クソみたいな道徳の暫定的処分

○道徳がクソであること

どうしてこんなことになったのか。

人類は退廃にある。知性を欠いた野蛮な大衆感情が、政治闘争から帰結した抑圧的な規範が、死してなお彷徨う神の亡霊が、正義の名の下に苦痛を増大させている。

私はこの現状を受け入れるべきだろうか。価値は移ろいゆくものであることを認め、新時代の道徳、そのあり方を、黙して是認すべきだろうか。

もし、私が古い時代の道徳を理想化し、その復古を望む者ならば、時代遅れとの謗りを免れないかもしれない。現行の道徳は、現代に至るまでの長きに渡り、世界の変動に対応してきた実績を持つ。規範は存続した時間の長さに比例してその正統性も増加する、という保守主義のロジックが、現状をも正当化する。

ただ幸いなことに(そして不幸にも)、私は有史以来のあらゆる支配的な道徳がこんな感じのクソだっただろうと思っている。懐古すべき素晴らしき道徳情勢など、恐らく未だかつて存在したことがない。だからこそ、私は道徳の相対主義に屈することなく、全く新たな道徳を提案する権利を持つのである。

本稿で私は、現在一般的に採用されている道徳の批判を試みる。ふつう道徳は哲学の領分だが、以下に哲学的洞察は全く含まれない。なぜなら、ここで行われるのは、一般大衆が日常的に用いている道徳の記述、そしてその日常的な問題の指摘だからである。

一点注意されたいのは、私はひとびとの道徳を「道徳として」悪いと言いたいのであって、「道徳的に」悪いと言うのではない。「この道徳は道徳的に悪い」という主張は、あまりに自明な論点先取である(その手のカスみたいな道徳批判は数多く存在するのだが)。
道徳が「道徳として」クソであるという批判は、特定の道徳的立場を前提せずに行われる。「道徳」とは、社会的に強制される規範ないし規則である。このような最低限の合意だけを前提することで、現行の道徳を批判することができれば、「道徳として」の劣等性を示すことができるのである。

そうして、現行の道徳への批判が完了した暁には、幾分かマシな道徳の輪郭を提案したい。本文がその試みに成功しているかどうか、検分して頂ければ幸いである。

○道徳の現状

どうしてこんなにも人類の道徳は劣等なのか。問題は、道徳の決定形式内容それぞれに起因する。

決定形式とは、社会の中で道徳がいかにして決定されるか、という決定プロセスを指す。
対して内容とは、道徳体系に含まれるそれぞれの規則や規範(ルール)を指す。

詳しく見よう。

A.形式

1.素朴実在論

これまで道徳規範は、議論の余地なく実在し、「正常な大人」ならば必ず共有しているものとして認識されてきた。「常識」という言葉はまさにこれを表現している。
しかし、当然そんなものがあるはずもない。時間・空間的差異に対応して無数の異なる規範が存在することは周知の事実であり、「オトナ」のあり方もまた、無数に存在してきた。

こうした、道徳が人々の認識から離れた場所に確固たるものとして存在するという観念、ある種の素朴実在論的道徳観は、グローバル化と、それに伴う道徳的多様性への直面によって致命的な打撃を受ける…はずが、実際には信奉者の絶えることがない。それはなぜか。
普段、「常識」が何のために利用されているか思い出そう。喩えるならそれは「踏み絵」である。同じ絵を踏むことで共同体のアイデンティティを確認しあい、また踏まなかった逸脱者を排除することが、その専らの機能となる。
こう考えれば、一般大衆が根本的な道徳観の変化を許容できないことはストレートに説明できる。
「われわれ」は正当な「常識」を共有しており、かつその「われわれ」には自分が含まれている。この信念が崩れれば、自分はいつ共同体から異端者として排除されるか分からなくなるし、いままで排除してきた逸脱者が大手を振って道を歩くことにもなりかねない。あるいは、かれらが自分を排除する側に立つかもしれない。

こうした切迫感のために、大衆は「常識」から足を洗うことができない。実のところその危機感は、道徳を「常識」として扱うのをやめさえすれば、つまらぬ杞憂に終わるものなのではあるが。

2.感情の道徳

仮に、自らの道徳観と他人の道徳観の衝突に直面した者がいたとしよう。幸いにも、かれは二つの道徳規則を比較検討する機会に恵まれる。
ところがこのとき、一般大衆は合理的判断に基づいて判断を下すことをしない。二つのうちどちらが快いか、受け入れやすいか、自らの感情に伺いを立てるのである。
すなわち、かれらにとって道徳は、レストランでメニューを広げ、自分が食いたい物を選ぶことと何ら変わりない仕方で決定される。

