森見登美彦『夜行』感想

『夜行』、夜を行く。YOASOBIは駆けていたが、森見氏はどうももう少しゆっくりと夜を楽しむらしい。『夜は短し歩けよ乙女』というタイトルも同氏のものである。
ところで以下はネタバレを含むから、読む人は気をつけて欲しい。

物語はある画家の「夜行」という連作を中心に展開する。「夜行」は「永遠に続く夜」をテーマとする連作であり、それぞれ「尾道」であったり「奥飛騨」であったりの場所と、一人の女性がモチーフである。同時に、主人公らはある日行方不明になった長谷川さんの影を追い、連作の絵と、それにまつわる旅の話と、長谷川さんが絡み合って進行していく。それぞれのエピソードを異なる人物が語り、クライマックスに向かっていくのは百物語を思わせる。

物語中において、「曙光」という連作の存在が明らかになる。「夜行」と対となる、「ただ一度きりの朝」を描いた連作である。「私がいた世界から見れば「夜行」に見えるものが、こちらの世界では「曙光」に見える」と作中で主人公が述べる。この文こそがこの物語の核であるように思う。

長谷川さんと主人公は英会話スクールで知り合ったという。スクールがある日にだけ会う。作中、主人公と長谷川さんとの思い出は非常に少ない。にも関わらず10年間行方不明になった長谷川さんの影を追い続ける主人公である。
クライマックスで、主人公は一度、長谷川さんに会う。行方不明になった長谷川さんは別の世界、「曙光」の世界におり、主人公は「夜行」の世界に暮らす。これが最終盤で一度だけ、主人公が世界を渡って長谷川さんのいる「曙光」の世界でようやくの再開を果たすのである。長谷川さんは結婚して暮らしている。

作中、この「夜行」「曙光」の世界の行き来について窓が開くという表現が使われた。一期一会という言葉があるが、窓が開くような一瞬の交差が、出会いとか知り合うとかそういうものだと言えるかも知れない。人生で出会う多くの人の内、ほとんどがほんの一瞬の交流をのぞいて関わることはない。
「曙光」世界と「夜行」世界は作中の僅か数ページだけ交わった。高校の時の好きな人と久しぶりに会ったら向こうは結婚していたみたいなそういう話である。Official髭男dismの歌にPretenderというのがあるが、「もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった」と歌詞にしている。女々しいが、好きだけどどうにもならないお手上げ的な気持ちだろう。『夜行』では少し違って、好きだったけどいつの間にかあたかも違う世界に行ったかのように別れてしまい、次に窓が開いた時にようやく、あのときどうにもならなかったこと、違う選択をしていればどうにかなったかも知れないことを思い知ってセンチな気持ちになる。非主体性、非能動性、あるいは自分自身の魅力の不足に起因する、言わば根暗な後悔と切なさと女々しさを、その一回性の強調とストーリーと筆致によって劇的で芸術的な作品に仕立てたものであると、批評じみた書き方をするのであればそういうことであろうか。「世界はつねに夜なのよ」とか、そういうところである。
長谷川さんの結婚相手は作中、長谷川さんとの馴れ初めについて「夜明けが来た」と表現するが、作中の朝はそのような扱いである。

かくして、夜と朝を行き来しながら行くらしい。以前「リバー、流れないよ」の感想を書いたけれども、夜とは言え駆けるにはもったいない。
後悔ばかりの人生だとか、さよならだけが人生だとか、言うらしいけれども。
ままならないものである。

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