Hidehal

日常思いついた事や読んだ本,自然について書きます。

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最近の記事

ものを書くということ

世の中についていけなくなったら、世の中を分かる人間の本を読めばいいのだ。 世の中が分からなくなるのは、色んな原因があるが、とりあえずは世の中がきちんと見れている者にすがった方が、便利である。 原因? たぶん、ある言説に固執して、そのまま時間経過してしまったとか、言説をお経にしてしまい、代わりになるものが、見つからないとかだろう。 「それ」しか今すがるものがないのだから、偏った見方で世の中を見ることになる。 従って、いずれ自分が生きにくくなるのは、目に見えてわかる。

    • 世界に裏切られたら、世界をまた発見するのだ

      若い頃の認識の甘さを痛感する。 知らなかったことが多すぎるし、新たに出来た事柄も、覚えるまで一苦労だし、追いついていかない。 それに、乗るのが若い子の仕事なら、なるべく変化のない部分を見ながら、世界を攻略しないと、疲れる。 世界…世の中の表層の部分は変化が激しく、付いていくにも持久力が要る。 コストもかかるし「世界」に対して付き合いをしなくてはならない。 だけど、いままで自分は何を見てきたのだろう? 読書など個人の偏見である、と村上春樹は言ったが、人間ひとりが見る世

      • 得意なことを仕事にはホントか?

        よく、好きなこと仕事にできるのは、限られた人間だという。 分かりやすいのは、好きなこと仕事にしている人間の声を聞くのが良く、彼らは大抵、誰もが好きなことを目指すべき…みたいなニュアンスを言ってくる。 誰が世の中好き好んで、勤め人になるのか? それに、縁もある。 縁は、人間だけでなく物事、興味、趣味、仕事、物体、生き物にもある…と、私は思う。 そうでなければ、世の中の全てがキツキツの、完璧に上手く回っているはずである、今頃は。 そう上手くいかないのは、自分の嗜好にも

        • 本当のところ、真実、上辺の世界

          自分の見たり聞いたりというのが、とりあえずの世界になる。 それが、どうであろうと、そうなんだ、となり自分の認識や価値観、世界観ができてゆく。 村上春樹などは、整っていないのは世界の方で、整わせないのは自分の周り…云々(意訳)な、ニュアンスを小説で描いていた。 とりあえず世界を認識しとく。 多少、歪んでいても、あとで修正が効くように、頑固にならないようにしておく。 それに、世の中の価値もまた流動的で、変化していく。 新たな発見のようでいながら、自分がただ知らなかった

        ものを書くということ

          頭のいい人の声

          ネガティブな話しかしないが、本当だから仕方がない。 だけど、考えてみれば「考える」ことも、得意不得意があるはずだ。 作家…ジャーナリストでもよい、現実をきちんと見て、そこから理論を組み立てて、話にするのだから、それなりの得意技が必要だ。 もちろん、慣れや経験の多さも必要だろう。 だけど、何らかの魅力がないと相手は付いてこない。 世の中の言説や常識をバランス良く吟味する。 または、バランス良く疑ってみたり、時に反抗してみる。 ある程度の材料なければ、取材もアウトプッ

          頭のいい人の声

          会話により傷つき、会話により解決に向かう

          会話…コミュニケーションなどは、使いようによっては、良くも悪くも働くものだ。 マイナスな会話がなぜ良くないか?といえば、建設的ではないからだ。 建設的といえば、互いに問題あれば、どのように改善したり、解決に向かったり、知恵を出し合っていけば、物事の理解が深まる。 建設的でない場合、意思疎通が通らず、どちらかの意見が強く、ときに権力的な言葉が使われれば、将来的に見るとマイナスが大きい。 権力というか、誰かの意見しか通らない世界に、誰が近寄るものだろうか? どちらにせよ

          会話により傷つき、会話により解決に向かう

          自分の世界が全てではないが

          よく、そんなんじゃ世の中には通用しないという言葉を聞く。 世の中の仕組みをあたかも、分かっているようなしゃべり方だが「仕事」が中心な世の中にあっては、間違いでは無い。 ただ、とりあえずそうなっているだけで、本質的にはどうか?といえば、より考える余地はある。 まず、流通やら仕組みやらと言った、現実的な世の中の回り方、仕事のやり方については、フォームはある。 あるのだけど、それに合わせているのが個人だから、世の中は先にあるとか、個人を待ってくれない、という言い方は通用する

          自分の世界が全てではないが

          人間がいまそうなるのは結果

          治安が悪いとか、民度が問題だとか、働き方がどうだとか、問題になる。 しかし、よく考えてみれば分かるが、結構、海外からの考えや、やり方が入って来ているから、何も新しいことはなく、それに対応できないだけではないか? いや、新しいことというか、それが数年前にやって来たとしても、そこから数えるわけだから、それも結果である。 微細な変化でさえ大元が牛耳るのが因果にある。 頂き女子に、大騒ぎしているなら、もっと為政者が何をしているか?に目を向けないといけない。 考えるプロがいる

