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『ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ~』interview(part2)劇パートを演出した鴻上尚史さんに話をきいた

(part1よりつづく)


「……言ってみれば、ぼくが川口に部落差別や狭山事件のことを伝えたことで、彼が中核と関わるような縁を作ったっていうことはずっとぼくも感じててね、やっばりその責任っていうかな、ぼくがもし彼にそういう風に呼びかけなかったら、彼はああいうことにならなかったんじゃないかなっていう思いはずっとあるんですよ」

苦渋の表情で語るのは、1971年、早稲田大学第一文学部に入学、川口大三郎さんのクラスメイトだった藤野豊さんだ。のちに日本近代史の研究者となる。
5/25~渋谷・ユーロスペースほかで公開となるドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ』の一コマで、藤野さんの話に出てくる「ああいうこと」は1972年に起きた「川口大三郎事件」をさす。

©️「ゲパルトの杜」製作委員会


証言は、70年代初頭にひとりの学生が学生運動に参加するきっかけとその様子を伝えるもので、映画を観終わったあともとくに印象に残るものだった。
藤野さんの話に、部落問題じたいを知らなかった川口さんは驚き「そんな差別があるのは許せん」と怒った。これをきっかけにクラスから狭山の裁判闘争に参加するメンバーも増えていったという。
当時中核派は組織をあげて狭山闘争に取り組んでいた。川口さんが狭山の集会に参加する姿が目撃されていたことから、革マル派には「中核派の人間」に見えたのだろう。
革マル派の学生によって自治会室に監禁された川口さんは数時間にわたり暴行を受けたすえに死亡。遺体は深夜、本郷の東大附属病院前に遺棄された。
この事件を機に学内で革マル派への抗議の声があがるものの、新左翼セクト間の激しい「内ゲバ」時代へと突き進む分岐点となった。
半世紀後のいまようやくカメラの前で「いったい何があったのか?」当事者たちが語りはじめた。
監督は『三里塚のイカロス』『きみが死んだあとで』など60年代末からの学生運動体験者たちのインタビューを記撮し続けている代島治彦。原案は当時渦中にいた樋田毅著『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文春文庫・第53回大宅ノンフィクション賞)。

本作は代島監督の、当事者の証言を紡ぐ口承ドキュメンタリースタイルは同じながら、前三作とは一点異なるところがある。劇パートが組み込まれていることだ。
「事件の一日」の短編劇を脚本・演出した鴻上尚史さんに、この映画にかかわることになった経緯、演出意図をきいた。


鴻上尚史さん
撮影©️朝山実


話すひと=鴻上尚史さん
構成・文🌖朝山実

インタビューしたのは4月のこと。鴻上尚史さんには週刊文春の「家の履歴書」の取材であったのが最初で、『不死身の特攻兵』『愛媛県新居浜市上原一丁目三番地』などの著作に関して幾度かインタビューさせてもらってきた。
この日は映画の宣伝のために設定されたマスコミ取材日で、一日メディアの人が入れ替わり立ち代わり取材する。通常カメラマンや編集者が立ち会うことが多いのだけど、ひとりきりのわたしに、
「きょうは、どこの媒体?」
開口一番にきかれ、
noteというワタシの媒体です。とこたえるや、
「アハハハ。おれもねえ、やろうかと思ったんだけどねえ」
快活に笑われてホッとする。
やろうと思いながらやらずにいる理由を聞いたりするうち、マスコミでなくてゴメンなさいというヒケメがとれた。ありがたい。

“何で、ふつうの若者たちがこんなことに陥ってしまったのか。そこを描きたいと思ったんですね”


🌖まず今回、鴻上さんが劇パートの演出をされることになったのは?
 
「それはもうシンプルな答えとしては、代島監督から頼まれたから。前に代島監督の『三里塚のイカロス』などを観て、面白いなあ、僕と同じ問題意識(学生運動に参加した人たちが何を考え、その後をどう生きているのか)を持っているひとがいるんだと思っていた。
その監督から『川口くんのあの日をドラマにしてもらえませんか?』と言われ、代島さんが言うのならやろうかなと思った。これがたとえば商業映画の依頼だったら、何かハデにやらないといけないんじゃないかと躊躇するんですけど。この事件の証言であの場には、竹竿が二人、角材が二人、バットが一人いたというのがあって。それに忠実に従っているんですけど、もしもこれが商業映画であれば、ここは鉄パイプもあったほうがいいだろうと言われかねない。でも代島監督は、あの日何があったのかをそのまま描いてほしいという。それは僕も知りたいことで。何で、ふつうの若者たちがこんなことに陥ってしまったのか。そこを描きたいと思ったんですね」

