水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員…

水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員やっています。高校では吹奏楽部の指導もしています。週休3日の嘱託人生に入りましたがあい変わらず通勤時間の暇つぶしに演奏側の立場として、音楽演奏に関する気がついたことや仮説を書いたりして参ります。

最近の記事

罠の多いメヌエット〜ハイドン交響曲第94番第3楽章

Hob1:94はなかなか手の込んだ作品で、例の「びっくり」以外にも至るところに、受け手を混乱させる仕掛けがたくさんある。 ハイドンだから、メヌエットだからと舐めていると、足を取られる危険がある。 まあ、そこが面白いのだけれど。 少しこの作品について、書いていこう。 例えば、一番とっつき易いはずの「メヌエット」でさえも、性格の悪い意地悪さを持っている。 メヌエットは基本的には、2つの小節をセットにした音楽である。これはダンスのワンステップが2分音符になっているからである

    • 「相手」がいるから自分が見えるの視野を持つ〜モーツァルト交響曲第34番冒頭をきっかけに

      Allegro vivaceが単なるallegroとは決定的に違うのは、その立ち上がりの位置にある。 通常のallegroは0小節めを起点として帰着点に向けて拍節を形成していく。 だが、これに対してallegro vivace はアウフタクト小節から拍節を開始する。例えば、K.551はその典型で 1 | 2 3 4 5|6 7 8 … という小節の4拍子を構成していく。つまり2小節めの1拍目はアウフタクト小節の運動を受け止めるダンパーの役割を負っており、その受け止めた衝

      • 二つの小節の結び付き〜ベートーヴェン交響曲第4番第2楽章

        ベートーヴェンop60の第2楽章の主題は、記憶を元にすると、まるで3/2のような歌い方をしがちだ。例えば、2小節3拍めのCと3小節め1拍めのBはスラーで繋がっているように歌いたくなる。つまり、2分音符が分母になっているように聞こえてしまっている。四分音符3つをひとつのボウイングの中に入れるのは辛いから?ではなく、根本的に捉え方が間違えているのではないだろうか?そもそも、楽譜はこの二つの四分音符をはっきりと区切っている。その事実は受け入れなければならない。 この主題の骨組みを

        • 「きっかけ」と「行く先」〜ベートーヴェン交響曲第4番第2楽章

          例えばDropという単語をいかにもネイティブ風な発音イメージをするとも「p」もほとんど音があるようには感じない。明らかに「プ」とは発音しない。 D Roという 細かい音+長い音 という組み合わせがその発音パターンには聞いて取れる。※さらに言えば、この場合「p」は発音というよりは「休符」的な役割になっている。 さて、この「短い音+長い音」の組み合わせが、日本語耳には馴染みが悪いようで、「長い音+短い音」の関係をつくりたくなる。「Ro p」という結び付け。そんな傾向があるよ

        罠の多いメヌエット〜ハイドン交響曲第94番第3楽章

        • 「相手」がいるから自分が見えるの視野を持つ〜モーツァルト交響曲第34番冒頭をきっかけに

        • 二つの小節の結び付き〜ベートーヴェン交響曲第4番第2楽章

        • 「きっかけ」と「行く先」〜ベートーヴェン交響曲第4番第2楽章

          その音楽の動きや機能からテンポを考える〜モーツァルト交響曲第39番第1楽章序奏を例に〜

          K.543の冒頭2/2adagioとなっているが、これが2/2呼吸を実現している例はあまり聞かない。テンポの問題である前に、速い4/4乗りになっているだけであることが少なくない。 この呼吸が見えないのは、この冒頭の「音楽」の起点がどこにあるのか、帰着点がどうなっているのかが見えていないことに原因があるのだ。だから華麗で性格の強い骨格のある音響を並べるだけの演奏に終始してしまうのだ。 それは例えば、K.425についても言えることだ。この冒頭の運動が見えていないから、あたかも

          その音楽の動きや機能からテンポを考える〜モーツァルト交響曲第39番第1楽章序奏を例に〜

          2/2と4/4の差別化

          ブラームスop98の開始には漲った緊張感がある。そのアウフタクトの裏拍にある四分音符は、一見シンプルだが、見事なくらいにその緊張感の位置を表している。 聞いた記憶の上なぞりではわかりにくいがこのallegro non troppo は4/4ではない。2/2で書かれている。つまり、この有名なH音は「4拍め」ではない。「アウフタクトの裏拍」にその位置がある。この四分音符の前には書かれていないが四分休符がある。この事実を忘れてはいけない。アウフタクトはその見えない休符によって面積

          2/2と4/4の差別化

          「感じる」より「探究する」が必要〜シューベルト「未完成」第2楽章

          D759の第2楽章も3/8 andante con moto で書かれている。「未完成」交響曲のロマンに取り憑かれるよりも、この事実の方がよほど大事なのだ。 この第2楽章の最初のフレーズの形が小節の6拍子であることが見えている場合、その開始は一言で語り出すことができる。 0 1 2 3 4 5 | 6 予備振りの0小節めを起点として、6小節めに帰着する形がわかっているからこそ、ステップの軽いandante で動きをもって、その形を語ることができる。8分音符を数えていても

          「感じる」より「探究する」が必要〜シューベルト「未完成」第2楽章

          「積み上げる」よりも「見通しを持つ」こと〜ベートーヴェン交響曲第5番第2楽章

          ベートーヴェンop67の第2楽章andante con moto は3/8拍子で書かれている。 この演奏が難しいのは、この冒頭主題の尺が長いことにある。つまり、起点から帰着点までの距離が遠く、それを見出せていないと、部分的なフレーズにとらわれてしまうのだ。 このような息の長い曲に出会った場合、小節の素因数分解的にメロディの全容を捉える必要がある。逆に言えば、それができていないから、響きに頼ってしまう。そうやって「精神性」とか目に見えない何かに陥ってしまうのだ。 この主題

