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31歳男。「生きている意味」を考えずにいられなかったので、自分なりに結論づけた話。

 こんにちは。映像ディレクターのなべしんです。
 みなさんは「生きている意味」について考えたことはありますか。

 『そんなことを考えるなんて、病んでるんじゃないか?』と感じる人も多いかもしれません。
 でも、この至上命題を自分の中で納得させないと前に進めない気がしている人も少なくないと思います。まさに私がそうした人間の1人ですから(笑)

 そこで、今回は自分がその問いにどう向き合い、どう折り合いをつけることにしたのかまとめておきました。また道に迷ったら自分で読み返せるように…。


いつから「生きる意味」を考えるようになったのか。

 この春で大学を卒業してから7年が経ちました。会社員生活も8年目に突入です。
 私は、「いや~大学時代って最高だった!」とは思っていません。友達も多くはなかったし、学部の勉強も好きじゃなかった。奨学金と仕送りだけでは生活がきつかったので毎日のようにバイトをしていました。
 学業が本分のはずなのに、バイトだけで月収20万円を超えた月もけっこうありました。
 
 生活が大変ではありましたが、この頃は「なんのために生きてるんだろう」と考えたことはありませんでした。大学を卒業したら、どこかの企業に就職して、お金を稼いで、金に困らず自由な日々を送れるはずだと思っていたから、ただその瞬間に向かって必死でした。卒業が待ち遠しくてたまらなかった。
 特にテレビ局に就職が決まってからは、希望していた職種(記者)に就けたこともあり、働くのが楽しみで仕方ありませんでした。人生に希望を感じていました。

 就職してからも暫くは「生きる意味」を考えることはありませんでした。仕事は忙しくてきつかったけど、「これを乗り越えれば能力が上がって、もっと仕事を楽しめるはず」と漠然とした期待を抱いて、がむしゃらに取り組みました。
 
 ただ、仕事を始めて4年目に突入した頃、うっすらと自分の心に影が差し始めました。自分の成長の鈍化、若者のテレビ離れ、記者の仕事への疑問…。いろいろな要因が重なり、仕事に対するモチベーションが下がり始めたのです。(記者の仕事への疑問については下記記事を参照ください。)

 当初は「成長」を理由にこなせていた雑務も、成長を感じられなくなると意味を見出せなくなってきました。
 やりがいを感じる仕事もありましたが、多くのやりたくない仕事のために朝から晩まで働き、飯を食い、風呂に入って、眠る。その繰り返し。定年が60歳だとしたら、これをあと30年以上も続けるのか…。
だんだんと「あれ、自分って何のために生きているんだっけ?」と考え始めていました。

 『自分の10歳上の先輩の姿が10年後の自分の姿だよ』なんてよく聞くけど、この仕事を続けた先になりたい自分の姿は無いかもしれない…。

 ただ、このときは「毎日やりたくない仕事に追われているから、生きている意味を見出せないんだ」と自分を納得させることができたので、「まだ若いんだし、転職もできる。仕事を変えれば何かが変わるはず。」と信じて転職することを決意しました。すると、「生きる意味」を考えて悶々とすることは無くなりました。転職できればなんとかなると希望を持てたからでしょう。

 そこからは「どんな仕事をすれば面接で自分をアピールしやすいか」「次になりたい職種に活かせるスキルが身につくのではないか」と何事も転職につなげて捉えることで仕事のモチベーションを回復することができました。

 無事に転職先が決まってからは、今いる会社の人たちへの申し訳なさこそ感じましたが、内心では「次の会社でどんなことをやろうかな」とワクワクしていました。
 そのワクワクは、転職先のテレビ局に入ってからもしばらくは続きました。慣れない仕事や環境に戸惑いながらも、新しいことを学ぶことが楽しくて夢中になれました。