          人間がいまそうなるのは結果

          雑記や帰り道

          ギボウシの花が咲いていた。 可憐な見た目に果実はネットりと、綺麗で使えて、何でもありだ。 相変わらず、気候変動の問題はあちこち言われており、レジ袋削減から、自動車など、問題は果たして解決に向かうのか? いや、SDGsですら胡散臭いという先生方もいるが、専門家が企業につくと、炭酸ガスキャンペーンなど、環境にやさしいこととビジネスに繋げる橋渡しになるらしい。 環境にやさしい人間が、ナマの自然を全く知らなくて、ミミズなど触れないと来たら、笑いものになる。 池田さんなどは、

          雑記や帰り道

          自然主義または厭世主義

          どうも、世の中ではちょっと綺麗にした言葉で、事件や問題を語ることがある。 とくに事件などでは、加害者の凄さが語られるが、一般論ゆえ、それ以上深く言われることはない。 もし、深く知りたいなら週刊誌やドキュメントなどを見ていればいい。 だけど、それがあまりにもいきすぎると、どこかで操作的になることもある。 問題の本質を見せないため、当たり障りないように、振る舞うのが都合の悪い事実を隠す良い方法である。 擁護的な意見が強いと、何でも心のケアに走りやすい。 ホントは叱らなけ

          自然主義または厭世主義

          理想は言いたくないが現実も痛い

          最近、オブラートに包まれた理想を見る機会がある。 それは、言うのが無理あるだろう、というシーンだ。 明らかにおかしいことが、美談や美しく塗り直されていくのを見ると、お上だけが管理支配の装置ではなく、市井もまた同じことをしているのだろう、と思うことがある。 現実…というか、真実というのは知ると痛い。 従って、騙されていたり、目を覆っていた方が楽だし、考えなくてもいい。 それに、自身のエネルギー削減にもなれば、コスパがいい。 だけど、私のように執拗に、現実を見るのがいる

          理想は言いたくないが現実も痛い

          サイコパスの濃度とサイコパス製造

          サイコパスは遺伝か? 遺伝である、性格や精神病は遺伝だ、という話もある。 座敷牢や神隠し、知恵遅れなど、昏い歴史もあったようだが、昔の方がその点わかっていて、四半世紀のオブラートに包む表現はしない。 むしろ、その部分は察しなさい!という雰囲気は強かった。 柳田国男など、神隠しに遭いやすい体質だと言っていたが、昔で言うなら、天然ボケや不思議ちゃんのようなものか? あまりにノホホンとしすぎるのはよくない。 不思議ちゃんや精薄として、意図的な神隠しという待遇にあう可能性

          サイコパスの濃度とサイコパス製造

          婚活、推し活、パパ活

          「パパ活」は変換で出てくる、あまり品が良くないものだ。 援助交際や売春など、生々しい言葉もあったが、いまだにその手の商売が成り立つのは、人間の持つSaGaの強さがあるからだ。 要は、近寄らなければいい話だ。 だけど、需要はあるし、海外(海外売春)に行けば買ってくれるし、相手の要求は満たせるから、ウィンウィンになる。 デカダンスや退廃主義ではないが、快楽を求めて何が悪い?と、ならないのは、もう言葉に出す前に、当たり前だろう、という前提があるからだ。 なにも、一部の退廃

          婚活、推し活、パパ活

          経験と創作

          なにか創作したいなら、なにか習わなければならない。 「なにか」などと言っても、その道、そのジャンルのものに従って、モノにするのだ。 オリジナルで、何かを生み出そうにも、種となるなにかがなければ、話にならない。 いちからなにかを生み出すのは大変だから、誰かに習って…時間をかけながら、自分のものにしてゆく。 世の中には、綺麗な作品を出すから、自分はできないのだ!と思ってしまう。 そこに欠けているのは、時間、経過であり、いきなり出来るはずがないという、約束が抜けている。

          経験と創作

          本は不要か?

          ネットもあるし、SNSもあるのなら、本は不要か? 現代文や古文漢文じゃあるまいし、高校くらいで文章は卒業だ、と冗談のひとつでも言いたくなる。 しかし、ネットやツイッタがあるから、文章は上手くなるだろうと言う人間がいるが、実は彼らは高学歴である。 高学歴というか、ハイレベル大卒からの視点で、全てを語るのはおかしいのは、自分の感覚が世の中の全てでは無いからだ。 私だって本は読まないとマズイと思った過去はある。 大学という文化を知らず、教養として本は読まないと無知蒙昧にな

          本は不要か?

          格差的な〇〇

          気になることがある。 格差が広がったというが、なにも資産だけではなく、教育、知性まであると言うのだから、うつになる。 詳しく言えば、知能格差というのもある。 知性、体力含めれば、生命力という逞しさが指標になっているのだろうけど、知性があっても、世の中への戦略が上手くなければ躓くし、戦略だけあっても、体力がもたなければ、息切れする。 知能格差というが、何のための学校か? 学校じたい建前としての装置である、というのは暗黙の了解ではないか? 塾に行けば、(とりあえずの)

          格差的な〇〇