          「積み上げる」よりも「見通しを持つ」こと〜ベートーヴェン交響曲第5番第2楽章

          相対的な視野で見る〜ベートーヴェン交響曲第1番の開始について

          例えば、ベートーヴェンop21の開始が云々よりも、その音楽としての動きがどうなっているのかが見えているかどうか、そこが大事。この冒頭の動きは4小節めの初めての総奏に向かっている。冒頭の一点からそこまでの「流れ」があって初めて意味のある論理となる。 いかに細部の精緻が整っていたとしても、「平均点」以上のそれであったとしても、その1小節めだけでは「意味」を成してはいないのだ。 このop21の冒頭はシンプルであるが、そのシンプルさゆえに難しいのだ。 この4小節めまでの動き自体が

          相対的な視野で見る〜ベートーヴェン交響曲第1番の開始について

          見落としてはならないこと〜ブラームス交響曲第4番第4楽章

          ブラームスop98の第4楽章のシャコンヌテーマは、二つの小節が分母となって、その上に音楽が載せられていく。そういう見通しができて、ここに存在する大きな4拍子が見えて来る。だが、それは、このシャコンヌテーマがそもそも8小節を要している時点で気が付かなければならない。つまり、それだけ「形を捉える」という姿勢に無頓着だからだ。 論理という形があるから私たちは文章をと通して、他人の考えを理解できる。音楽は音を使って形を作るものである。音響が人間の本能に影響力を持つから忘れがちだが、

          見落としてはならないこと〜ブラームス交響曲第4番第4楽章

          響きの魅力の前にフレージングを優先して考える〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          ブラームスop98の第2楽章。その第1主題が行き着いた先に、咲き乱れる第2主題。 八分音符で綴られるこのメロディはその和音の響きに魅了され、テンポが遅くなりがちだ。だが、楽譜のフレージングを生かすことを優先して考えると、呼吸はもう少しあっさりしている。ゆったりとした感覚はテンポ感の問題ではない。その骨組みが大きくなるからだ。 その41小節から始まるメロディは、二つの小節を分母にした大きな6拍子を骨組みの上にある。 その拍節の分母の変わり目は39小節めにある。 第1主題

          響きの魅力の前にフレージングを優先して考える〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          4拍目は反動を利用する〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          ブラームスop98の第2楽章の82〜83小節めは、かつての僕のような、リズム音痴には頭を抱えさせられる場面だろう。こういう場面があるから8分音符で数えたくなってしまうのだが。 中学生の時にこの曲に取り憑かれたものだ。ステレオの前で子供らしくエア指揮なんかしてたけど、ここは騙されてしまうんだよな、と幼いながらもその不思議を感じていたのが思い出される。 そもそも80小節めから6拍子とはなんぞやと考えさせられる場面に陥る。付点四分音符支配によるリズム感が強くなるのだ。まるで3/

          4拍目は反動を利用する〜ブラームス交響曲第4番第2楽章

          分かってから語る〜音を並べるからの脱却

          ベートーヴェンop68を始めるにあたって、最初のフェルマータまでを「一言」として語れるかどうか。 演奏するとはそういうことだ。 つまり、音符を数えて並べて、それが「楽譜通り」というほど機械的な問題では済まないのだ。 演奏とは、どう語るのかという問題と切り離しては考えられない。何を持ってひとつのフレーズとして、ひとつの息の中に収めるのか。それは日本語の発想では掴みにくい。音を組み合わせて単語を作る日本語と、息として単語を発音する西洋の言語とは決して同じではない。その違いを

          分かってから語る〜音を並べるからの脱却

          突き落とされる寸前の緊張感〜マンフレッド序曲の1小節め

          シューマンop115序曲の冒頭Rusch4/4は、ベートーヴェンop67の冒頭をさらに複雑にしたような音楽だ。切迫感のある速いスピードで一気に畳みかけるこの半拍ずれた3つの四分音符が作る形。そのクレシェンドも休符に付せられたフェルマータも効果的だ。 崖の上から突き落とされる直前で留め置かれたような緊張感。そのオチのない中途半端が、却ってその先の深い谷底を見せつけてくる。 この小節だけで、緊張感のある形を成している。そして、それが鳴り響く空間を一瞬にしてその場面の中に巻き込

          突き落とされる寸前の緊張感〜マンフレッド序曲の1小節め

          ベーレンライター版の「田園」を読んでたら

          ベートーヴェンop68の第5楽章6/8allegrettoをベーレンライターの楽譜で読んでいると毎回思うのだが、そのフレージングに癖があって面白い。1stvnの歌に続く2ndvnのフレージングが一致しないのだ。一度めと二度めとでは、違う歌い方を求めているのだ。 ただ、このフレージングの実現をまじめに考えているとテンポ感が変わってくる。特に21小節めからの3小節間を括ったスラーはある程度のスピードを要求するものである。 そのように捉えてみると、この主題の骨格は二つの小節をセ

          ベーレンライター版の「田園」を読んでたら

          扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて

          ベートーヴェンop67の開始は「八分休符から」という話しは子供のころから散々聞かさせれてきた。そこに「溜め」が生まれる。だから発音が鋭くなると。如何にも音楽のせんせいたちがしたり顔で語りそうなネタだ。 だが、それは20世紀のドイツの巨匠たちのようなあのテンポ感であったからこそ、のものであったのではないだろうか。楽譜の2/4allegro con brioのテンポ感ではその「八分休符」に妙な重みを持っている余裕はないように思う。その感覚はもはや古いように感じる。 小節の内分

          扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて