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声を授けてくれて下さった方(1969年 0歳)

これは、私の生後3か月頃の話である。
母から何度となく聞かされた話ではあるが、何しろ彼女は夢の中を生きているような人ゆえ、若干怪しい部分があるかもしれないことを予めお断りしておく。

さて。私が誕生した当時、家族は父の仕事の関係で川崎のとある街に住んでいた。
大きな川に隣接したその街は、商店街が賑わい、昭和的下町ハートフルな空気感に包まれた、とても暮らしやすいところだったのだそうだ。

北海道の小さな漁師町出身の母は、バリバリの専業主婦。父は遠洋漁業大型船の船員で、乗組員の方々の食料品や日用品を管理をしていたようだ。
漁場は太平洋・大西洋・インド洋など。なので、出航したら最後、数カ月~半年位は帰ることはなかったのだが、人情味あふれる地元の方々のおかげで、母と赤子ふたりきりでも、温かく見守られながら安心して暮らしていたようである。

しかし、突然「その日」はやって来た。
そう、私が生後3ヵ月を迎えた頃、突然声が出なくなったのだ。
顔を真っ赤にして泣いてはいるが、声がない。
しわがれ声さえ出ていなかったそうだ。

「………!」
一挙に血の気が引く、ただでさえパニクリストの母。しかも頼みの父は、例によって長期不在と来たもんだ。
頭まっ白で私を抱きかかえ、サンダルすらまともにつっ掛けず、転がるように地元のかかりつけ医の元へ駆け込んだ。

しかし、診断結果は「原因不明」。
その後、すがるように次々飛び込んだ他の病院でさえも、結果は皆同じであった。

ひとり絶望の崖っぷちに立ち、愕然とする母。
そのショックからなのかなんなのか、その後どのような対処を私に講じたのかはもはや記憶の彼方とのことだが、何だかんだと東奔西走しつつ1ヵ月程が過ぎた頃、祖母に電話で相談をしている。(※1ヶ月という期間は、遠く離れた両親に心配をかけさせない配慮だったと思われる)

ちなみに、母の実家は、前述のとおり北海道の小さな小さな漁師町である。
波がチャポチャポ打ち寄せる穏やかな磯と小山に挟まれた、ものすごく長閑で良い所なのだが、昔から多くの方々が“海”という大自然と対峙する仕事に携わって来られたからか、神様や仏様への信仰心が篤い上に、ちょっと独特なジンクスや迷信、禁忌等が非常に多かった。

それは例えば、一般的によく知られる「夜に爪を切ってはいけない」「北枕で寝てはいけない」などはもちろんのこと、「はさみまたいではいけない」「水にお湯を注いではいけない」「赤ん坊が生まれたら眉毛を全部剃る」「月経中は髪を洗わない」「服の縫い目のほつれを見つけても、着用したまま鋏で切ったり縫ったりしてはいけない」などなど、あまり聞き慣れないものまで日々厳密に守り暮らしていたようだ。
(※今現在は、温暖化と石油価格上昇・少子化により漁業が衰退してしまったのと、町民が世代替わりをしているので、昔ほど厳密に行われてはいないと思われる)

そのような地でずーっと生きて来た祖母(当時60歳くらい?)。
色んなことに敏感であり、ちょっとした霊感もあったらしく、町でも飛び抜けて神仏への信仰が篤かったのだそうだ。

そして、やっぱり心配性のパニクリスト。
母からの相談は、ショック以外の何物でもなく、「実際目にしていない、遠くて確認しに行けない」というのもあり、妄想が加速。
電話口でも分かる程に、一瞬にしてパニック大爆発となったのだった。

しかし、さすがは年の功(?)。動転しながらも、気丈に電話の向こうでこう告げた。
「そしたら、Kさん(隣町に住む有名な祈祷師さん)にお願いしてみる!」
つまりそれは、「医学がダメなら、後は神頼みしかない!」という、シンプルな発想。だからこそ、力強ささえ感じる解決策であった。

母は、すぐにその策に乗っかった。
なにしろKさんは、祖母と関係が深く、これまで実家で起こった数々の不可思議現象を解決して来られた実力者なのだ。
それに、まだ実家住まいだった娘時代には、同居していた甥っ子(私からすると従兄)の件で、遣いの者として何度かお会いしたこともあったため、母としても相当信頼感があったのだった。

一方、大役を担った祖母は、昂りすぎて一晩中まんじりともせず、長引く更年期障害にうんうん言いながらも、翌日「1日に数本」しかない乗り慣れぬバスに乗車。20分かけてKさんの祈祷所を訪れた。

Kさんは、ご祈祷を快諾下さった。
ただそれには、「身代わりとなる“肌着(私が普段着用しているもの)”が必要なので、早急に持って来て欲しい」とのことだったので、祖母は帰宅後母に大至急送るよう電話。
こうして、嵐のような1日は終了したのだった。