 
🌖わたしの正直なこの映画の感想を言うと、流血の場面が凄惨で見るに堪えなかったのと、リンチの結果、川口さんが息をしていないと気づいたとたんに暴力を行使していた集団が動てんし、必死で救命措置を行う。相矛盾するつながりにひっかかったんですね。
 
「以前、試写の席でもそうおっしゃっていましたよね。これは血が多すぎるんじゃないかと」
 
🌖そうですね。冒頭にドラマパートがあり、凄惨な血の残像がドキュメンタリーの証言のところまで尾を引き、あそこまでの流血は要らないのではと。
 
「なるほど」
 
🌖逆に興味をもったのが、劇をつくりあげていくうえで、若者たちに当時のことをレクチャーしたり鴻上さんが演出していく過程でした。メイキングがすごく面白いと思ったので、そちらをもっと増やしてほしかった。
 
「ああ。なるほど」
 
🌖内ゲバのことなど知らない今の若者たちが50年前のことを演じようとする、その様子が若い世代を劇場に向かわせる架け橋になるかもしれない。でないと、せっかく貴重な証言を集めた映画が、当事者世代が鑑賞しああだこうだ旧懐する同窓会で終わるんじゃないのかという危惧もあって。とりわけメイキング部分で面白いなあと思ったのは、「当時のセクトの人たちは、対立する人たちの足を鉄パイプで砕く。そうした行為が革命につながる、そう本気で思っていたんですか?」というようなシンプルな疑問が今の若者から出ていたこと。当事者の世代では、絶対に出ない質問だろうなあと。
 
「ありましたねえ」

“僕が考えているあの時代の内ゲバのリアルというのは…”



🌖もうひとつ。オーデションのときに女性闘士役のひとが、川口さんの友人から抗議を受け、後ずさる。それを見て鴻上さんがダメ出しをされる。
男に強気で迫られたら気圧されるのはわかる。だけど、下がっちゃいけない。なぜなら、と説明する。押していった男性にも「そんなに押したらボコられるぞ」。彼女の背後には革マルがいるんだからと。リアルな説明だなあと。そうしたやりとりをもっと見たかったです。

「うーん…。ぶっちゃけたところ、代島さんから15分くらいの作品をつくってくれと言われたのが、僕の仕事だったんですね。すごく正直に言うと。
つまり監督として、映像作家として、メイキングは見せたくない。ものすごく恥ずかしいんですよ、手のうちをさらすことですから。鴻上はこういうふうに演出しているんだと見られるでしょう。
たとえばリンチの場面で僕が学生たちに言ったのは、暴力を苦しんでやっていたやつもいれば、喜んでやっていたやつもいただろう。組織の中での出世を考えていたやつもいただろう。みんな同じでなくていい。それぞれ、考えてほしい。と、彼ら(キャスト)に言っていたというのは、これは商売上のヒミツなわけで、あまりオープンにはしたくないんですよ」

 
🌖それは鴻上さんの演劇論として?
 
「そうです。演出家としてね。劇場で見せるものがすべてであって、ウラでどんなことがあったのかというのは、いい意味でも悪い意味でも見せたくない。予算がないからこれぐらいしかできなかったとかというようなことを含めて、伝えたくない。だけども(メイキングの部分があるのは)今回は15分のパートをつくってくれと言われた立場で、(監督の領分にまで)踏み込んでしまうと船頭が多くして、になるので僕は何も言わないことにしたんです」
 
🌖監督が二人になることを危惧されたというのはわかります。
 
「まあ、一回目の試写のあと、代島監督に『こんなにメイキングを使います(必要ですか)?』とは言ったんですけどね(笑)。ただ、そのあと、どうするのかということは任せたので、じつは僕も冒頭にドラマがあったのを見て、驚いたんです。てっきり、いろんなひとの証言があって、途中か、最後かに入るものだと思っていたんですけど。
僕は自分が考えているあの時代の内ゲバのリアルというの…。この事件があったのは72年。この2、3年あとになるとさらに様相は激変し、職業的にテロを行う集団ができあがっていくんだけれども、この時代はまだそこまでいってはなかった。クラス委員タイプのクソまじめなのが、自分が考える正義を実現しようとし、殴りながらもまさか死ぬなんて考えもしなかった。
自分たちの組織にすべてを捧げようとすることだけ考えていたマジメなやつらが、こんなことをしたんだということを描きたいと思ったんですね」