 しかし、社会人8年目の今になって、奴は再び訪れました。
 「あれ、なんで生きているんだろう。」

なぜ、いま「生きる意味」を考えるようになったのか

 今回の生きる意味は、入社4年目の時に感じたものより深刻でした。仕事を変えたところで、また同じように悶々とする気がしたからです。

 そこで、「なんで生きる意味を考えてしまうのか」を考察してみることにしたら、一つの結論にたどりつきました。

 それは、「いろんなことが見えてきてしまった」ということです。

 社会がどう成り立っていて、自分はどのくらいの立ち位置で、今の年齢からはどんなことに挑戦できて、会社の先輩を見るにどんな人間になっていくのか。そして、そこにたどり着くには、どのくらいの苦労をしないといけないのか。
 地方局から大手テレビ局に転職したこともあり、地方テレビ局にいたころはブラックボックスだった「業界」のこともよりクリアになり、自分が平均的にどんな人生を送るのか見えた気がしてしまったのです。

 もちろん、まだ何も成し遂げてないし、自分の人生を諦めたわけではありません。この先、輝かしい未来が待っているのかもしれません。ただ、私生活でも結婚・出産・マイホームの購入というライフイベントを通過したこともあり、人生が先の見えるレールをたどっている気がして、ワクワク感が減ってしまった。自分の人生を一つの物語と捉えたとき、「読み進めたい」と思えなくなっていたのです。
 
 また、テレビ局は創業から60年以上経っているところが多く、非常に保守的な組織です。今の旧態依然とした組織の雰囲気や体制を変えられるほどの影響力を自分が持つには10年以上は間違いなくかかるだろうと感じたのも大きかったです。
 コンテンツを作る上でかかる制限や伝統的な価値観の押し付け、制作プロセスも従来の手順・手法以外はなかなか受け入れられないのもストレスですし、テレビのメインターゲットは自分より一回りも二回りも上の世代。自分の実力不足は自覚しているものの、このフィールドで戦い続けることに不毛さを感じ始めているのも関係しているのだと思います。

 ただ、「映像を作る」ことについては楽しいと感じているため、それ以外のやりたい仕事は思いつかない…。転職してせっかく記者からディレクターになったのに、仕事や日常の節々に閉塞感を感じるようになったことで、「好きな仕事でこれなら、もう生きる意味ってあるのか」と虚無状態になってしまったのです。 

何かに熱中するしかない

 このままでは病んでしまうと思い、私は「生きる意味」について調べことを始めました。

 するとすぐに、ドイツの哲学者・カントの「人は自分の存在意義を知ることはできない」という言葉にたどり着きました。
 生きる意味なんてものは無くて、生きる「目的」「意味」「理由」なんてものは全て後づけだというのです。

 いきなり意味が無いと言われてもな….。と戸惑いながらリサーチを続けていたある日、是枝裕和監督の本「映画を撮りながら考えたこと」を読んでいると納得感のあるエピソードに出会いました。

 それは、是枝監督が精神科医の野田正彰さんと話したときのエピソードで、野田さんは「生きる意味は考えてはいけない」と話していたというものでした。
 日本には「武士道」という文化があり、「腹切り」のように「栄誉ある死」が求められた歴史があります。昔の日本では「死」に意味を見出していたのです。
 「生きる意味」を考えるということは「死の意味」について考えることと表裏一体であり、すると人は武士道精神に引きづられて「立派な死」を意識してしまう。そうなると人は、「立派にならなければ」と生きるのが辛くなってしまうと。もっと「気持ちよくいきたいという実感がない」といけないという話でした。

 「なるほど。生きる意味について考えてはいけないんだ…!」と思った私は、どうしたら生きる意味を考えずに済むかを考えました。
 そして、これまでの人生を振り返ったとき、生きる意味を考えずに済んだのは「何かに熱中していた時」であったことを思い出し、何かに熱中しようと考えるに至りました。

 学生時代に苦手だった「英語」の勉強を始めたり、スケボーを始めたり、「株式投資」に本気で向き合ってみたり、「漫画」を友達と一緒に描いてみたり、友達と「ラジオ」を録ったりもしました。 

