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「龍神さまの言うとおり。」第九話

歌舞伎町の中でもシックな雰囲気のあるラブホテル。そのエンストンスから中に入り、指定した部屋の階でエレベーターを降りた二人は、無言のまま、その部屋へと向かった。

洋介がドアを開けて中に入ると、二人は待ち切れなかったように、すぐさま持っていたバッグを床に下ろし、まるで磁石が引き合うように、お互いの唇を重ね合わせたのだった。

今この瞬間に、ふたりの間を遮るものは何もない。心も体も、その解放感に満たされながら、互いが体の感触を確かめるだけに、今という時間を共有していたのである。

どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

ようやく唇を離した二人の両手は、それが自分の意思を持ったかのように、立ったままの状態で向かい合う相手の服を、ゆっくり解き始めていた。それはまるで、ふたりの間には一切の余計なものは必要ないという無言の声に従うかのように。やがて、すべてを解き終わると、お互いの両手は、それぞれの体が最も熱く敏感になった部分へと静かに伸びていったのである。

しばらく立ったままの状態で、互いの体を確かめ合った二人は、ゆっくりベッドへと進んだ。

「二十六年越しの、ファーストキスね」

先にベッドへ入った恭子は、そう言いながら、その隣で横になろうとしている洋介を枕元で見つめた。

「確かに。まさか、こんな日が来るなんて・・・」

ささやくように言った洋介であったが、突然急に、豹変したように激しく恭子と唇を重ね合わせたのだった。そして火照った自分の体を恭子の上に移動させると再び、お互いの両手は、それぞれに最も熱く敏感になった部分へ、今度は素早く絡むように伸びていったのである。

いつの間にか、予定していた二時間が、一瞬のように過ぎ去っていた。

シャワーを浴びた後、上品なブルーの花柄ワンピースを着終わった恭子は、部屋にある姿見鏡の前に立ち、慣れた手つきで、シルバーの細いネックレスを付けようとしていた。そんな恭子の姿を、バスローブを着た状態でソファーに座りながら見ていた洋介は、つい先ほどまでベッドの上で妖艶に体を動かせていた恭子の姿を思い出していた。

「スリムなシルエット・・・、昔と全然変わってないね」

「そう?ありがと」

洋介は、恭子がそう言い終わったところで突然、背中越しに恭子を抱きしめたのだった。もちろん恭子は、それが何を意味するのかを察したのか、振り向くと、洋介の求めに応じるように唇を重ね合わせた。

「ずっと、このままでいたい気分だよ」

唇を軽く重ね合わせたままの状態で、洋介がつぶやいた。

「わたしもよ」

そして唇を重ねながらも、お互いの呼吸を確かめ合うように会話をする二人は、再度お互いの体を求め始めていたのである。

服を着たままの状態で恭子をベッドへと移動させ、再び激しく何度も肢体を重ね合わせた洋介であったが、やがて、その時間も、あっという間に三十分近くが経過しようとしていた。