©️「ゲバルトの杜」製作委員会
キャストの四人
(part1のインタビューに登場)
撮影©️朝山実

🌖劇パートで印象に残るのは、息をしていないとわかったとたんに、居合わせた全員がたじろぎますよね。それまで流血を目にしながら、誰ひとり止めようとはしなかった。そこには集団の「殺意」に近いものがあったのではないのかと思わせる。でも、彼らは動てんする。 

「あの人工呼吸を試みるのも、じつはあの渦中にいたひとの証言にあるんですよ」 

🌖そうなんですか? 

樋田さんから、これは本には書けなかったことだけど、シナリオを書く参考になるのならというので教えていただいたんですが。『川口、おい川口!』と延々と人工呼吸をするのと、竹竿2本、角材2本、リーダーがバットを持っていたという設定は事件をもとにしています。とりわけバットを見た瞬間、きょうはバットまでやるのかと思ったという証言があるんですよ」

 🌖それは? 

「つまり、竹竿と角材まではいつものことだったのが、バットを見て、これは気合が入っているぞと思ったという。で、僕は、このとき誰も俯瞰的な視点をもっていなかったんだなと思ったんです。誰も、これほどのことをやりながら死ぬなんて思っていないというか、その場のみんなが判断を上に預けていた。それは彼らが自我をもたない集団だったということで。ひとりひとりが自我をもっていたら、途中でこれは死ぬぞと考えたんだろうけど。自我がない集団であったがために、気づかなかった。そう思います」 

🌖バットを手にしていた人の上に、さらにもうひとりジャケットを着たリーダーがいて、途中で現場を離れたりしていましたが。その上の人を含めて、自我をもたない集団だったということですか? 

「ジャケットのリーダーにしても、いわば中間管理職的な存在で、その上から指示を受けていたという感じはするんですよね」

 🌖すこし話は逸れますが、こないだ『情況』という雑誌を編集されている若いひとがやられているサイトで現在の中核派の全学連の人たちをインタビューした動画を見て、唖然としたんですね。暴力革命の必然性を問われて、自分たちが労働者を指導するんだと答えている。だけど、あまりに観念的というのか。この人たちは実社会でアルバイトとかしたことあるのかな。なんだか革命を口にするテロリストが出てくる二時間ドラマの一コマを見ているようで、鴻上さんの劇パートが逆にすごくリアルに思えてきたというか。 

「僕も中核の人たちが語る映像を見たことがありますが。いま、世界革命を起こすと言いきる感性に、びっくりしますよね。観念の中に生きていたら、こうなのかなあと」 

🌖まだ昔は言葉に重みがあったようにおもうんですが。当時と何が変わったのか。

 「よりタコツボ化したんじゃないですか。だって彼らは前進社(機関紙を発行する拠点のビル)で寝起きし、集団で集会とかに出かけて行って帰って来る。生活はあそこにしかないわけだから。
たとえば話しかけて拒否された人たちに、どうやったら言葉を届けさせられるかというのがないまま、中核派という強固な『世間』の中で生きている。だから、やめてしまったら定年退職したお父さんのようになってしまうのかもしれない」

 🌖きょう鴻上さんの前に、学生役の四人に話を聞いていたんですけど、ひとりひとりに内面的な指導みたいなことはされたんですか? 

「さっきちょっと言いましたが、メイキングに出ている、なんで殴るのかというのは、それぞれに違いがあっていいから。自分の実感でやってくれとは言いました。組織の中で頭角をあらわしたいやつ。なかには、殴るのが気持ちいいというのもいただろうし。もうツライすぎるから自分の感覚をマヒさせてやっていたのもいるだろう。実感として結びつく理由をそれぞれが選んでほしい、という指導はしました。
というのも、劇団とちがい、長い期間付き合っているわけではないので。劇団だと、おまえはこういう動機がいちばん合っていそうだとか言えるんですけど、オーデションを三回やって残った人たちで、まだひとりひとりのことをそんなには知らない。あとは、なんでこういうことが起きたのかということは代島監督が用意した、池上彰さんの話で勉強してもらいました」

”ポイントはあの時代の顔ですね”


