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ちょいちょい書くかもしれない日記(回復)

体調が微妙にすぐれず、働く時間と休む時間が同じくらいになってしまっている。作業がはかどらなくて困るけれど、こればかりは仕方がない。
早く治るといいですね、と言われると、「本当に」と相づちを打つものの、まあ、後遺症は、無理をしなければある程度までジワジワよくなって、そこで止まるだろうな、100%元どおりということはなかろうな、と正直思っている。
七割八割戻れば御の字なんだろうな、と。
八割を目指して、夏以来あまりにハードモードだった自分を労ろうと思っている。

そういえば、父が入院中、主治医とよく「回復」という言葉を交わした。
入院して最初の数日間は思いのほか経過がよくて、「急変の可能性は常にある」という言葉と、「退院後の継続治療・支援プランも考えていく」という言葉が同時に主治医の口から出ていたのだ。
そのときに、主治医が言っていたのが、「僕らが言う『回復』と、一般の方がイメージする『回復』の間には、たいてい凄い差があるんですよね」ということだった。
主治医は、状態が悪いところから、少しでも持ち直すことを「回復」と表現するけれど、本人と家族は元どおり元気になることを「回復」だと思っている。
なるほど、主治医としては「今よりちょっとくらいはマシになると思う」という意味合いで使った「回復」という言葉が、もしかすると本人と家族をギタギタに失望させる結果になるかもしれないわけか……と、初めて実感した。
幸か不幸か、私は生きた人は診ないとはいえ医者なので、父が元どおりになるとは微塵も期待していなかった。
むしろ、すぐには死なない程度に状態が改善された場合、これまでよりもずっとシビアなハンディを抱えて、どうやって生活させようか、どこに生き甲斐を設定しうるだろうか……と、そっちの心配をずっとしていた。
そういう意味では、主治医との間に、「回復」のイメージ差はほぼなかったのではないかと思う。
今も、人と話していると、後遺症からの「回復」のイメージが違うなあ、と感じることがあって、でもそれは決して嫌ではない。
私自身が諦めてしまっている「元どおり」になることを、他人様が願ってくれるのが嬉しくもある。
そのお気持ちが私の背中を押して、よいしょっとまた一段、上がらせてくれる気がする。

こんなご時世なのでお気遣いなく、気楽に楽しんでいってください。でも、もしいただけてしまった場合は、猫と私のおやつが増えます。