なぜこんなことになるのか。事情は、上で見た道徳の素朴実在論と関係する。大衆の道徳観によれば、道徳は単一の確固たる実在である。とすると、それはどこに実在するのだろうか。驚くべき愚かさだが、かれらは自分(たち)の心の中に道徳が在ると思っている。いわば道徳の心理的素朴実在論である。
したがって、道徳判断は、自らの胸に手を当てることで可能である。これは善いことなのか、それとも悪いことなのか、はたまた、自分はカレーを食べたいのか、それとも食べたくないのか——概ね、その判断には時間を要さない。

このような判断の結果が人それぞれなのは、およそ当然のことである。ところが、大衆はそう思わない。「われわれ」と異なる道徳判断をする者は、心の中に道徳が実在していない、そう考える。そんな人間は精神的に劣等なのであり、共同体のメンバーに適さない。「悪人」というのが、そのように判断された者の蔑称である。

3.道徳をめぐる闘争

道徳は実在する。それも、自分(たち)の心に実在する。こうした見方を持った人々の道徳観が対立したとき、何が起こるか。
一般的に、道徳判断は議論が可能なものと見なされている。議論には正しさの基準が必要である。ところが道徳の基準は各人の感情でしかない。ゆえに、大衆が道徳について行う「議論」は、つまるところ単なる力比べ、権力闘争にしかならない。

ところで、上で見たように、誤った道徳観を持つ者は、精神的な異常者、「悪人」とされるのであった。したがってこの闘争は、己の精神的アイデンティティを賭けた全面的な闘争となる。ゆえに、生半可なことでは引き下がることはできず、敗北する定めにある哀れな少数派でさえ、ときに徹底抗戦を行うのである。

この闘争には、根本的な解決が存在しない。大衆感情という流動的で無秩序な運動がその趨勢を決するからである。問題は道徳の形式に根差す原理的なものであって、世界に存在する道徳観の数や内容が変化すれど、事情は同じなのである。

B.内容

現在まかり通っている大衆の道徳は、いくつかのパターンに類型化できる。

1.無節操な流動

一つめの類型は、時間とともに容易く移り変わるものである。
これの何が問題なのかと訝る者もあるはずだ。「価値観をアップデートしよう」という近頃の左派リベラルの要求は、まさしくこのような道徳内容のありかたを(少なくとも言葉の上では)是認するものだろう。
しかし、このように道徳を「モード(流行)」にしようと思うのは、端的な誤りである。流行り文句を暗唱することは道徳ではない。くわえて、モードを作り出すのは権力者ないし多数派であり、その生成の形式に合理性など微塵も在りはしない。

これが個人的な流行、つまり感情や衝動に基づくものであれば、なおさら明らかである。そこには直接的な傾向性、変化だけがあり、根本的に正当性を欠いている。根拠なき道徳は、つねに不当なのだ。

2.無思慮な一般規則

道徳規則は一般的なものでしかありえない。どうしてだろうか。まず、個別の道徳判断を想定してみよう。

(例)①「太郎は私に謝るべきである」

すると、あなたはその判断に理由を与えなければいけない。それでは理由も考えてみよう。

(例)②「太郎は私を中傷したからだ」

だが、本当にこれは理由になっているのだろうか。その問いに答えて、その根拠を示す必要がある。

(例)③「他人を中傷したときは謝らなければならない」

③からは固有名詞が失われ、一般化されていることが分かる。③という一般規則に個人名を代入して、②が①を導くことが正当化されるのである。これはほぼ全ての人々が無意識的に採用している正当化の規則である。

しかし、この一般化は慎重にせねばならない。残念ながら、普通の人々はその慎重さを全く欠いている。これが批判の主眼である。

たとえば次のような規則はどうか。「他人を傷つけてはならない」。
数秒考えれば、この規則が一般化できないことは明らかである(プロポーズを断ってはいけなくなるし、東大卒が学歴コンプの人間の前に居るのも禁止されるだろう)。
だのに大衆は、この数秒を怠るために、誤った一般規則を作り出してしまう※。不幸にも、多くの道徳規則はこの愚かさによって形成されているのである。

※「誤った」とは、その規則を主張する者が、そこから導かれる全ての帰結を受け入れられないであろうことを意味する。整合性が維持できない場合、矛盾する道徳規則が存在することになり、正当化に破れが生じるからである。

