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<地政学>リスクの玉手箱、パキスタンのひどすぎる地政学について

 今回はリクエストに応じてパキスタンの地政学について取り上げたいと思う。

 パキスタンは南アジアに位置する人口大国である。この国の地政学ははっきり言って酷い。パキスタンの多すぎる人口は貧困と腐敗に苦しんでいるが、パキスタンの場合は国内にとどまらず、国外にまで害が及んでいる。例えば9月11日のテロはパキスタンの地政学的問題が遠因となっていた。

 筆者のパキスタンに対する評価は低い。なぜパキスタンはこのような惨状を呈しているのか、解き明かしていこうと思う。

インド・パキスタン分離独立

 パキスタンという国の歴史は長いとも言えるし、短いとも言える。パキスタンはインダス文明の揺籃の地であり、紀元前から文明が花開いていたようだ。アレクサンダー大王が征服した地域でもある。しかし、だからといってパキスタンの国家としての歴史が長い訳では無い。

 この地域は伝統的に国境が不安定だった。マウリア朝やムガル帝国のような統一帝国が出てきたかと思えばあっという間に崩壊し、北西部から遊牧民が侵入してきた。中世のインド亜大陸、特にパキスタンの位置する北西部はラージプートと呼ばれる無数の諸侯が群雄割拠しており、安定した国民国家はできそうになかった。むしろパキスタンの住民はエジプトやイラクと同じく、常に誰かに征服されている状態だった。中国はだいたいいつの時代も統一されていたし、ヨーロッパは現在の国境からあまり国家が動いていないことを考えると、想像を絶する不安定さである。

 最終的に19世紀の段階でインド亜大陸は大英帝国によって統一される。この時点で「インド亜大陸」という枠組み以外の国民国家になりうる単位は存在しなかった。英領インド帝国はイギリスの統一政府と無数のマハラジャの収める藩王国で構成されており、カオスの中の統一と言った状態だった。ガンジーのような指導者はむしろこれを生かしてインドを統一国家として独立させようとした。実際、インドはあまりに民族が多すぎるが故にかえって民族間の平等が担保されている節がある。

インド独立運動は第二次世界大戦後に結実し、インド・パキスタン分離独立が起きる。ここで問題になったのは英領インドの中のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立だった。それまでインド亜大陸でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が地政学的に繁栄されたことはなかった。アクバル大帝のように宗教融和に努めた人間もいればアウラングゼーブのように原理主義者のような人間もいたが、政治的対立の単位として宗教が持ち出されたことはあまりなかった。ヒンドゥー教徒はカースト等で分断され、それどころではなかった。両宗教の対立は国民国家概念が植民地に導入されたことで生まれた問題と言えるだろう。

 主にインドがヒンドゥー教徒の国でパキスタンはイスラム教徒の国とされる。これは間違いではないが、厳密には少し違う。インドは世俗主義の国是であり、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は等しく国民と主張した。パキスタンはイスラム教を国家アイデンティティにした。これを反映してか、インドにはイスラム教徒が数多く居住するが、パキスタンはほとんどがイスラム教徒である。パキスタンの方が建国の理念の時点で宗教への傾倒が強かったことは間違いない。

印パ80年戦争

 もともと関係が良くなかった印パ両国は分離独立とともに。いや、その直前から既に紛争が発生していた。印パ分離独立の際に一部地域では暴動が発生し、両宗教の人々が殺し合った。その犠牲者は50万人と言われる。パキスタンに住んでいたヒンドゥ教徒やインドに住んでいたイスラム教徒は多数が難民としてお互いの国に流入している。当初から両国には不和の種が撒かれていた。

 印パ両国が戦争に発展したのがカシミールだ。英領インドの北端に位置する高山地帯で、世界一美しい紛争地帯と言われる地域である。カシミールの人口の大半はイスラム教徒で、地理的にもパキスタンに食い込んでいるのだが、カシミールの現地の藩王がインドへの帰属を決定したために両国の間で奪い合いが発生したのだ。1947年の第一次印パ戦争である。これによりカシミールは印パ両国によって分断された。ここに現代まで至る印パ両国の対立構造が完成した。1965年にも両国は戦火を交え、第二次印パ戦争と呼ばれた。

 以前の記事でも言及したが、インド亜大陸の地政学的特徴はインドとパキスタンの対立構造によって規定されている。ただし、この勢力均衡は最初からインドが有利だった。人口がインドの方が圧倒的に多かった上にパキスタンが地理的に異常な形状をしていたからだ。

 パキスタンは国土が東西に大きく離れた形状をしている。東西パキスタンの人口はだいたい同じだった。こんな形状をしている国家は珍しい。他には国家と言えるのかはさておき、パレスチナくらいだろう。東西の間には敵国のインドが控え、交通はめちゃくちゃ不便だった。本当に国家を建設する際に宗教のことしか考えていなかったのだろう。

