見出し画像

仙の道 27

第十一章・治(2)


礼司の父隆司は、戸枝と荒木の持ち掛けで、南阿蘇に新しい事業を起こそうとしていた。
実は戸枝はこの地に移って以来、自分の計画を実現しようとしていたのだ。南阿蘇周辺をくまなく探索し、目ぼしい物件を探し当てていた。物件とは…観光名所でもある水源地に近い古い大きな民家だった。築2百年近くも経とうかという古い民家を改修して、飲食店経営を目論んでいたのだ。
それは、戸枝自身の新天地での新しい人生の為、また礼司や春田一家の新たな出発の為でもあった。

「ねえ、どう思う?春田さんと先生はさ、なかなかいいんじゃないかって言ってくれてんだけどよ…」戸枝が皆の前に物件の写真や資料を広げて見せた。

「イサオさん、本当に進めてたんだねえ…ここまで具体的になってるなんて、俺全然知らなかったよ…」資料を目の当たりに礼司は驚きを隠せなかった。
「礼司くんはゼンさんとベッタリだったからさ、あんまり邪魔しても悪いと思ったからよ…奥さんには相談してたんだぜ」
「いや、俺もね、ここに来て戸枝さんから話聞いた時は、何だか狐に摘まれたような話だなって思ったんだけど…いろいろ見せられて、この辺りの事とか調べてみたら、こりゃあいけるかもしれないなって…これからここで暮らすんだったら仕事も見付けなきゃならないしな…いつまでも宮司さんや善蔵さんのお世話になってる訳にもいかないだろ?荒木とも話したんだけど、改築とか登記とかは俺が得意だし、仕入れや経理は佳奈が慣れてるし、厨房は葉月ちゃんにも手伝って貰えるしさ、必要なスタッフは全部揃ってるだろ?」そう言ったのは隆司だ。

「ほら、これ…」葉月が分厚い2冊のノートを卓上に出して広げた。
「何?これ…」
「お母さんのお料理のレシピよ。あたし、ここに来てからずっと忘れないようにノートにメモしてるの。凄いよ。毎日どんどん増えてくの。礼司くんのお母さんって…あたし、天才だと思う。ほら、ここ人数多いからさ、春江さんが毎日食材持ってきてくれるでしょ?お母さん、迷いがないのよね。いちいち考えてないの。目の前の材料見て、ちょっと味見したら、もうどんなメニューをどんな味付けで作るのか、ぱっと頭に浮かぶらしいのよ。そうでしょ?お母さん…」
「え?あたしは…普通に…みんなに美味しく食べて欲しいなって…それだけよ…お料理って、普通そうなんじゃないの?礼くんや佳奈には話したけど、あたし、自分には好き嫌いがないの。だからなのかしら…」
「ほらね、聞けば聞くほど変わってるの。普通はさ、自分が美味しいと思うものを人にも食べさせたいって感じでしょ?そうじゃないのよ、お母さんは…なんて言うか…もっともっと徹底的に奉仕なのよ。でね、正確なの。どっかで誰かに教わったようなもんじゃないの…」
神憑かみがかりなんだな…」荒木が呟いた。
「そう…神憑りなの。で、あたし、気が付いたの。ゼンさんが言ってたでしょ?ゼンさんのお母さんの味だって…」
「ああ、びっくりしてたよなあ。不思議な話だよな」そう言ったのは戸枝だ。
「そう…ゼンさんも礼司くんも、智龍でしょ?智龍を産んで育てる人だけが持つ特別な能力なんじゃないのかしら…って…」
「そうか…そうだとすれば、辻褄が合うな…春ちゃんは全然気が付かなかったのかよ?」荒木が隆司に訊いた。
「いやあ…随分料理が上手だなあとは思ったけど…一緒に暮らしてるとそれが当たり前になっちゃうからなあ…そう言えば、昌美と一緒になってからは、外食がそれほど旨いとは思った事がなかったかも知れないな…もっとも、ここ何年かずっと刑務所の飯だったから今は何食っても旨いけどさ…ついつい食い過ぎちゃって、体重もすっかり元に戻っちゃったよ。はは…」隆司はそう言って恥ずかしそうに腹を擦った。

