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高齢者と呼ばれたい

東京から東名高速を西へ行くバスに乗車するとき。
都心を離れて40分ぐらい過ぎたところで

「70歳代を高齢者と呼ばない都市 ××市」

と大書してある横断幕が張られた陸橋が前方に見えてくる。

旅心が一瞬曇る。

…余計なお世話。

バスが陸橋をくぐると、次の風景が苦い思いをすぐ洗い流してくれるから、まだ救いがある。

この市の住民でなくてよかった。

いつのころからだろう。
70歳、80歳…
年老いても労働を続ける人がことさらにもてはやされ、唯一正しい行いであるかのように喧伝され出したのは。

体力気力が十分にあり、人と関わることが生来お好きで、常に誰かと話していないとかえって心を病むような人、もしくは自分が磨いてきた技に絶対の自信を持ち、余人を以て代えがたい人が労働を続けることは否定しない。大いに結構である。

しかし、「高齢者」の定義を変えてまで”社会常識”化しようとする流れは歓迎しかねる。まして、役所に口出しされる筋合いではない。それは心が繊細な人、ひとりで静かに過ごすほうが性に合う人、様々なトラウマの痛みを抱えて生きてきた人たちに対する強権にもなりかねない。

この社会は「一億総…」が好きである。

一億総動員。
一億総懺悔。
一億総白痴。

昔の新聞雑誌をあたると、これらの言葉に行きあたる。
私が生きてきた時代は幸いにして「一億総…」が流行しなくてよかったと思っていたら

一億総活躍

と来たものだ。
何を今さら、活躍などしなくともよい。
学校や企業で不本意な人間関係を作らされ、あれがダメだそんなことでどうするだらしないと、人格軽蔑込みで散々烙印を押され続けてきた人間に、今さら何をどう活躍させようというのか。これ以上罵りたいのか。

この先は

一億総カード
一億総スマホ

になりかねない。あの兎もどきの下僕にならなければ生存権が剥奪される世の中が作られようとしている。

「一億総…」を次々流行らせた挙句、そう遠からず一億を割ることがほぼ確実というオチ。世の中、お上に都合のよい働き者だけではできていない。


この社会は「みんなで」がさらに好きである。
それはすさまじい力で、情に訴えかける。
油断していると、私もつい使ってしまう。

しかし、「良いみんな」と「悪いみんな」があることに、いかほどの人が気づいているだろうか。

「悪いみんな」は恫喝力を持つ。
違う思惑を持つ人の口を瞬く間に塞いでしまう、魔法の杖である。

あの市では「70歳代でも、みんな働いているんだから。」と、押しが強く外向的な市民が屈託ない笑顔で言える環境を目指しているのだろうか。


いじめ。
言語障害。
きょうだい児。
ハラスメント。
常にどこか痒い身体。
午後から夕方、少し眠らないと持たない脳。
コミュニケーション能力を恵んでくれなかった遺伝子。

それでも、相当に長い時間労働してきた。
周囲から見れば不十分のそしりを免れなくとも、大過なく人生の終盤までやって来た。

もうよいではないか。
生産性などなくて結構。
何一つ成せなくて、どこがいけないのか。

三日間、誰とも話さなくても大丈夫。
だからこのまま、ひっそり静かに過ごしたい。
「高齢」がその必要条件だと言うのならば、胸を張ろう。

「私は高齢者です。」

高齢者と呼ばれたい。


日の出公園(※)の鐘は薫衣草(ラベンダー)の香と聴き

美馬牛(びばうし)の雪は蒸気を光らせ看る

の境地を思い描きつつ、今日もまたnoteに駄文を綴る。

(※)上富良野町にある町営ラベンダー園




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