 さらに東西の仲も険悪だった。パキスタンはパンジャブ・アフガン・カシミール・シンド・バロチスタンの略なのだが、ここに東パキスタンは反映されていない。ハナから東部が無視されていたことになる。これがトラブルの種になることは間違いないだろう。

 見るからに無理があった東西パキスタンの統一は1970年に東部が独立運動を起こしたことで崩壊する。パキスタンは軍隊を送り込んで大量虐殺を行ったが、インド軍が侵攻して東パキスタンのパキスタン軍は降伏する。これが第三次印パ戦争である。東パキスタンはバングラデシュとして独立して現在に至る。

パキスタンの地理

 さて、ここでパキスタンの地勢を見てみよう。はっきり言ってパキスタンの地政学的条件は良くない。印パは南アジアの二極だが、国力は圧倒的にインドの方が強い。人口面でインドの方がパキスタンの5倍だからだ。

 しかもパキスタンの国土はインドに張り付いた形をしている。パキスタンの人口の殆どはインダス川の流域に住んでいるが、その殆どはインドの国境から数百キロしか離れていない。大都市のラホールやラワルピンディは国境の目と鼻の先だ。首都のイスラマバードもインド国境に近い。インドが広大な後背地を持っているのとは大違いだ。

 しかもパキスタンの海への出口はカラチ周辺にしかなく、インド海軍によって容易に封鎖されてしまう。パキスタン海軍は有事になればあっという間にインド海軍によって壊滅させられるだろう。

 パキスタンという国は巨大な敵国インドによって押しつぶされ、うなぎの寝床のような形状になっている。安全保障上、極めて不利だろう。日中が海によって隔てられているのとは対称的だ。

 パキスタンもこの点は十分に理解していた。インドとの三回の戦争でパキスタンは全て敗北し、東パキスタンも失ってしまった。パキスタンは威信を回復する必要があった。そこでパキスタンが目をつけたものは2つだ。1つ目はアフガニスタンであり、もう一つは核兵器だ。

アフガニスタンへの進出

 パキスタンの地理は勢力拡大に不利である。インドによって押しつぶされており、北にはソ連が控えていた。しかもインドとソ連は友好関係にあった。現在に至るまでインドは大量のロシア製の兵器を購入し続けている。

 西方のイランに勢力を伸ばすのも難しかった。パキスタンとイランは以外に疎遠である。両国の間には人口希薄地帯が控えるし、両国はほとんど利害を共有していない。イランは中東の国であり、パキスタンはインド亜大陸の国だ。中東の地政学とインド亜大陸の地政学がきっぱりと分かれるのもこのためである。対テロ戦争までパキスタンは中東情勢と結びつきはほとんど存在しなかった。

 というわけで、パキスタンが勢力拡大を図れる唯一の場所はアフガニスタンだった。パキスタンは1980年代以降、この地域への影響力を強め始める。

 パキスタンとアフガニスタンは同じイスラム教の国であり、多くの部族を共有する。例えばアフガニスタン人の名前は「カルザイ」のように「〇〇ザイ」が多いが、パキスタン人のマララ・ユスフザイも「〇〇ザイ」である。両国の民族的境界は曖昧だ。ただし、だからといって両国の関係が良好だったわけではない。アフガニスタンはパキスタンとの国境を認めておらず、何回か国境紛争になったことがあった。ソ連と親密なアフガニスタンはパキスタンとは敵陣営だった。

  ところが1979年のソ連のアフガニスタン侵攻が全てを変えた。アフガニスタンはソ連軍とイスラムゲリラの間で激しい戦争が行われ、地続きのパキスタンはゲリラの後方支援基地となった。CIAはパキスタンと協力してソ連と戦うゲリラを支援した。彼らの多くはイスラム過激主義に染まっており、ビンラディンもその1人だった。アフガン戦争は後のイスラム過激主義の拡散の大きな要因となった。

 ここで暗躍し始めるのがパキスタン軍統合情報局、通称ISIである。パキスタンでは軍の権力が強い。国家が軍を所有しているのではなく、軍が国家を所有しているのだと言われる。背景にあるのは文民政府への国民の不信だろう。これはエジプトや昔の韓国と同様である。その中でも諜報機関を一手に担うISIは国家の中の国家と考えられてきた。