「ねえ、そう言えば…お母さんの方はまた少し痩せてきちゃったんじゃない?」佳奈が真顔で切り出した。
「あ、俺もそう思う。酒やめて、折角元気そうになったのによ。ここんとこまた痩せてきたよな。俺もちょっと心配してたんだ。料理頑張り過ぎなんじゃないのかなあ…」戸枝も気にしていた様だった。

「あたし、お料理にお酒は使うけど、もう口にしてないわよ。でも…そうねえ…最近ちょっと疲れやすいかも知れない…でも、きっと、歳のせいよ。もう50だもん」
「まだ50前だろ、奥さん…そうだ、一度ゼンさんに診て貰ったらいいんじゃねえか?あれ?そう言えば…ゼンさんは?」
「ゼンさん、今日は上でずっと寝てるよ。疲れたって」葉月が応えた。
「僕、ちょっと呼んでみる…」礼司はそう言って善蔵に意識を飛ばしてみた…
『ゼンさん、ゼンさん?…寝てるの?…』
『…ん?…何だ?誰だ?…礼ちゃんかい?』善蔵の意識はいまだかつてない程力なく衰えていた…

『どうしたの、ゼンさん…何だか凄く力が弱いよ…どっか調子が悪いの?』
『いや…ただ…ちっと弱っちまっただけだ。歳だな。いよいよ俺にも寿命が来るんだろうぜ…まあ、今直ぐって訳じゃあねえけどな…まだちったあ力が残ってるからな。おっと、まだ誰にも言うんじゃねえぞ。あいつ等の訓練がちゃんと終わったら、俺から話すからよ』
『…はい…』
『それより、何だい?何か俺に用事があんだろ?』
『え、ええ…今皆で下にいるんだけど…最近ちょっとお母さんが痩せてきたって皆心配してるんだ。本人も疲れやすいって言ってるんで…ゼンさんにちょっと診て貰おうかと思って…俺、そういうの、まだ出来ないし…でも、ゼンさん具合悪いんだったら…』
『なんだよ…その位のことだったら、お易い御用だぜ。ちょっと待ってな、今降りてくからよ』
『いいんですか?…』
『ああ、大して力も使わねえからな。昌美さんにはいっつも旨いもん食わして貰ってるしよ』

善蔵は間もなく階下に降りてきた。確かに言われてみれば飯場にいた頃よりもどことなく老化が進んだ様にも見えた。

「お待たせしたな。どうしたい?昌美さんの具合が良くねえってかい?」
「ああ、奥さん、ここに連れてきた時より、ちょっと痩せちゃった感じだろ?奥さんは歳のせいだとか言っちゃってんだけどさ…ゼンさん、ちょっと診てやってくれよ」そう言ったのは戸枝だ。
「おう、いいぜ。じゃあよ、奥さん、ちょいと診させて貰うぜ」善蔵はそう言うと正美の前に座り、そっと手を取った。
「いいですかい?硬くならなくていいから、ゆっくり深呼吸して下さいよ。気持ちを静かにして…おいらがちょいと中に入えって調べてみるから…なあにちょいちょいってなもんです。心配するこたあありゃあせんぜ。何にもなきゃあすぐに終わります。まあ、血の病かなんかならここですぐ治せるからよ。じゃ、いきますぜ」善蔵が昌美に微笑みかける。

「はい…お願いします…」正美は大きく息を吸い、そっと目を閉じた。直後に昌美の身体がピクンと動いたのが分かった。

沈黙の時間が過ぎた…僅かに1、2分のことだった。

善蔵がゆっくりと目を開き、深い呼吸をして、昌美に優しく声を掛けた。
「奥さん、終わりましたぜ。もういいですよ」
「ゼンさん、どうだった?…お母さん、大丈夫?」待ち兼ねたように声を掛けたのは葉月だった。
「うーん…ちょいとこりゃ厄介かも知れねえ…」善蔵の表情は深刻そうだった。
「厄介って…どういう事なんだよ?大丈夫なんだろ?な」戸枝が不安そうに訊ねる。
「肝だな…臓腑によ、できもんができてんだ。それがよ、あっちこっちに飛び火しちまっててよ。痩せてきてんのはそのせいだ…」

