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友達関係を考えるきっかけを与えて下さったおばあさんとのひと時(2008年 39歳)

私はこの日、友との待ち合わせのため、自宅から最寄り駅へと足早に向かっていた。
18時近いのにまだまだ明るかったその季節は、おそらく夏が近づいていた頃だったかと思う。

駅までは20分ほどで、現在「このまま行けば、ちょっと早く着くかな?」というベストな状況。いつものルートである、車通りの激しい街道沿いの、長ーい下り坂をずんずん下っていった。

坂の1/2を下った頃であろうか。少し先にある、歩道沿いの駐車場ブロック塀(膝の高さ)に、おばあさんが腰かけられている姿が小さく目に入った。

腰を丸くして俯くおばあさん。そのお姿をそれとなく視線の端で捉えながら更に下ると、近づくにつれ、こちらをガッチリ見つめ始められたのに気がついた。
……訴えるような、やけに強いその視線。私はふと思った。
『あ、もしや行方不明者なのでは!?ヘルプを求める視線なのでは!?』
と言うのも、この頃連日のように「行方不明者のお知らせ」が街中の「行政防災スピーカー」から発せられていたのである。
しかも、ちょっと前に地元の知人から、「この間、行方不明者のおじいさんを保護しまして…」なんてことも聞いたばかりだ。

『よし、思い切って声をかけてみよう!』
私は意を決し、おばあさんまで辿り着いた時尋ねた。
「大丈夫ですか?」
「………………?」
意外にも、無言でキョトンとされるおばあさん。
『あらっ…?あの意味深な熱視線はなんだったのか?』

思わぬ肩透かしをくらった上に、単なる不審人物となってしまった私。
それでも素早くおばあさんのご様子を観察。『あ、大丈夫そうかな?』と思えたので、会釈をして先を急ごうと片足に体重を移動した。……と、そこでようやくおばあさんは口を開かれた。
「足が悪くて、歩くのに疲れたから、座っているのよ……」

何でも、この下り坂が左右にも傾斜しているので、とても歩きにくいらしい。
『そっか……普段は高低差の大変さしか気にしてなかったけど、おっしゃる通り左右もなかなかの傾斜。これじゃあ、確かに歩きにくいよ。なんとか改善されないものか……。……でもまあ、ひとまず行方不明者ではなかったから良かった、良かった……』
ホッとした私は、再び軽くご挨拶をして立ち去ろうとした。

そこへ、またしてもお声が。
「すみませんが、この先の銭湯まで手を引いて行ってもらえませんか」

瞬間、私はためらった。ここで時間を費やしたため、本当はちょっと急ぎたい。……速やかに腕時計を確認し、推計する。
『銭湯まで100m程。すごくゆっくり歩いたとしても、どのみち駅へ向かう道。おばあさんを送り届けた後に小走りすれば、待ち合わせ時間には間に合うだろう』
私は承知し、直角に曲げた腕をおばあさんにお貸しした。そして、小刻みにゆっくり1歩ずつ進んだのだった。

50mほど歩くと、赤信号がとてつもなく長い交差点でひっかかった。
『あ~赤信号だー……。いやでも、青信号の時間は短いから、かえってスタートからゆっくり歩き始められていいか』
そんなことを思っていると、不意に腕の軽さを覚えた。
おばあさんが手を離されたのだ。
『あれ?』とお顔を見ると、「ここからは(道が)平らだから、もう大丈夫。どうもありがとう」と、何度もお礼をおっしゃり微笑まれた。

銭湯まで送る気満々だった私は、ちょっと拍子抜けしたものの、ひと安心。
青信号に変わると、おばあさんにご挨拶をし、待ち合わせ場所へ急行。
無事、待ち合わせ時間に友と合流したのだった。

合流後、目的地までの道すがら、おばあさんとの出来事を友にかいつまんで話した。そしたら、彼女は強い口調で言ったのだ。

「それで、私との待ち合わせに遅れたら、どうするつもりだったの!?」

私はビックリした。ビックリしすぎて、咄嗟に何も言い返せなかった。
と同時に、彼女との見解の相違を非常に興味深く思った。
確かに、万が一のこと(本当に行方不明者だったなど)が起こっていたら、友にとっては大迷惑な話かもしれない。
もちろん友は大切だ。しかし時として、友じゃない人も私には同じくらい大切に思えることだってあるのだ。

人それぞれに、捉え方は違っていて当然である。
ただ、身近な人の場合、余りにも根本的価値観が違いすぎると、小さな違和感が積もり積もって負担となり、やがて心にもやもやと重くのしかかる。
……そう、違和感は、注意喚起の「イエローフラグ」なのである。

しかし、ともすればその違和感を「家族だから」「友達だから」「彼・彼女だから」という概念で、うっかり軽く流してしまってはいないだろうか。
……私はそうだった。違和感こそが、自分がより幸せな道(例えば、自分が本当に心地よいと思える人たちと新しく繋がったり…)へと進む「大切な指標」だというのに。

頭ではなんとなく理解していたこれらのこと。この時の友の見事な発言により、瞬時にスルリと腹落ちした。
おかげで、ようやくコツをつかんだ私は、その後「違和感=イエローフラグ」を大活用。結果、もう自分には合わなくなったありとあらゆるものの断捨離が加速することとなり、新しくて軽やかなエネルギーの人やモノ、経験などがどんどん入って来たのであった。

人間として生きる限り、時間は有限である。ならば、出来る限りその時々で心地の良い存在と過ごすことが大切なのではないか。
全ては流動的なのだから……。

という訳で、「おばあさんに目で訴えられてる?」と思ったのは全くの勘違いだったようだが(行方不明者と勘違いして、ごめんなさい!)、そこから起こったわずかな出来事により、私は人生の重要事項を学ばせていただいたのであった。

日々の些細な出来事。見方によっては、結構人生を大きく変えてくれたりすることもある。
今思えば、おばあさん、出逢い、そしてもう会うことのない友にも感謝なのである。

なお、おばあさんは、私を見つめていたことに関して一切
言及されなかったので、視線に全く意図は無かった模様。
もしかしたら、私を見ていなかったという可能性も(←乱視)😅



余談
この日、学んだことがもうひとつ。
「これから人を強く指摘するときは、まず自分はどうなのかと省みてからにしよう!」

と言うのも、本文中の友、自身が約束の時間に遅れがちだったのである。
この学びもまた、速やかに深く私に浸透した。
何故なら、私自身も自分を棚上げしがちだったからだ。
……いやーこの日は、大切なことを色々学ばせていただいた。あらためてありがとうございました。

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