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あなただけが、なにも知らない。#18

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 当然、僕は彼女の返事を聞くつもりなど、始めからなかった。


「僕たちを置いて行った親は、いつも一緒に迎えに来てくれたね。君は泣いて父さんの所へ駆け寄っていたけど、僕は泣けなかったし、駆け寄りたい気持ちにもならなかったんだ。悲しくもなかったし嬉しくもなかったんだよ。寧ろ、僕は怒っていたのかもしれない。いつも何処かへ行ってしまう母さんに対して。いつも僕たちを置いて行ってしまう大人に対して、僕は少し怒っていたのかもしれない。君はもう、その時から分かっていたのかもしれないね。僕の母さんの事を……。僕の母さんがする事を……。……僕の母さんが、人を殺してしまうことを……」

 僕は、自分の居場所が分からなくなっていた。
 南海はどことなく憐れむような目で、僕の目を見つめていた。そして、肩を掴む僕の左手を優しくそっと払った。
 瞬きをした一瞬、その一瞬に南海の表情が変わったような気がした。僕を包むような柔らかな視線だった。

 けれども、僕の目に南海が映っている事自体が、僕の気を狂わせていた。


「そうだよね。きっとそうだよ。僕の母さんは人を殺したんだ。君は、それを知っているんだろ? そうだろ?」


 僕の問いに答えることなく、南海は微笑んで言った。「この絵が好きなの。ここの海が好き」彼女の小さな体から生える短い腕を伸ばすと、それで精一杯に僕を包み込んだ。
 それでも……。そんな時でさへ……。その細い枝の様な腕の中ででも、混沌とした感情が僕を囲んでいたんだ……。


「僕の母さんは……人を殺したんだね。

 そう、君の……、君の母さんを」


 記憶の断片が微かに見える。


「君は、それを知っているんだね?」
 夢のままであって欲しい。そのまま、忘却の中で隠れていて欲しい、そう思った。


 窮屈な僕の胸に顔を押し当てている南海は、小さく一つ頷いたんだ……。

 あれはたしか、三日間降り続いた雨が止んだ日。涼真といつもの店で会う約束をしていた。

 ……店内は騒がしい。
 人の甲高い話し声。食器が互いを跳ね飛ばす音。軽快な音楽が流れているが、僕には耳障りで、照明も眩しすぎた。
 低い声の客が、斜め後ろから何か叫んでいる。それを聞いて慌てている店員、振り回す人達。この立場の違いは何なのか。

「水!」とだけ言う客のコップにその店員はそれを注いだ。それはまるで私怨も一緒に注いでいるかの様に、僕には見えてならなかった。

 店を出れば、さっきの客が見知らぬ人となり、店員が客になれば立場は変わる。誰かを下に見、安心するかのように、人はまた眠るのだろう。


 吐き気がした。


 暫くして涼真から遅れると連絡が入った。

「珍しいな」
 そう言って僕は笑ったと思う。


 店内は混み始め、騒がしくなってきた。不快な音を耳が記憶してしまう前に、僕は店を後にした。
 外も店内同様少しずつ騒がしくなり始めている。行き交う他人達の目は、飼い主に捨てられた老犬の様に澱み、現実を受け入れられない自分に失望し、嘆くことさえも忘れ、悲しみに溺れながら、ただ流れの中に身を潜めている。そんな光景を僕は眺めていた。


「死ねよ」
 空を見上げて吐き捨てた言葉が、全部自分の顔にかかったような気がした。


 青の信号が点滅し始めた。急ぐ訳でもなく、止まる訳でもない。ただ流され歩く人達と同じように僕も歩いている。この流れが止まれば、僕もきっと止まるだろう。そのまま人ごみの中をただ真っ直ぐ歩くだけ。避けるのは僕ではなく、僕の知らない人達。三十メートルは歩いただろう。誰一人とも、肩や腕がぶつかる事は無かった。僕がしたくだらない行為は、他人達の優しさを示すものだった。それと同時に、自分自身の底の浅さを露呈する事にもなった。

 家路を歩く僕は肩を掴まれた。

「どこ行くんだよ。……三分前。ギリギリセーフ。だろ?」
 涼真は息を切らせて笑っている。


「店、混んで来たから」


「……了解」
 いつもなら、そういう僕の行動を諭すのに今日は違った。

 嫌な予感がする。

 ペットボトルから水を飲んで息を整えた涼真は、どこか他の店に入りたがっていた。でも、僕は家に帰ると伝えた。


「話って何かな。金ならもう貸さないよ。一週間前に貸したとこだからな」
 そんな話では無いことは何となく分かっていた。


「違うよ、違う。それじゃない」
 涼真は、両手を左右に大げさに振っている。


 僕は自宅に向かう道のりを、いつもより時間をかけて歩いた。その間に、涼真は手伝って欲しい事があるから一緒に来てほしいと、話を回りくどく言い、時間をかけて僕に説明をしていた。肝心の場所や何の手伝いなのかは教えてもらえなかった。ただ、お前にとって大切なことだとだけ言った。

 涼真は悪い人間ではない。金使いが荒く、小さな事を大げさに言うが、時間には正確だった。僕は涼真の頼みを聞くことにした。涼真は、その事を喜んだというよりも、何かを迷いながらも安心した様子で前を見ていた。


 僕が住むアパートの屋根の上に、二羽、黒い鳥が止まっていた。


 この倉庫は雨漏りが酷いのかもしれない。肩の滴がゆっくりと服に染み込んでゆくのを見つめながら、記憶のページを捲ろうとする自分を必死に抑えていた。頭上は微かな冷気を帯び、頭から足の先まで僕の体を徐々に冷やしている。

 傘を何処へやったかは、忘れてしまった。

 ……つづく。by masato

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