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銀河鉄道の夜行特別列車

宮沢賢治の熱心な信者でもないわたしだが、銀河鉄道の夜行特別列車に乗って宇宙の果てまで旅をしたい。
それが、少年の頃の夢だった。
そのためには、少なくとも宇宙飛行士の訓練を受けなければならないのだろうが、生来頑健な体躯ではなかったわたしには、予期されたように、見果てぬ夢となった。

科学技術の進展で、宇宙望遠鏡が宇宙の姿を垣間見せてくれる。
それは、わたしの想像を遥かに超えた世界だった。
それでも、いつか、夢は叶う。
一度は宇宙の果てに。
その夢は、存外、早く訪れるかも知れない。
塵となり、灰となり、一個の素粒子となり、宇宙の最果てにまで。
何だか寂しい気がしそうなものだが、そこには、もはや怖れるもののない、無限の救いが静かに佇んでいるかのようで、心が自ずと穏やかになる。
生が救いを安易に認めないものならば、その理(ことわり)はたやすく受け入れられもしよう。

遠くからカタコト、コトカタ、と夜行が通り過ぎて行く。
まるで田舎回りの音楽隊のように、楽し気な喧騒(から騒ぎ)を星月夜に撒き散らかしながら、透明な残像だけをいつしか置き去りのままにして。
静かな、そして、清らかな夜だ。

写真を撮るのが日々の務め、一番の趣味になっていた。
いつからか昔の名レンズと呼ばれるものを専ら使うようになっていた。
オールドレンズは、時間の記憶を深い沼の底に沈めていた。
光を捉える度に、その記憶は全く新しい光景を描き出した。
その光は、疑いようもなく、すべて、宇宙からやって来た過去であり、未来を可能なものにする輝き、力でもあった。
宇宙の果てを旅したものたち、その生きた軌跡なのだ。
わたしは、その残像、四十六億光年の光の奇跡をひたすら感受しているだけなのだ。
地球というこの宇宙の片隅に在って。

思えば、写真とは、生きられた時間(或いは、人生、その記憶)の残像、うたかたの夢の記録なのかも知れない。

#かなえたい夢

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