 
🌖演じた彼らが、完成した映画を観ることで役を俯瞰して見なおしていたのが、意外というか興味深かったです。
 
学生の中で、黒川くん。彼はバットをもって殴るんだけど、ちょっと気合が入っていて、いいと思ったんですけど。いっぽう、空手をやっている峰岸くんは実にへっぴり腰で、その感じがこれはこれでokだったんですね。
つまり、そういうことに慣れているやつとそうではないやつとが集まっているというのが見えた。そうそう。旧日本軍でも、手加減して殴ろうものなら弱虫と罵倒されたでしょうし。
さらにこのわずか数年後には黒川くんのようなやつが、短い鉄パイプを隠し持って襲いかかってくる、テロの専門家のような人間になっているのかもしれない。だけど、まだこのときはひとりひとり雑多な者が必死になってやっていた。その雑多さんが、僕は撮りながらリアルだなあと思ったんです」
 
🌖配役は、鴻上さんが決められたんですか。
 
「振り分けはそうです。たとえば香川くん。彼は、いかにもチャラチャラしていそうな一般学生っぽかったので。麻雀パチンコに行くタイプだなあと。
あの時代にはノンポリとガリ勉と学生運動家、三種類いたといわれるんですけど。そのうちの、彼はノンポリ側にいただろう。それは顔つきと醸し出す雰囲気ですね。話を聞いてみると、いまもモラトリアムをつづけているというので、適役でしたね」

 
🌖女性闘士役の琴和さんは?
 
「彼女の役には実在のモデルがいて。その映像を見て僕は『ヘルメットをかぶった君に会いたい』という小説を書いたんですけど。彼女の雰囲気は、美人さんなんだけど闘争に入ると人が変わったみたいにキツくなる。そういうイメージに合っていると思ったんですね。
耳にした映画の感想では、実際に革マルに痛めつけられた人たちは、角材を持った彼らはあんなやさしい目をしていなかったけど、彼女についてはそっくりだという」

 
🌖キャストの人たちを通して印象に残ったものは?
 
まじめな子は、時代が変わっても同じようなしゃべり方をするのかなあという。でも、小説の発端となる女性の笑顔はほんとうにいい笑顔だったんですよね」
 
🌖映画に出てくる革マル派の人たちは、こうだったんだろなあという当時の雰囲気がしました。だけども、さっき実際に会うと四人ともイマの人たちなんですね。
 
「ハハハハ。髪型を含めて、あの当時の人間に見えるかどうかは選びましたから。早稲田だけど、さすがにこの顔は今っぽすぎるとかいうのは悪いけど、落としました。ポイントはあの時代の顔ですね。黒川くんも、眼鏡をかけると雰囲気がかわりましたし。昔の黒ぶちの眼鏡をかけるとね、ハマリ役になったなあと」

©️「ゲバルトの杜」製作委員会


前述しているが、このインタビューのずいぶん前に一度鴻上さんとは『ゲバルトの杜』の完成版よりも前の、長いバージョンの試写の場で会っていた。
原案となる『彼は早稲田で死んだ』の樋田毅さんや劇パートに出演している若者たちも参加し、観賞後ひとりひとり感想を話す中で、劇パートの違和感を話しはじめたところ、
「えっ、ナニナニ。詳しく話して」
わたしの前の席にいた鴻上さんが振り返り、身を乗り出してきた。演出家を前にして否定的な感想をいうことに気はひけたが、リンチシーンの流血が過剰に思えると伝えた。その際も当時の証言、資料をみると描かれた以上に凄惨なことが行われていたと言われた。
その後あらためて完成版をマスコミ試写で観たときにも、わたしの違和感は消えなかった。
なぜ、あれだけの血を目にしながら誰ひとり止めようとしないのか。対立するセクトのスパイであることを自白させようとバットや角材で殴り続けていた人たちが、一転して必死で救命措置をとる行動は矛盾してはいまいか? ちぐはぐな「再現ドラマ」というもやもやした印象が消えなかった。
しかしながら、映画のパンフレットに鴻上さんが寄稿していた「内ゲバと世間」という長文を読んだとき(原稿の骨子は、なぜ内ゲバが起きるのかを「世間」という視点から解きほぐしている)、頷くところが大きく、あらためて鴻上さんに話を聞きたいと思ったのだった。
このインタビューするにあたって、樋田さんのノンフィクション本も再読した。とりわけ印象に残ったのは、巻末に収録されている当時革マル派の学生だった人物と樋口さんが対話している部分だった。