ところで。先にも少し触れたが、祖母は以前から身内の難事の際にはKさんをよく頼っていたようだ。
いつどのように知り合ったのかは定かではないが、年齢が同じ位という親しみもあったのだろうか。科学や医療などの力では解明しにくい様々な悩み事に関して、かなり深く相談していたらしい。

Kさんは、それらの問題を「口寄せ(代弁。※余談②にて補足アリ)」で原因をつきとめておられた。つまり、物理的に形があったり無かったりするものを、ご自身に憑依させ解決へと導くのだ。
それが真骨頂であり、しかもかなり的確。地域一帯での信頼も篤かったのだそうだ。

という訳で、この度も、私の肌着が到着するや否や「まだ赤子で言葉が話せない私の代弁」という趣旨のもと、早速祖母の眼前で口寄せが行われた。

……私を乗り移らせるKさん……。まもなく「苦しい、苦しい!」と激しく胸を掻きむしられたそうで、原因は胸部にあることが判明。
祖母は、対策として「謎の黒い粉末の袋」を託され、それは母の元へと送られて来たのであった。

母によると、「謎の黒い粉末」は何袋かあったそうだ。
使い方は、同梱されていた祖母の拙い手紙(※祖母は殆ど教育を受けていなかったため、文字があまり書けず、書くことも嫌っていたが、この時ばかりは必死だったようだ)に書かれており、「粉を水で練ってガーゼに塗り、胸に湿布するように」とのこと。

すぐさまガーゼ購入に走った母。手順通りに湿布を完成させ、いよいよトライ!……がっ、上手く貼れない!
と言うのも、突如襲来した“ヒンヤリ冷たい湿布”にビックリした赤子の私が、ぐねぐねと激しく抵抗しまくったからだ。

声もなく号泣し、悶える我が子。
しかし、母も必死だった。嫌がる姿に胸を掻きむしられながらも、懸命に貼ったのだそうだ。

そして、そんな母娘の湿布攻防もわずか数回。急に声が出るようになったらしい。
それは声が出なくなってから、およそ2ヵ月後のことであった……。

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さて、少し時は流れ、更にその6ヵ月後。
北海道に帰省した母は、まもなく1歳になろうかという私を伴い、お礼参りのためご祈祷所をお伺いした。(※この時も、やはり父は遠洋に出ていて不在)

しばらく積もる話をする、Kさんと母。
その間フリーとなった歩き始めの私は、ここぞとばかりに珍しい調度品が置かれたご祈祷所内をチョロチョロ……(←当時から好奇心旺盛)。祭壇の大きな水晶や太鼓などをいじって回っていたらしい。

Kさんは、当然「いじっちゃダメよ~」と軽くたしなめられた(と言うか、母は何故注意をしなかった?)。
……声に反応し、なんとなく手を止めた私。その様子をしばらく眺めておられたKさんは、何故か突然次のようなことをご提案下さったのだそうだ。
「この子を3年間神様に預けて下さい。私が毎日拝みます」
それは全くのご厚意であった。ご祈祷料などは一切求められなかったのである。

驚き、恐縮する母。だって、そこまでしていただける理由がよく分からない。
しかし、祖母ほどではないが霊感がまあまああった母は、Kさんから何かを感じ取り、ありがたくお申し出を賜った。

すると、続けてお達しが下された。
「その代わり、その間絶対にこの子の頭に手を上げてはいけません。髪は伸ばさず、常に短くしていてください。切った髪は粗末にせず、きちんと全てまとめて川に流してください(※余談⑦にて補足アリ)。また、ご家族全員肉類を控えてください」
そして最後は、「この子はとても賢い子になるでしょう」という謎の予言で締めくくられたのだそうだ……。

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以上で、一連の摩訶不思議な話は終わりである。……終わりではあるが、私としては今もなお続いているストーリー。
何故なら、Kさんの予言が気になる。
果たして、賢さはすでにカンストしているのか(結果この状態なのか?)、もしくは「人生後半に残した伸びしろに乞う期待!」なのか……。
まあそれは定かではないが、このような魔訶不思議ないきさつで、私は再び声を授けていただいたようである。

この一連の流れの中で、母の話には出て来なかった大変な事もきっと沢山あったろう。まずは、祖母や母に感謝である。
そして何よりKさん。Kさんには感謝という言葉だけでは言い尽くせない、特別に熱い想いがこみあがって来る。
3年もの間、毎日ご祈祷して下さっていたなんて、何てありがたく力強い守護だったのだろう……。

Kさんは残念ながらだいぶ前に他界されているが、それでも尚、天国から守護を注いで下さっている気がする。
それに“賢さチェックも”。
……Kさん、いかがでしょうかね、私?