 ISIはアフガン戦争の混乱に乗じてイスラム過激派を訓練し、アフガニスタンへの進出を始めた。1992年に共産政権が崩壊するとISIはアフガニスタンに友好的な政権を打ち立てようとした。最初に目をつけたのは軍閥の長だったヘクマティアルという男だったが、彼はあまりにも乱暴だったため、ISIはタリバンと呼ばれる別の勢力に注目した。彼らは保守頑迷が過ぎるところがあったが、その反面真面目だったので、パキスタンが頼りになる勢力に思えた。

 1990年代にタリバンが急速に勢力を拡大し始めたのはISIの支援あってのことだ。タリバンが負けそうになるとパキスタン軍は特殊部隊を送って支援した。タリバン政権は孤立していたが、パキスタンは承認した。この時期、パキスタンはインドに反乱を起こすイスラム過激派への支援も行うようになった。カシミールは住民の大半がイスラム教徒だったので、これらのテロ組織が浸透するにはうってつけの場所だった。ここにパキスタンはテロ支援国家となったのだ。

 1990年代に世界の非難があったにもかかわらず、パキスタンは核実験を行い、名実ともに核保有国となった。苦節30年の結果が実った瞬間だった。こうしてパキスタンはなんとかインドへの巻き返しを試みる。

対テロ戦争

 2001年9月11日、アメリカ同時多発テロを受けてアメリカは対テロ戦争を開始した。真っ先に標的になったのはアフガニスタンだった。タリバン政権はアルカイダを匿っていたからだ。パキスタンはアメリカの軍事介入を心底嫌がっていたが、アメリカの凄まじい圧力に屈して協力を余儀なくされた。パキスタンはアフガニスタンへの陸路を提供し、その他軍民様々な点でアメリカと情報を共有しなければならなくなった。

この発言はタリバンではなくパキスタンに向けられたものである。

 タリバン政権は一ヶ月で壊滅したが、残党はパキスタンに逃げ込んだ。ISIは彼らを保護し、タリバンは生きながらえた。

 これはある意味でベトナム戦争に近い構図とも言えた。アメリカはタリバンを掃討したが、彼らは安全なパキスタンに逃げ込んでまた戻ってきてしまう。タリバンに勝利できなかった理由はいくつもあるが、最大の原因はISIだったと言われている。

 タリバンが逃げ込んだ地域はパキスタンの連邦直轄部族地域である。この地域はイギリスが獰猛すぎて言うことを聞かないパシュトゥーン系の部族に自治を許した地域であり、パキスタン政府の統治は及んでいなかった。パキスタン部族地域はおそらくユーラシア大陸で最も遅れた地域であり、女性の識字率は当時3%と世界最悪レベルである。同時に世界で最も女性の地位が低い地域と思われる。アフガニスタンとパキスタンの境界は曖昧だが、この部族地域はアフガニスタンがパキスタン国内にはみ出た場所とも言える。

 2000年代中頃からアフガニスタンから逆流してきた原理主義者が中心になって「パキスタン・タリバン運動」という組織が作られた。彼らはアフガニスタンのタリバンよりもさらに過激で、パキスタン国内でテロを繰り返した。イスラム色が強いパキスタンは原理主義が浸透しやすいお国柄であり、アメリカに協力する政府を快く思わない世論が背景にあった。マララさんを銃撃したのもパキスタン・タリバンである。

 こうして対テロ戦争はパキスタンに飛び火し、この国は複雑な戦争を戦うことになった。一方でアメリカに協力し、一方でタリバンに協力する。しかし、タリバンの一部とは戦争状態にあるという奇妙な状態だ。ビンラディンはパキスタン国内で発見されたが、これに関してもISIが匿っていたのではないかという疑惑が否定できない。2008年のムンバイ同時多発テロはパキスタンの支援によって行われたという根強い疑惑があり批判を受けた。これ以降、パキスタンは露骨なテロ事件を支援するのは控えている。

 アメリカとパキスタンの利害は全く噛み合っていなかった。アメリカにとってアフガニスタンの戦争は中東情勢の延長だった。同時に世界に民主主義を広める活動の一環でもあった。パキスタンにとってはタリバンの方が頼りになる存在だった。アメリカはいずれ撤退することが目に見えているし、現地の雰囲気を知っているパキスタンにとってはアメリカの試みがうまくいくとも思わなかった。それにアフガニスタンに民主勢力が根付いたとしても、政権がインドに協力する恐れは拭えなかった。パキスタンにとっての悪夢はアフガニスタンとインドに挟み撃ちにされることであり、何が何でもアフガニスタンを勢力圏に収める必要があった。パキスタンは対テロ戦争にもアメリカの中東再編計画にも全く興味はなく、インドとの勢力均衡のことしか考えていなかったのだ。

 2021年8月15日、カブールが陥落し、アフガニスタンは再びタリバンの地となった。一応はISIの勝利ということになる。実のところ、パキスタンがアフガニスタンを支配できるのかは分からない。アフガニスタンはいかなる外部勢力も撥ねつけてきたからだ。