🌖『ゲバルトの杜』に登場する証言者の大半は事件を機に革マル派に抗議の声をあげた人たちで、当時の革マル側の人たちが何を考えていたのかはつかみづらい。映画についてそう思っていたんですが、本の巻末に革マル側にいたひとりを見つけ、樋田さんがインタビューを申し込む。粘り強い交渉の末実現した長い対話の中で感じたのは、やりとりが可能な「ふつう」なひとだということでした。

「それは、辻信一さんですね」

🌖そうですね。その後の凄惨な内ゲバなどを見ていくと、一方的に主張し聞く耳をもたない人たちというふうにさえ思えてしまうんですが。対話は出来る。ならば何でまたあのような内ゲバに、と頭の中がループするんですよね。それで、鴻上さんがパンフに書かれていた「内ゲバと世間」についての考察をあらためて、うかがいたいと思ったんです。

「これまで、何で内ゲバが起こったのかについて、組織論がどうだとか、いろんな人がいろんな理由を言うんだけれども。僕も、内ゲバ論はそれなりに読んできた中で、いちばんしっくりきたのは、日本人は自我ではなく〈集団我〉で成立してきた民族だからという説明だったんですね。それでパンフにも、内ゲバを描いた映画だからそのことを書きました」

“構成員の命を犠牲にしながら生き延びていくということでは内ゲバも、過労死した企業戦士も、特攻隊も同じだと思います”
 


🌖鴻上さんが前に書かれた『「空気」と「世間」』(講談社現代新書)も読み返してみたんですが、セクトという集団で動いていると、セクトじたいが「世間」になっていくことでしょうか?

「そうですね。『世間』というのは、自分が知っている人たちがつくりあげた集団であって。かつての高度経済成長期の人たちにとっての会社と同じように、セクトはほぼ24時間を捧げるという意味での強い世間にあたります。
アサヤマさんが樋田さんの対談を読まれたときに『ふつうの人』だと思ったというのは、それはセクトから離脱したからで、あの渦中で出会っていたとしたらそうは思えなかったでしょう。
当然〈集団我〉を価値判断の基準として動いていただろうから、あのような会話にはならなかったでしょうし。つまり、こちらが何を聞いても、彼らは上層部に諮らないと結論は出せない。集団が決めたことによって動く人たちだから。その〈集団我〉が解けたのでふつうになったということだと思います」

🌖それは何もセクトに限らずに起きることでしょうか?

「もちろん。僕が『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したのか』(講談社現代新書)を書いたときに(幾度も出撃はしたけれど生還したひとを取材した)、特攻隊の人たちも、人間の命を犠牲にして組織の延命を図ろうとすることに象徴される、じつに日本的特徴だと思ったんですね。企業が過労死を出しながら発展していくというのもそうだし」
 
🌖過労死はそうですね。
 
「これは『不死身の特攻兵』の編集者が帯に書いてくれたんですが、個人の命を犠牲にしながら生き延びていてく日本的組織という言葉を見て、そうかと思った。構成員の命を犠牲にしながら生き延びていくということでは内ゲバも、過労死した企業戦士も、特攻隊も同じだと思います」
 
🌖これは日本独特のことだと?
 
「だと思います。政治党派が対立して暴力に発展するというのは世界中にあることではあっても、学生運動の中でここまで組織的に殺人を目的にテロを行ったというのは日本だけですよね。
特攻隊の場合も、軍が組織的命令として死ぬことを求めたのは、近代軍隊では日本だけです。
こう言うと、第二次大戦末期のドイツにもエルベ特攻隊があったと言われたりするんですが。ただしヒットラーはそういう命令を自分は発しないと言い、下の人間が独自に行ったとされていて。しかも使われた飛行機には脱出装置が付いていたんですよね。椅子が飛ぶ。こんな命令の責任はとりたくないというので、日本軍とは異なり一回キリで終わったものなんですよね」

“『世間』というのは排他性、仲間はずれをつくるというのが特徴なんですね”


 
🌖現在イスラエルが行っているジェノサイドと、内ゲバに共通するものを感じるんですが。それは相手を「敵」と決めつけると容赦なく殺戮を行う。
 
「そうですね、相手を人間扱いしないということでは。内ゲバの初期はイデオロギー闘争で、互いに相手を説き伏せようとしていた。これが、あるときから相手を抹殺することがテーマとなり、その瞬間から人間と見なさなくなる、というのは同じだと思いますね」
 
🌖それは「敵」だとする意識がそうさせる?
 