「このまま宿泊に切り替えようか・・・、いや、ダメだ」

ベッドの上で、すでに上気し終わった表情を見せる恭子を見ながら洋介は、心の中でつぶやきながら、さらに湧き出る欲情を自制した。

「ごめん、つい長居しちゃった。そろそろ・・・、かな」

服を着たまま上気して横になっていた恭子を、ベッドから起こそうと背中に手を回しながら、洋介が言った。

「そうね。そろそろかな?」

起き上がり、そう言った恭子は、満足そうな微笑みを見せながら立ち上がると、再び姿見鏡の前へと向かった。

「三河くんって凄いわね、もう激しいし、エンドレスな勢いなんだから~。奥さんにも、こんな風に?」

鏡の前で髪を整えながら、恭子が笑いながら言った。

「あっ、いや・・・、かなり久しぶりだったから」

ベッドの端に座っていた洋介は、照れたようにそう言いながら、妻の恵子には感じたことのない激しい欲情が、自分の中で湧き起こっていたことを不思議に感じていた。

「ねえ、これからも、いろいろ相談に乗ってくれる?」

「あ、あぁ。いいけど・・・」

ベッドの下に脱ぎ捨てたままのシャツを拾いながら、洋介は少し歯切れの悪い口調でそう言った。

「大丈夫よ。仕事や家庭の邪魔はしないから」

自分の気持ちを見透かしたように話す恭子の言葉に、スーツへと着替える手を一瞬止めた洋介は、なぜか恭子の顔を直視できないままでいた。

「これで・・・、離婚届にサインする決心がついたわ」

「えっ?」

「今日、三河くんに愛されて、女としての自信を取り戻した気分なの。これからは一人でも何とかなるってね」

そう言う恭子へ思わず視線を向けた洋介の眼には、今の恭子の姿が昼間のそれとは全く違って見えた。

「それじゃあ、元気が出たところで・・・、行こうか」

スーツに着替え終わったところで洋介がそう言うと、恭子はショルダーバッグを肩にかけ、洋介の後に続いて部屋のドアへと向かった。

二人の乗ったエレベーターが一階に到着し、そのドアが開く直前に洋介は、この逢瀬を惜しむかのように、となりに立つ恭子の額へキスをした。

「これって、割り勘だよね」

エントランスのカウンターへ向かいながら、そう言ってジャケットから財布を取り出した洋介であったが、恭子は、それを制するように手を差し出して遮った。

「大丈夫よ。今日は、私が払うわ」

「今日は?」

「次回、お願いするわね」

苦笑する洋介を横目で見ながら、恭子はそう言ってショルダーバッグから財布を取り出すと、すぐさま精算を済ませたのである。

二人揃ってエントランスから外へ出ると、ホテル街の路地裏には、ホストを同伴した若い女性たちが、ラブホテルの空室を探しながら二人寄り添って歩く姿が見える。そして洋介は、何気なく腕時計に視線を向けた。

時刻は既に、午後十時を回っている。

「これから僕は、週明けにある会議の資料作成で会社に行くけど、北山さんはどうする?」

ふたりで路地裏を明治通りへ向けて歩きながら、洋介が聞いた。

「もう北山さんじゃなくて、恭子って呼んでくれないかな?」

「いや、呼び捨てはちょっと・・・、じゃあ、恭子ちゃんでいいかな?」

「いいわよ。あと・・・、今日は、いろいろ有難う。人生のシナリオに身を任せるって、初めて聞いたけど、すごく気が楽になったわ」

恭子の言葉に、洋介は微笑みながら頷いた。

「でも、三河くんって、龍神さまやスピリチュアルなこと、どうしてそんなに詳しいの?」

「それは・・・」

洋介はそう言って、二十六年前に龍王池で体験した後のことを話し始めた。

「あの不思議体験から、龍神さまや精神世界のことを一般的な知識じゃなくて、もっと深いところまで知りたいと思い始めてね。まずは、八幡浜周辺でも、大島以外に龍神伝説ってあるのかどうか、調べてみたんだ」

「それで?」

「うん。あったよ」

「どんな?」

「八幡浜駅から松山方面に行くと、次の駅が千丈駅だよね。そこから歩いて三十分ほどのところに鳴滝神社があってね・・・」

そして洋介は、鳴滝神社にまつわる龍神伝説を話し始めた。

愛媛県、八幡浜市内にある鳴滝神社。

昔から、この神社の横を流れる鳴滝には女性の龍神さまが棲んでおり、その龍神さまは瀬織津姫の化身であると伝えられていた。そして瀬織津姫は善男善女の縁を結び、子宝や安産、そして子孫繁栄にご利益がある神様であったことから、多くの人々が鳴滝神社へ参拝をしていたのだった。

そして洋介は、次のような伝説を話しはじめた。

ある日、鳴滝の近くに住んでいた男性に惹かれた女性の龍神さまは、美しい人間の女性に変身し、やがて二人は恋に落ちることとなる。その後、子供を授かるのだが、男性には出産の様子を見てはならぬと告げたにもかかわらず、その男性は出産の様子を見てしまったことで、女性の龍神さまは男性のもとを去る決意をしたのだった。

洋介が、ここまで説明したところで、恭子は驚いたように自分のことを話し始めた。 

「その神社なら私も知ってるわ。実は、結婚当初の父と母は、子宝に恵まれなかったから、ある日、二人で鳴滝神社へ参拝したらしいの。それで出来た子供が私よ」

「そうか、だから・・・」

洋介は、恭子と瀬織津姫に何らかの関係があるため、二十六年前に大島の龍王池で不思議体験をしたのではないかと考えたのである。

「えっ?どうかした?」

「ん?いや、実はこれまで、独学で集めたスピリチュアルな情報を、自分なりに整理して思ったことなんだけど・・・」

洋介は、そう前置きすると、瀬織津姫についての話しを続けた。

「瀬織津姫は、自らの化身である龍神さまを使って、この世で生じた穢れをカルマとして循環させて、少しずつ浄化しているのかもしれない。そして、循環させるには人間の学びが必要で、まだ反省や気づきが足りない穢れがあれば、それを生まれ変わりと同時にカルマとして、再び人間に背負わせて循環、つまりは、学ばせているんだと思う」

「じゃあ、私にもカルマって、あったのかしら」

「そう。でも、この二十六年間で、ほぼ消滅したはずだよ。あの時、大島の龍王池に棲む龍神さまのお告げを守って、自分が予め設定したシナリオ通りに生きたからね。鳴滝神社の瀬織津姫が、大島の龍神さまを通して、人生を踏み間違えないよう、事前に警告したんだと思う。つまり、恭子ちゃんは生まれた時から瀬織津姫に守られていたんだよ」