3.無意味な教条

最後に、劣等な道徳の代表たるものが、根拠なき教条である。宗教的信念や慣習、アイデンティティなどによって正当化される道徳=教条の全てが、無意味であるか、絶えず無意味化する可能性を秘めている。
このことは他の道徳規則についても同様だが、教条的な道徳は、それを改変すべき状況に置かれても、それに抵抗する傾向がある。教条とはフェチズムであり、合理性の外側で対象に執着するものだからである。

道徳規則は、それ自体として尊ばれる必要はない※。不合理なものと化した瞬間に改変される可能性を、常に持たねばならない。教条という道徳のあり方はそのような営みを不可能にし、ゆえに劣等なのである。

※個別の道徳規則については不要でも、道徳全体については必要かもしれない。というのは、道徳が存在するためには人々の道徳的行為が不可欠であり、ゆえに道徳的行為には動機が必要で、したがって道徳なるものそれ自体に価値が見出される必要がある、という論述が可能だからである。

◎総括

以上のように、既存の道徳は、万人が共有する実在の基準として見なされている。しかし実際には、各人の胸先三寸で好き放題に決定される情動でしかなく、そのうち何が「正しい」かは、ただ闘争の結果だけが明らかにする。

このような見方が妥当だとしよう。すると、その問題は明らかである。複数の道徳観が対立するや否や、われわれは不穏なゲームに駆り出される。まともな人間なら当然知っているはずの道徳を知らない異常者は一体誰か。多大なコストを費やした狂気の押し付け合いが始まり——勝者となるのは、常に多数派ないし強者なのである。

闘争が道徳になる。それで何が悪いのかとシニカルに開き直る向きもあるだろう。
繰り返しになるが、私はこのことが道徳的に悪いと言うつもりはない。代わりに、バカバカしいと言いたいのである。どうしてわれわれは、多数派——往々にしてそのへんのバカ——の胸先三寸に従って行為せねばならないのか。なんら合理性を担保されていない者(たち)に、なぜ口出しを許さねばならないのか。

そもそも、そのような道徳は、目的を見失っていると言わざるを得ない。
多数派を気持ちよくさせるためだ、という答えも、露悪的な割に現実的でない。なぜなら、その場限りの感情や執着によって決定されるルールが、その本人(たち)の幸福を増大させる手段とは限らないからである(そしておそらく、そうであったことはほとんど無いように思われる)。
仮に、ある時点ではそうだとしても、次の瞬間そうである保証はない。道徳をアイデンティティ化し、硬直的な教条と扱うことは、世界情勢の変化への柔軟性を失わせることに等しい。改変しようとすれば異常者の誹りを受ける、権威ある、しかし不合理な規則が残るばかりなのだ。
したがって、ここまで見たような道徳のあり方が孕む問題点は、広範な合理性の欠如である。

この批判は本当に当たっているだろうか。私がこれまで連呼してきた「合理性」なる概念に、その当否は左右されるだろう。
ただ、ここで合理性の概念を定式化する必要性はない。上に述べたような道徳のあり方は、「合理性」の一般的ないかなる理解に照らしても不合理だと思われるからである。
本稿で、既存の道徳の無秩序さに対置される「合理性」は、快楽の最大化に適うこととして理解されてもよいし、苦痛の最小化でもよいし、経済的利得の最大化のような非功利主義的な何某かでもよい。
いずれにせよ、道徳は、何らかの目的が設定されたうえで、それを目指すものである。道徳とは自然の事実ではなく、人為的な道具だからだ。そして、目的が何であれ、その追求に用いられるのは理性であって、感情ではない。

一点ことわっておくと、これは「人間は(合)理性に従う必要がある(だから理性的な規則である道徳に従え)」という主張ではない。我々が従うべき規範=道徳が存在することを初めから前提したうえで、どうせ存在してしまうならと、その改良を「提言」しているにすぎない。
こうした事情から、道徳それ自体やその正当性の根拠を問うような問題提起に対し、本論は全く無力となる。先に哲学ではないと述べたのは、そういうことである。

--------

結論として、これまでに見たような道徳の現状は、恣意的で不合理な規則を量産し、多数の根深い対立を形成し、無駄なコストを消費している。ゆえに既存の道徳は、その決定形式においても、内容においても、是正されるべきである。

○道徳の改良

・何をなすべきか?