「最近、イスラエルの教育の実態が暴かれたりしていますが。パレスチナのあの土地は本来自分たちのもので、そこに奴らが住んでいることがおかしいんだという。国家が子どもたちに自分たちの正義を刷り込み、刷り込まれてきた。党派も同じで、自分たちの正義を刷り込んできたし、刷り込まれてきた」
 
🌖なるほど。連合赤軍事件のときの「総括」という名の暴力。当初は遅れた意識の「同志」をスパルタ式に鉄拳指導するものだったのが、予期せぬ死者が出てしまった。それが一人、二人と死んでいく中で、死んでしまったのは仲間ではなく我々の中に潜り込んでいた「反革命」だったと言いはじめた。指導者が誤りを問われることを回避するために。
内ゲバも、川口さんの事件以前にも暴力的な衝突が繰り返されていたにせよ「殺す」ことまでは目的としていなかったものが、以降は様相を変えていきますよね。党派の論理でいうと内ゲバではなく、これは「戦争」なんだと。
 
「そうですね。さっき僕が日本だけだといった『世間』。これは排他性、仲間はずれをつくるというのが特徴なんですね。
では、なんで仲間はずれをつくるのかというと、敵をつくることで自分たちの世間は強化されていく。会社もグループも同じで、仲間の結束を固めようとしたら、まず敵を想定する。『ライバル会社に負けるな』『隣の部署に負けるな』そう言いあう中で、内部の細かないがみ合いはなくなり、一つに結束する。
連合赤軍の場合には、会社でいう隣の部署が見つからなくて山に追い込まれた。そのはてに自分たちの集団の中に敵を見つけることで集団をまとめあげようとした。対して、内ゲバは、もともとは同じ組織から別れた相手を敵として結束していったということだと思う。だから内ゲバについて僕は、結束に向けた排他性が問題の根っこにあると感じています」

©️「ゲパルトの杜」製作委員会

 🌖日本の社会が内向きだということとも関係することでしょうか? 

「最近の脳科学の研究だと、農耕民族の中でも米作地方と麦作地方の国とを比較した場合、集団としてまとまることによってホルモン分泌が高まるのは、米作なんだという。つまり、まとまることの快感を常に出しておかないと、手間暇かかる米作はできないということなんでしょうけど」

 🌖うちの実家が農家だったので、田植えや稲刈りのときに村の人たちが総出で、順繰りに各家の手伝いをする。そのときのテンションはそうでしたね。

 「あとテストステロン、男性ホルモンの分泌量も、肉食がいちばん強いんだそうです。このテストステロンが強すぎると集団の輪を乱すので、狩猟には向いているんだけど、農耕には向いていない。長い時間をかけ、農耕民族の中からテストステロンの多いやつが弾き飛ばされていったんだというのは、脳科学の世界で言われていることですよ」 

🌖そろそろ時間もなくなったので最後に、鴻上さんご自身はこの映画をどう観たのか? 

「僕は、これはまだスタートラインで、この映画がまずヒットして、次はいよいよ殺した側の人たちが出てきてくれないかと。もう4年か5年したら、人生の最後に、じつはあのとき自分は血まみれのバールを手にしていた。なんであんなことをしたのか、と語ってくれないかと考えています。
それでまた代島さんからドラマパートを撮ってよと言われたら、たとえば綿密に準備してアパートを襲撃してバールで殴り殺す。ものすごいことをやっているのを撮りたいですね。
『不死身の特攻兵』では、9回特攻に出て9回還ってきた佐々木友次さんというひとをインタビューしたんですけど、これはそのひとが亡くなる三か月前から毎週5回連続で聞いて、二か月くらいして亡くなられたんですよね。佐々木さんには、それまで地元紙の記者のひとがインタビューを申し込んでは断られてきたという。
これは(佐々木さんの)親戚のひとに聞いたんですけど、おじさんは話したがっていたんですよという。ひとは死期をさとると話したくなるものだというか。だから、そういう時期になれば、と思っています。いまは過去にこんなことがあったという疑問符を次の世代に渡すのが、この映画の役目だと思っています」

代島治彦監督(左)と鴻上尚史さん

『ゲパルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ』は、5/25より渋谷・ユーロスペースほかで上映開始


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