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足りないものだらけの日々も悪くない 足りないままに風に吹かれて(なんでもない日に短歌でタイトルをつける日記1/8~1/14)

好きな歌集から短歌を、毎日の日記のタイトルに頂いて、一週間分の日記を書いています。たまに自分で短歌を詠むこともあります。

1月8日

ひとを一から好きになること自販機になった田舎の商店のこと

『たんぽるぽる』雪舟えま

この先増えるであろう思い出と、幼少期からの思い出に対する感情の量が見事に交差する一首。「ひとを一から好きになること」と対をなすのが、「自販機になった田舎の商店」というところがかえって作者本人の極めて個人的な思い出に寄り添っているように感じられる。

今朝は、元AV女優・戸田真琴さんの『そっちにいかないで』を読了した。私小説のマイブームが起こっているので、積読の中から手に取ってみた。ちょうど1年前の今ごろまで聴いていた、著者と少女写真家の飯田エリカさんのPodcastが懐かしい。 100回以上ある1回30〜50分のエピソードを週1で聴いていたが、映像や音声ではわからないことも多い。その点、メディアに出ている人の真意に触れる手段として、その人が書いた文章を読むこと以上はない。1冊読んでやっとはじめてわずかに踏み込める、と思う。相手を知るためには、どんなに小さく見積もってもそれくらいの時間はかかるだろう。

読了後に、本棚を整理してアプリに登録してない積読本を登録。1冊読み終わったし、本棚も整理したしで、ご褒美に『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ナンシー・フレイザー著)を購入。

さらに、月末のOVER THE SUNのライブビューイングもポチってしまった。さすがにもうチケット完売しているだろうと思っていたら、まだわずかに残っていた。4500円。月末が楽しみだが、しばらく節約せねば。お金使うたびに節約を口にしているが、まともに節約できたためしがない。何かしらの感情や記憶と引き換えに、節約しようという決意が高まるようなことはないだろうか。悩ましい話だ。

9日

何もしないひとが帰宅部となるように生きてきたのでわたしになった

『老人ホームで死ぬほどモテたい』上坂あゆ美

昨日、節約について触れたばかりなのに、また本を買ってしまった。
1月6日発売の『ロゴスと巻貝』(小津夜景・著)。言い訳をすると、昨日はこれを買いに出たはずだったのだが、まだ入荷してなかったのだ。節約しないひとが金欠になるように生きてきたので私になったのだ。
うぅ、なぜか泣けてきた。

小津夜景さんは『いつかたこぶねになる日』を読んで、文章の美しさに惚れ込んだが、他の著作は購入を後回しにしていたので、今作の発売を知って、これはすぐに読みたいと思った。詩や歌詞、書籍の引用などを盛り込んで書くエッセイは、知識や知性と詩才が分かちがたく結びついて、ひとつの文章を成している。エッセイはユーモアが溢れるものも、心に迫るものも好きだが、小津夜景さんの書くそれはいわばエッセイの極北にある。まだ数ページしか読んでないのに、何語ってんだって話しなんですけどね。読了後に、また読書録を書きます。

10日

風の馬たちをみてるか棒パンで編まれた籠に腕を通して

『シンジケート』穂村弘

よくわからんofよくわからん。棒パンって何だろうか?よくわからない単語の組合せを楽しむもの?「みてるか」は疑問文なのか?誰かに向けた問いかけなのか?果たして、いつ、なにをきっかけにこの短歌を詠むに至るのか?
短歌を詠み続けると、こうなるのか?

なにひとつ感情も乗ってないし、ワードチョイスも謎である。

日記も書くことがない。

11日

邦題になるとき消えたTHEのような何かがぼくの日々に足りない

『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』木下龍也、岡野大嗣

ドリフ結成60周年のSP番組を見て、久しぶりに爆笑した。幼少期のコント番組といえば、これとバカ殿だった。(正直に言うとあまり区別がついていない。白塗りしているか否か?)

賛否両論あるだろうし、とくに当時は、見たくないものも放送すべきでないものも中にはあったような気がするが、大いに笑った記憶もまた鮮明にある。大御所芸能人の性加害やら不倫やらが何かと話題になっているし、お笑い文化は個人的にはあまり好きではないことの方が多いが、これだけ笑わせてくれるのもまたお笑いである。

価値観が変遷する中で、どこにチューニングするかというのは難しい。倫理観は時代によって変わるし、場合によってはかつての自分を否定することになる。

THEを冠するような大きな才能は、時として世間的に染みついたイメージに絡め取られ、自らもそこに固執することになる。一時代を築いた人間の退場は、良し悪しに関係なく、ひたすらに虚しさが募り、目を背けたくなる。翻って自分に矢印を向けると、不足しているほうがちょうどいいのかもしれない、というような気もする。

12日

肋骨が 開いて 羽根になればいい その身ひとつで空に呑まれる

『100年後あなたもわたしもいない日に』土門蘭

肋骨が開いて羽根になるという空想が素敵な一首。何か変わらなければ、という思いでジムに入会したのがちょうど1年前の1月中旬だった。が、筋肉を鍛えたところで肋骨は開いてはくれない。 「空に呑まれる」には挑戦することに対する表層の恐怖と、それを言葉にする想像力に宿る、大空に出ていきたいという切望が併存している。ぼくはどうだろうか。いつも、表層の恐怖に呑まれているような気がする。

ジムは昨年末に退会し、来週にオープンする別のジムに入会するので、それまでの間はしばし休養中。家トレくらいはしようと思っていたけれど、それもこの1週間はサボっている。あと1週間はもう少しがんばろう。

13日

進路調査票は風に添付して海に送信しておきました

『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』木下龍也、岡野大嗣

ぼちぼち2月以降の職探しをしないと、と思いつつ、朝は近所の町営ジムでトレーニングして、午後はひたすら『昭和元禄落語心中』をFODでイッキ見。FODを解約しようと思ったが、このアニメだけは見ておきたいと思って見始めたら最後、休日の午後が溶けてしまった。

進路調査票を海に放った、短歌の一人称視点は単に先のことを考えてない阿呆か、先のことを考えたくないほどに自暴自棄になっているのか。『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』は歌集でありつつ、ひとつの物語という体をなしていて、その文脈から考えれば、明らかに後者である。

対するぼくはというと、明らかに前者。何かの笑い話にでもなればいいけど、ここで引用するような話は知らない。これを機に落語でも勉強しようかしら。先に、求人見ろって話なんだけど。

14日

ぼくはまたひかりのほうへ走りだすあのかみなりにあたりたくって

『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』木下龍也、岡野大嗣

『光る君へ』2話を視聴。2話が始まってすぐにまひろ(紫式部)が藤原宣孝と婚約。 ちなみに、ぼくは下の名を宣孝といい、昔の人のような名前と言われることが多い。自分の名前はあまり好きではないが、このドラマを見ると、呼ばれているようで、わずかに頬が緩んでしまう。藤原宣孝の楽観的なキャラクターは、ぼくとは似ても似つかないわけだが。
物語の方はというと、1話のラストシーン以外は淡々としていて、まだなんとも言えない。ぼくがわかっていないだけかもしれないけれど(笑)、人物相関図も複雑でなかなか慣れるのに時間がかかりそうだ。

ドラマ視聴後に日記を書いた結果、選んだ短歌も光を詠みこんだ一首に。衝撃的な体験も慣れてしまえば、ただ消費するだけの経験の連なりである。なんか楽しそうだから、いいのかな?あるいは自傷癖のようでもあるけれど。


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