道徳の改善にあたって、まず重要なのは形式である。私がここで(あまり自信のない)道徳内容を提示して見せるよりも、(相対的に自信のある)道徳形式を提示し、それに基づいて人々が理性的コミュニケーションを行うことで、漸進的に内容を模索するほうが、はるかに生産的だろう。私がいくら有能であったとしても、有力な道徳内容を全体的に確定させることは不可能である。
ゆえにここでは、道徳内容は既存のものを批判するに留めておこう。代わって、形式についての暫定的な解決策を示したい。

道徳の決定形式を改良にあたって、方針は2つある。
第一には、道徳の議論において、個人的な感情ないし衝動を扱わないことである。現在では(なぜか)道徳議論において感情を発露することが(致し方ないノイズではなく)積極的に肯定されており、そしてまた(なぜか)そのような情動が理性的な意見と並置され、議論の対象にされることが散見される。
仮に、議論のメンバーがこのような「意見」を発する者だけによって構成されていたら(悪夢のようだがありふれた光景だ)、かれらの議事進行は時間の無駄である。たった一つでも「意見」の違いがあれば、「議論」は最終的にいかなる成果も挙がらずに終わることだろう。
道徳から感情を排除することは、このような無駄を排除することである。さらに道徳を理性の所産とし、合理性と有用性を確保することでもある。道徳の合理性を担保したい立場から、これが一つ目の提案となる。

第二として、感情の発露に道徳性を見出さないことである※。現在盛んである「炎上」は言うに及ばず、日常的にも、誰かが感情を発露すること——たとえば泣くこと——に道徳的なニュアンスが与えられることは、全く珍しくない。泣くだけならまだよいが、問題は、道徳の名の下に不合理ないし有害な行為が正当化されうることである。善意によって被害が発生する事例は枚挙に暇がなく、善意によって加害を正当化しようとする者も数多い。
感情は単なる行為の傾向性でしかない。道徳感情が免罪符としての地位を得ていることは、明らかに不合理である。ゆえに、感情から道徳を除去することが要求されるのである。

※これは一見して前者と被るように思われるが、異なる。第一の主張は理性的であるべき場から情動的判断を追放せよという主張であり、第二は感情の空間から(理性的であるべき)道徳を引き剥がそうという主張である。

A.理性で満たすこと

道徳を理性的なものとするために、道徳は論証や議論が可能なものとして示される必要がある。そのような道徳は、以下のような事項と必要十分だと思われる。
なお、道徳判断とは個別の事例に対するもの(「太郎は××をしてはいけない」)を指し、道徳規則は一般的な規則(「××をしてはいけない」)を指している。

A-1.論証と議論の必要性

・個別の道徳判断および一般的な道徳規則は、文ないし文章によって表現され、論証によって正当化されねばならない。
・これに疑義が持ち込まれ、その解消を目指す場合、議論が行われねばならない。

A-1-1.道徳理論の構築

・道徳理論は、以下の内容を含まねばならない。
①公理※
②論証に必要な、他の非道徳的命題の提示(必要ではない場合がある)
③①②を用いた道徳規則の論証(おそらく複数)

※一番初めの大前提。他の命題による正当化を必要としない自明な命題、あるいは正当化不可能な価値についての命題。単複を問わないが、公理を受け入れない者は理論をも受け入れないため、理論の一般性の確保や独断論化のリスクに鑑みて、一つないし少数かつ最大公約数的なものがよい。

A-1-2.道徳規則の論証

・道徳規則の論証は、以下の内容を含まねばならない。
①自らが採用する道徳理論の提示
②論証に必要な、他の非道徳的命題の提示(必要ではない場合がある)
③①②を用いた論証

A-1-3.道徳判断の論証

・道徳判断の論証は、以下の内容を含まねばならない。
①判断対象となる事実の確認
②自らが採用する道徳規則の提示(およびその論証)
③①②を用いた論証

A-2.議論の条件

・道徳的な主張を行う者は、前提となる道徳理論を持っていなければならない(最低限、公理が定まっていればよいだろう)。
・道徳が心の内に実在するという立場や、宗教的信念などを採用せず、自らの道徳的立場の撤回可能性(可謬性)を認めなければならない。
・その他、思考能力や冷静さ、異見の尊重など、議論の遂行のために一般的に要請される条件が満たされなければならない。

B.感情との絶縁

感情から道徳を救うのは、道徳の改革ではなく、感情の改革に属する。ゆえに、一つには道徳感情を称揚する行為が廃止されるべきである。
例として、「炎上」に代表される私刑の正当化や、道徳が情操教育によって教示されていることが挙げられる。感情との腐れ縁を断つことは、こうした営みの排滅なしには実現しないだろう。