 ただ、どれもやっている時は楽しいけれど、それでもまだ「生きている意味」について考えずにはいられませんでした。

生きている意味なんて”考える”意味が無い。自分の人生に熱中しろ。

 
 やはり、人生において大半の時間を注いでいる仕事のモチベも上げないことには効果がありませんでした。

 「仕事+プライベート」のプライベート部分ばかりを充実させても、自分の人生に与える影響は部分的なわけです。「情熱大陸」でボクシングのオリンピック金メダリスト・村田諒太選手が「ボクシングの悩みはボクシングでしか解決できない」と語っていたのを思い出しました。
 「仕事は仕事!」と割り切り、休日に思い切り発散して人生を充実させている人も多いと思いますが、私はそのタイプではなかった。
 「仕事+プライベート」つまり自分の人生全体に熱中する必要があったのです。

 ここで、前出の哲学者・カントの「人間が生きている意味なんてない」という教えについて改めて考えると、カントも同じようなアドバイスをしてくれていることに気づきました。
 文字面通りに「生きている意味が無い」ということではないのだと。

 だって、アインシュタインやエジソンのような世紀の発明家やイチローや大谷翔平のようなトップアスリート、スティーブ・ジョブズやジェフ・ベゾスのような一流起業家が「生きている意味が無い」なんて思えないですよね。
 人間の文明を発展させ、莫大な経済効果を生み出し、多くの人から羨望のまなざしを向けられている時点で、生きた意味があるように思います。

 だから私が思うに、カントが言いたかったのは「生きている意味なんて‟考える”意味が無い」ということなのではないかと。 

 地球ができてからの46億年の歴史を思えば、彼らの活躍すらも100年後にどのくらいの人が覚えているか分からないし、世界に及ぼした影響もちっぽけなものとも言えます。
 ただ、こんな風に達観してしまうと人は何事にも無気力になってしまうので、カントは「生きている意味」について考えないよう警鐘を鳴らしたのだと思うわけです。
 「そんなこと考えずに生きることに集中しろよ」と。

 先に挙げた大谷翔平のような「生きている意味」があるとされる人たちは、各々の分野についてわき目もふらずに打ち込み、極めることができた天才です。
 でも、私のような凡人は一時的には熱中できても、途中で「これを極めても、本当にこれで飯を食えるようになるのかな…なんでやってんだろう」と立ち止まってしまいます。ゲームやスポーツ、音楽ならそこで辞めてもいいわけですが、人生はそういうわけにはいきません。立ち止まれはしても、辞めるようなことはあってはならない。
 
 だから、生きている意味なんて考えてはいけなくて、人生に熱中し続けなくてはいけないのだと思います。自分の「やってみたい!行ってみたい!」という感情に正直に生きる。「3年後、自分がこうなってたらおもろくね?」と思える道へ進む。常にワクワクするということが大切なんだろうと思います。

 自分の心に従った挑戦であれば、失敗したとしてもいつか楽しい思い出になるし、「俺の人生の意味は…」なんて考える暇もないはずですから。

おわりに・・・

 結論としては、人生に熱中するということは、やはり仕事にも熱中しないといけなくなりました。

 そこで最近の仕事について考えると、「やりたいこと」よりも「できること」を優先させていたなあと書きながら思いました。

 今後は、自分がどんなものを本気で作りたかったか、条件面などを気にせずに、自分の心に正直に向き合って企画を考え、行動し、それで上司に怒られたり却下されたりしたら、そのときにまた次なる手を考える…。そんなんでいんじゃないかと。

 最悪、それで仕事をクビになったり、辞めたりすることがあっても人生という単位で見たら、楽しかったと胸を張れる。
 
 勝手に自分の中でセーブしていた臨界値を突き破って、破天荒に生きていこう。そう思えました。
 
 


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