 アフガニスタンの勢力は何度かインド亜大陸を征服してきたが、逆は一度も起きたことがない。植民地当局やパキスタンが部族地域を支配できないように、おそらくアフガニスタンはパキスタンの手に負える地域ではない。パキスタンとタリバン政権は何度か軍事衝突を起こしている。水面下でどのような協力が存在しているのかは知る由もないが、アフガニスタンがパキスタンの衛星国でないことは確かである。それでもタリバン政権が極端に孤立していれば、インドとアフガニスタンが組むという最悪のシナリオは避けられるので、とりあえずは良しということになるだろう。

パキスタンの先行きは不透明

 南アジアの勢力均衡は崩れている。インドは元からパキスタンより巨大だった上に三度の印パ戦争にも勝利している。国土の半分を失ったパキスタンはインドとの勢力均衡を取り戻すべく、アフガニスタンへの進出や核開発に邁進した。

 それでも印パの格差はどんどん開いている。パキスタンの方が人口増加率は高いはずだが、インドの方が経済成長率が高い。パキスタンは人口ばかりが増え、経済が深刻に低迷していることになる。これはかなりまずい状況だ。「アジアの奇跡」と呼ばれるように、アジアは目覚ましい経済成長を遂げたとされる。しかし、この「アジア」とは印パ国境よりも東の地域を指すようだ。インド・バングラデシュ・スリランカの経済成長率は高いが、パキスタンとアフガニスタンは悲惨なことになっている。

 パキスタンは紛争リスクがかなり高い国と言えるだろう。増加する若年人口と停滞する経済という組み合わせは最悪だ。しかも国民はイスラム主義に親和的のようだ。パキスタンのガバナンスの評価は世界的に低く、脆弱国家の一歩手前のような扱いである。長年の停滞を反映し、パキスタンの経済水準はユーラシアで三番目に低い。パキスタンより低いのは隣国アフガニスタンと内戦が長引くイエメンだけだ。パキスタンからアフガニスタンにかけての地域はユーラシア大陸の最貧地域と言える。

世界の乳児死亡率
パキスタンはユーラシアの中で最も劣悪なことがわかる。

 それでもパキスタンは容易に攻め滅ぼされることはない。パキスタンは核保有国だからだ。ただし、国際社会にとってこんな迷惑なものもない。パキスタンのような政情不安定な国に核兵器があるというのは本当に怖い。気まぐれに発射するかもしれないし、きちんと管理ができるのかという問題もある。アルカイダの支持者が乗っ取った軍艦に核が積まれていたという事件もある。

 これが核兵器の政治的切り札として強力なところなのだが、核兵器があると外敵から身を守れるばかりか、深刻な政情不安を招くような事態を懸念してもらえる。要するに、諸外国はパキスタンが崩壊して核兵器が流出する事態を恐れるので、必要以上に気を遣ってもらえるということである。そういう意味ではパキスタン国家の生き残りにおいて核兵器は需要な位置を占めていると言って良いだろう。

まとめ

 パキスタンの地政学的性質は脆弱だ。インドとアフガニスタンによってこの国は挟まれており、その隙間に膨大な人口が押し込められている。パキスタンの人口は世界第五位であり、まだまだ増加傾向だが、経済はむしろ深刻に停滞状況にある。アジアの国家が飛躍的成長を遂げる中でパキスタンは停滞しており、ユーラシア最貧国となりつつある。

 パキスタンは生まれつきインドに対して劣勢であり、三度の印パ戦争に敗北したことでますます差をつけられてしまった。パキスタンが巻き返しのために着手したのがソ連軍侵攻後の紛争状態に乗じたアフガニスタンへの影響力行使と核開発である。これらの策略を実行したのがパキスタン軍統合情報局、通称ISIである。

 こうした事情と表裏一体でパキスタンは慢性的に不安定な状態にある。パキスタンはタリバンをはじめとするテロ組織を支援したが、一部は自国に逆流してきてしまった。対テロ戦争の際は北西部で深刻な紛争状態になったが、なんとか国土の主要部分に拡大することは避けられた。しかし、今後のパキスタンが安定した状態でいられる保障はない。

 パキスタンの地政学的性質を厄介にしているのは核だ。これのお陰でパキスタンはウクライナがやられたようなインド軍の直接侵攻は避けられている。しかし、核兵器は内なる脅威にはそれほど役に立たない。パキスタン国家が内乱に見舞われた場合、国際社会は核兵器の動向を強く気にするだろう。テロリストに核が渡ったり、不要に核が使用されるリスクの大きい国でもある。核を持つ最貧国、これがパキスタンの実情なのである。

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