そしてまた、道徳判断は理性的な手続きののちに行われるべきもので、感情の発露とは異なることが周知(啓発)されねばならない。教育はその中核的役割を担いうるだろう。
このとき、人々が道徳に「駆られて」しまうことを防ぐのも重要な点である。すなわち、道徳は朝から晩まで感情的にコミットせねばならないのではなく、判断を理性的に「保留」したり、「諦め」たりすることも可能なものとして認識せよ、ということだ(これは前述の心理的素朴実在論を採る限り、ありえない選択肢だろう)。
言い換えれば、今の道徳は開かれすぎているのである道徳の実践にはある水準の知的能力が必要で、それを持たない者(および道徳を実践する意思のない者)は道徳から「閉め出される」べきなのだ。そこまで強制的にしないまでも、「非道徳」である選択肢は、常に保証されるべきである。さもなくば、「誰しもがやっている、だが何となくやっている」という、皆さんご存知のこの道徳情勢が成立してしまうのである。

このように述べると、強烈な選民主義に見えるかもしれない。ある意味では間違いなくそうなのだが、しかし、場合によっては道徳から排除される者たちを利することもあるように思われる。
見方を変えよう。私の主張は、道徳の内部に残る者たちからすれば、知的能力(または道徳の意思)に欠く「かれら」の排除に他ならない。しかし、道徳から閉め出される「かれら」の側からすれば、道徳からの解放という意味さえ持ちうるのではないか。
道徳へのコミットメントが必要でなくなれば、絶えず他者に試され、証し立てをする必要がなくなる。道徳は心に実在するもの(ことが明らかなわけ)ではないから、問題が起こった時に求められるのは、「道徳的な」振る舞いによる心の善性の証明ではなく、透徹した論証である。理論を構築する能力と、それに従って正当化を行う能力がない者、そして単にやる気のない者は、道徳にコミットするコストを節約することが許されるのだ。私はそちら側で生きることを望んでやまない。

○総括と釈明

本稿では、前段で現状の道徳に対する批判を行い、後段で暫定的な提言を述べた。
道徳とは社会契約がもたらした便利な道具である。ゆえに目的を定め、それに適するよう改造せねばならない。その作業を行うためには、現状の道徳は無秩序に過ぎる。これが私の道徳批判の主眼であった。
道徳を合目的化するには、無秩序な感情ではなく、理性によって支配しなければならない。ゆえに道徳は理論的な正当化を経ねばならず、また感情が道徳的な含意を持ってはならない。前段の問題意識を受けて、このように道徳が改変されるべきなのである。

以上の議論は受け入れられるだろうか。様々な批判がありうるだろう。
たとえば、些か理性主義に過ぎると思われるかもしれない。しかし、私はべつに理性の無謬を信じて道徳の理性化を説くわけではない。道徳は、現今のそれがクソであるのみならず、適切に改良されてもまあまあクソでしかありえないだろう。それは自他関係のクソさに依存するのだが、結局のところ理性はそれを打破することができない。とはいえ、クソさ加減の最小化を図るためには、最も一般的に正当であるところの論理、それを司る精神的器官であるところの理性に頼るほかにないのである。

道徳哲学的見地からは、些か微妙と評されることだろう。ここでは、道徳(というなぜだか従わねばならないらしいもの)が存在することは自明の前提としており、その正当性の根拠は宙吊りのままにされている。ゆえに道徳哲学的価値はない。ただ一点コメントしておくと、本稿は哲学的考究ではなく社会的利益の増大を意図しており、道徳それ自体の探究は必ずしも必要ではないと思われる。

「何となく正しいかもしれないけど自分は別にいいかな」と思っている読者には、他者に善人アピールをしなくてよいことの素晴らしさを強調しておきたい。これまで述べてきた道徳形式が実現すれば、あなたはもうどうでもいい相手に同情したふりをしなくてよいし、自分とは関係ない悲劇が起こるのを横目に目一杯人生をエンジョイしてよいのである。偽善からの自由、虚飾からの解放!なんという幸福だろう!

手は尽くした。それでもなお受け入れ難いという者に対して、私から提出できるものは今のところない。読みにくい長文を読破して頂いた感謝を述べるとともに、この言葉をもって結語に代えよう。

自分自身の理性を使う勇気を持て!
イマヌエル・カント
あるいは黙れ!
リバティ・プライム

この記事が参加している募集

熟成下書き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?