や内定先からの「課題」で、ひとつひとつは大したことはな

          雑魚は何を夢に見るのか

          20代のための自由帳

          先日の#読者の秋2020 に向けて書いた感想文で見事な大敗を喫した私だが、その中で「書く」ことの楽しさと不自由さについてひしひしと感じる場面が何箇所もあった。 まさに今もそうなのだが、私は自分の好きなことを文章にすること自体はなかなか好きで、それは自分の思考を整理できるから、などといった優等生のような理由からだけではなく、文字世界の私は自分に対して素直になって表現することができるというのが、文章を書くことが好きな理由のひとつにあげられる。 件の「感想文」の中でも述べたが、私

          20代のための自由帳

          反省文 -あとがき-

          どこから謝るべきなのか、と悩んでいる間に「金木犀の少女」の投稿から3分経過していた。 #読書の秋2020 の投稿を何とか時間内に滑りこませることに成功した私は、深夜特有の空腹と15℃を示す室温計と共にこの文章を書いている。時に方々から聞こえる悪魔の囁きに身を委ねそうになりつつもやはりパソコンに向かっているのは、無論並々ならない罪への念からである。 まず集英社さん、偉そうなこと言ってごめんなさい。 そして安壇先生、もっと練りに練り上げた文章を投稿するはずが2時間で書いた稚

          反省文 -あとがき-

          地に打ちつけられた手袋 -まえがき-

          この歳になってよもや読書感想文を書くことになるとは。 長期休みごとに課されていた読書感想文を、苦虫を1つずつ口に運ぶかのような苦痛と憂鬱さで書いていた中学生の頃の私は、残り少ない貴重な学生生活の一端をそれに捧げている私の姿を想像すらしていなかっただろう。 私はそもそも本を読むこと自体あまり好きなことではない。物語自体は好きで中学生の頃は抜き打ちで行われる手荷物検査におびえながらも、毎日のように友達からマンガを借りては日付が変わるまで読みふけっていた。しかしマンガと小説では訳

          地に打ちつけられた手袋 -まえがき-

          金木犀の少女

          この文を親愛なる安壇美緒先生と、集英社に贈る 11月も後半にさしかかった東京は、寒暖を繰り返しながらも着実に冬の装いに移ろいつつある。 この時期、日本人の目を楽しませてくれる植物と言えば紅葉やいちょうの名前がまずあがるだろう。私は恥ずかしながらも植物には疎く、本作を読み終えてから後にニュースでいちょうを見るまで金木犀といちょうを混同しており、 「なんでこんな植物を名前に据えたんだろ。銀杏が臭くて嫌いなんだよな...」 とずっと腑に落ちないままでいた。 しかし正しく金木犀を認

          金木犀の少女