「なるほど」

恭子がそう言ったところで、二人は、すでに新宿三丁目の交差点まで歩いて来ていた。洋介が勤務する会社の支店は、交差点のすぐそばにある。

妻の恵子には、会社に寄って週明けの会議で使う資料を作成すると、通信アプリで伝えていたが、実際は既に作成済みで、取り立てて会社へ寄る用事もなかったが、なぜか、このまま家に直行で帰る気になれない自分がいた。

「じゃ、僕はそこにある会社に寄って、ひと仕事してから帰るよ」

そして洋介は、交差点の角にある交番の隣に建つ商業ビルを指さした。一方、恭子は「タクシーを拾って帰る」と答えた。

明治通りを走るタクシーは、そのほとんどが空車ランプを点灯させている。そのためか、わざわざ手を上げる必要もなく、乗車する気配を感じ取ったドライバーが、二人の前で車を停めた。

「じゃ、近いうちに、また連絡するわ。今日は、いろいろと有難うね」

すでにドアを開けた状態のタクシーに乗り込みながら、恭子は微笑んで言った。

「了解。じゃ、連絡待ってるよ」

明治通りを青梅街道へと走り始めたタクシーを見送った後、洋介は横断歩道の赤信号が青に変わるのを待ちながら、上着のポケットから、携帯電話を取り出した。

「ん?恵子さん?」

洋介は、妻の恵子のことを結婚後も呼び捨てでなく、『恵子さん』と呼んでいた。その恵子から携帯電話にメールが届いていたのだった。受信時間は、一時間ほど前の午後九時となっている。

(帰りは何時頃になる?待ってるから)

送られた文章は、それだけだった。

いつもなら、(先に寝てるね)というメールが来るはずなのだが、(待ってるから)というメールに、洋介の心は若干ざわついた。

(返信が遅くなってゴメン、十一時には帰るよ)

洋介は、そう返信すると、青信号が点滅を始めた横断歩道を足早に渡り、オフィスビルの夜間通用口へと入った。

洋介が勤務する旅行会社の支店は、人通りの多いオフィスビルの一階に店舗を構え、来店客の対応もしていることから、土曜日であっても数名の社員は、ある程度遅くまで残っていることが多かった。しかし、今夜の支店内の電気はすべて消されている。

「まあ、土曜日の深夜だし、仕方ないか・・・」

洋介はそう言いながら、課長である雛段席周辺を照らす電灯スイッチを入れると、自席に座ってパソコンの電源を入れた。パソコンが立ち上がると、何かしらの業務メールが来ていないかを確認するため、洋介は、社内イントラのメールシステムを開き、受信トレイを見た。予想通り、数件の新着メールの表示が見える。

「ん?支店長から?」

洋介は、一件のメールに目を留めた。

タイトルには、「本日の臨時取締役会決議事項」と記載されている。受信時刻は、午後十時となっていた。

「えっ、支店長は、ついさっきまで、このオフィスに居たのか?」

そう言いながら、洋介は早速そのメールを開いた。

社内では、昨年の全社員を対象とした早期退職募集に続いて、管理職に限定した再募集が近日中にあると噂されていたが、このメール内容は、それとは全く違っていた。

「フェニックス計画だって?」

洋介は、その詳細を見るために、添付されていたファイルをプリントアウトした。そこには、全社員からの新規事業提案募集として、社内のリソースを活用した新たな事業を創出することで、将来に向けた経営基盤としたい旨の前書きがある。

社員であれば、個人だけでなく、グループでの応募も可能であり、締め切りは一ヶ月後の八月末、最終決定は九月中旬となっていた。

「締め切りまで、たった一ケ月しかないのか・・・。おそらく、来年三月末の決算と、その後六月の株主総会の時点で、ある程度の実績を示したいという算段なのかな?」

洋介は独り言のように、そう言って、他のメールにも目を通すと、取り立てて問題のある内容でないことを確認して、早々にパソコンをシャットダウンさせた。

「うわっ、もうこんな時間か・・・」

支店内の壁にある時計の針は、午後十時四十五分を指している。

電気スイッチを押して消灯し、入口のカギを締めた洋介は、足早に表の通りに出てタクシーを拾った。

「初台まで。ルートは、甲州街道から山手通りを右折して、最初の信号で降ります」

タクシー車内で、洋介はそう指示した。通常であれば、甲州街道を途中で右折して、水道道路を直進するところであるが、深夜であれば、常に渋滞する初台交差点もスムーズに進行でき、より早く帰ることができる。

洋介の読み通り、乗車したタクシーは、わずか五分で指定した場所に到着した。そして、洋介はタクシーを降りると、徒歩で数分の場所にある自宅マンションへと小走りに急いだ。

「ただいま。遅くなってゴメン」

そう言って玄関ドアを開け、息を切らしながらリビングルームに入った洋介は、思わず「えっ!」と、驚きの声を上げた。

第九話 おわり



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