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私が妊活から学んだこと

今回は暗い内容なので、興味のある人だけこっそり読んでほしい。

私は30代の頃、仕事をしながら妊活に振り回される日々を送っていた。
正確に言うと、私は不妊症でなく不育症。妊娠はできるが3か月以上継続できずに流産を繰り返した。
もう何度流産したか覚えていない。涙も尽きたのか、途中から出なくなった。
妊娠しても喜ぶことができず、心拍確認後も毎日流産するのではとおびえていた。
エコーで胎児の心拍停止を確認した後は事務的に手術日を決め、手術後は何事もなかったように仕事に戻る、そんな日々を過ごしていた。
原因のわからない不育症は治療法が確立されておらず、リンパ球移植やヘパリンの自己注射、ステロイドを飲んでみたり、ありとあらゆることを試した。
不育症でも8割の人は出産できるという情報を頼りに、藁にもすがる思いだった。

そんな中、一度だけ12週を越えて妊娠が続いたことがあった。
いよいよ喜んでいいのかな、と思った矢先にまたも胎児の心臓が止まってしまった。
いつものように事務的に入院し、前処置で800ml出血したものの手術は無事終了した。
これまでの手術と異なったのは、術後に赤ちゃんに会えたこと。
手のひらにおさまる、小さな愛おしい赤ちゃんだった。

看護師さんが作ってくれたカード 足あと付き

いつものようにこれで終わり、さあ仕事に戻らなきゃと考えていたら、看護師さんから申し訳なさそうに赤ちゃんを火葬する必要があると告げられた。
妊娠12週を超えた胎児は、火葬する決まりだという。
その言葉を聞いた瞬間、なぜか私の目から涙があふれだし止まらなくなった。
すみません、泣いちゃって、恥ずかしいとか言いながら、なぜこのタイミングで涙が出るのか私はその時わからなかった。
看護師さんは、泣きじゃくる私のそばに黙ってずっといてくれた。

退院後赤ちゃん専門の火葬業者に依頼し、赤ちゃんは遺灰になって私の元に戻ってきた。
遺灰の中に切った爪ほどのあばら骨が残っていた。
遺伝子診断結果は男の子だった。彼は私のためにこの世に「とん」と一瞬舞い降り、足跡を残してくれた。

流産を繰り返すうちに、私はどうやら胎児が「胎児の蓄えた栄養」から「母の胎盤からの栄養」に切り替わる時期に流産してしまう傾向があると感じた。
私は赤ちゃんのために胎盤という温かいベッドを準備できない体質なのでは。
もしそうだとしたら、今の医学では妊娠出産は望めないんだろうな。
そう思い、これ以上身も心もボロボロになりたくないと40歳を迎えた年に妊活をあきらめた。そして離婚した。
子孫を残せなかった私は、ホモサピエンスのメスとして失格なのだろう。
でも、母として子を育てられなかった代わりに、ヒトとして他人の役に立つ仕事に命をささげようと決めた。

大海原にひとり@葛西臨海公園

あの時なぜ涙が止まらなかったのか。
10年以上たった今、何となくわかる。
当時は仕事をしながら、たび重なる流産の傷を周囲から隠そうと心が凍り付いていた。
妊娠しても周囲に告げることができず、赤ちゃんに会えず、手術台から降りた後は妊娠していたことが無かったかのように妊娠前の生活に強制的に戻ろうとしていた。
生きてこの世に生まれてこれなかったけれど、この子は私の赤ちゃん。
ちゃんと弔い、泣いていいんだ。
手のひらに感じる我が子の重みと、寄り添ってくれた看護師さんの優しさに、凍りついた私の心が溶けていった瞬間だった。

私が妊活から学んだこと。
それはとてもあたりまえのことで、ヒトがこの世に生まれてくることが奇跡の結果であるということ。
奇跡の結晶である命は尊く、一人として粗末に扱ったり傷つけてはいけない。
そして、望んでもかなわないことがあるということ。
このつらい経験を通して、私は強く、やさしくなれたように思う。
命を扱う医師として貴重な経験ができたと、今では考えている。

今、妊活で悩んでいる人が増えていると聞く。
妊活を終えた立場から、皆さんにエールを送りたい。
まずは妊活中の一人でも多くの人たちのもとに赤ちゃんがやってくることを、心から祈りたい。
そして万が一赤ちゃんに会えなかったとしても、別の生き方が必ずある。自分らしく前を向いて、人生を堂々と歩んでほしい。
子供がいる人は、奇跡の結晶である我が子をどうか大切に愛し育ててほしい。

幸せを運ぶコウノトリ、シュバシコウ@市川市動植物園

ずっと一人、心の中にとどめていた我が子のこと。
私は、この子のことを誰かにそっと話したかっただけなのかもしれない。

ここまで読んでくれてありがとう。