余談その1:いただいた「黒い粉末」のナゾ

Kさんからいただいた「黒い粉末」の正体。今も謎のままだし、Kさん亡きあと、もはや解明されることはない(「多分、生薬的なもの?」と母は言っているが……)。
何故あの時、祖母も母も聞かなかったのか?……私にはそれが一番謎である。
まあ、それだけKさんを信頼していて、聞くのは野暮だったのかもしれないが、それにしても興味は無かったのだろうか……?


余談その2:「口寄せ」についての補足説明

本エピソードに出て来た「口寄せ」の種類には、主に「神降ろし(神の言葉や意思を語る)「仏降ろし(故人との仲介)があるようだが、Kさんの場合、祖母が持ち込んだあれこれの問題に対しては、主に「存命である人」をご自身に憑依させ、代弁しておられたようである(多分その人の“潜在意識”が語るのだと……)。


余談その3:Kさんのご実力

Kさんがどのような人生を送って来られたのかは、母も私も詳しくは存じ上げない。
ただ、片方の目が見えずご苦労されていたこと、それ故に厳しい修行やご経験を積まれてきたこと、そして私の従兄や叔父の異変(共に医学的に原因不明)などもしっかりと解決へと導いて下さった実績もある、「本物」の師であったという事実をここに残しておきたい。


余談その4:今更ながらの私の後悔

Kさんはだいぶ前にご逝去されてしまった。
おそらく私が10代後半から20代前半の頃に。
後継者はいらっしゃらない。

で、私は今更ながら強く後悔している。
「なぜ、ご健在なうちにお礼に伺わなかったのか……」
そう、お会いしたのは、後にも先にも赤子のあの時一度きりだったのである。
……とは言え、こうも思うのだ。
「人間的にペラッペラだった10~20代。ガッカリさせてしまわないためにも、逆にお会いしなくて良かったのかもしれない」と。

50代の今、猛烈にKさんとお話がしたくてたまらない。


余談その5:髪を伸ばすことを禁じられた幼少期

髪を伸ばすことを禁じられた私は、かわいい盛りと言われる4歳頃まで、ずっと「角刈り」のようなヘアスタイルだった。
どこからどう見てもスカートを穿いた男の子……。街ゆく初見の方々を惑わせていた。

そんな私を不憫に思ったのか否か、親は花形ピン留めをつけたりして、せめてもの女の子らしさを演出していたようだが、その写真はまるで女装。違和感と残念感がハンパない。
しかも、何故か遊び友達も男の子ばかりで、ライダー系やタイガーマスクの人形で元気に遊んでいたという……。
そう、もはやジェンダーレスの先駆けであったと言っても過言ではない、幼子の私であった。




余談その6:「短髪キープ」のご協力者

“短髪キープ”において、大変だった方がもうおひとり。
それは商店街の床屋さんのご主人である。
母から事情を聞いたご主人は、散髪後、床に落ちた髪の毛を、毎回母と共に一本残らずかき集めて下っていたとのこと。……かなり大変だったらしい。
本当にありがとうございました<(_ _)>


余談その7:本エピソードの補足

髪を川に流す行為。おそらく現在は、環境的に禁止されているのではないかと思われる。


余談その8:「神様に預けられ期」後の私の頭

両親は、私が小学校に入る頃には、構わず頭をひっぱたいていた(←昭和感……)。
神様に預けられていた期間は終了したのでOKってことだったのだろうか?
だとしても、お互い色んな意味で残念である。


余談その9:大変だったであろう祖母

祖母は、私の声が出るまで、そして私が神様に預けられていた期間も、定期的にKさんを訪れてくれていたようだ。
目的は、ご祈祷所の祭壇に新鮮な卵を奉納し、お参りするため。
それは本来、任意であったが、ことあるごとに訪れていたようだ。

……と一口に言っても、かなり大変だったはずなのだ。
何故なら、交通がとんでもなく不便だったことを始め、卵を手に入れるのだって、小さな商店がポツンと一軒という環境。
しかも更年期障害を長く引きずり、わずかなことで体調を崩しやすく、そもそも快活に外出するタイプではなかったのだ。

なので、それでも続けてくれた祖母には感謝。
自分が今こうしていられるのは、「計り知れない多くの方々のご尽力」があるのだとしみじみ思う。


余談その10:霊感が強かった祖母の、ちょっと危ない(?)魔除け方法

祖母は、とにかく色んなものを感じることが多く、おまけにそれらに引っ張られて心身に不調をきたしやすかったため、「魔除け」として、常々敷布団の下に「さらしで包んだ包丁」を置いて寝ていたそうだ。
そしてそれは、なんとなく母にも受け継がれ、ここぞという時(?)に実行されている模様。
何かそっちの方が危ないような気もするし、落ち着かない気もするが、母としては安心とのことである。



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