全員が暫く声を失った…
「臓腑のできものって…それは…癌っていうことですか?」沈黙を破ったのは荒木だった。
「何とか…何とか、治療して頂くことは出来ませんか?…」隆司の声は震えていた。
「まあ…おいらも今はちっと力が衰えちまってるからなあ…すぐには、ちょっとな…でもよ、出来ねえことじゃあねえから、そんなに心配するこたあねえよ。昌美さんもあんまり心配しねえで、くれぐれも無理しねえようにして下さいよ。俺が言いてえのはよ、奥さんは結構な重病だってことだ」
「あの…僕が、僕が治す事は出来ないんですか?」礼司が恐る恐る訊いた。
「お前えの力なら充分だが、生憎お前えにゃ技がねえ。おいらだってよ、こういうことが出来るようになるにゃよ、医者のまねごとしながら何十年も掛かったんだぜ。俺達の力をよそ様の身体の中で使うにはよ、細けえ注意が必要なんだ。ちょいとした間違いで筋や臓腑を壊しちまうことだってあるからな。特に大きな力を使う時にゃ余程熟練してねえと無理だな」
「そうか…じゃ、どうすればいいんですか?」
「まずはよ、医者に連れてってやってくんな。そこである程度抑えられりゃあ、そっから先ゃ、ちったあいい手が見付けられっだろう」
「お母さん…そんなに…悪いんですか?…折角、みんな一緒に暮らせるようになったのに…」佳奈は目に涙を浮かべていた。

「いいかい?先ずは医者だ。ただし言っとくけどよ、たとえ医者から匙投げられても狼狽えるこたあねえぜ。なあに、手はいろいろあるってことだからよ。昌美さんも決して気落ちしちゃあいけませんぜ」
「はい。有り難う御座います。宜しくお願いします。ご免ね、みんな、心配掛けて…」当の昌美はいたって平静な様子だった。


2月も中旬に入った頃からだろうか、日本各地で小さな地震が多発し始めていた。九州でも桜島や阿蘇等、火山の活動が活発化し始め、マスコミは大地震勃発の前兆の可能性があると連日報道し続けていた。
それが黒龍の勢いと関連しているのだろうか…善蔵は佼龍たちにますます発破を掛け、訓練の仕上がりを急がせていた。

春田一家は宮司の中山夫妻の手配で市内の大学病院に昌美を連れて行った。
果たして検査の結果は善蔵の言う通り既に末期にまで進行した肝臓癌だった。癌細胞は周囲の臓器に浸潤しており、呼吸器官やリンパ節にまで転移があった。完治は不可能、余命は1年は望めないだろうという診断だったが、延命の為の抗癌治療は有効かも知れないと言われた。昌美は診断直後から取り敢ず抗癌治療の為短期入院することとなった。


日差しの暖かい午後、礼司は牧野の山道を散策していた。最近顔見知りになった逞しい野生のイノシシが礼司の姿を見付けて近付き、傍らを一緒に歩いていた。
『ちょいと話していいかい?』

礼司は思わずイノシシを見下ろした。イノシシは機嫌良さそうに礼司を見上げていた。いよいよ動物と会話が出来るようになったのかとさすがに驚いたが、声を掛けてきたのは善蔵だった。
『どうしたい?何かやってんのかい?』
『い、いえ…ただ散歩してるだけです。天気がいいから…』
『そうかい、そりゃ丁度良かった。少しよ、みんなにゃ内緒でお前えと話がしたかったんだよ』
『何ですか?お母さんのことですか?』
『まあ、それもあるんだけどよ。大事なのは俺とお前えのことだ』
『僕と、ゼンさんのことって?…』
『ああ…実はよ、おいらの力のことなんだけどな、思ったよりよ、ずっと衰えてきてんだ』
『え?そうなんですか?』
『ああ…イサオたち4人も頑張っててよ、ぼちぼち仕上がりそうな様子なんだけどな…俺がそれまでもつかどうかって、ちょいと瀬戸際って感じなんだよなあ…』
『ええっ!だって、俺たち、ゼンさんがいないとちゃんと出来ないよ…』
『そいつは違うぜ。礼ちゃんよ…ちゃんと出来ねえのはお前えたちじゃねえぞ。俺がいねえとちゃんと出来ねえのはお前えだけだよ。お前えが一人でちゃんと出来りゃあ、俺は必要ねえだろう?そうじゃねえかい?』
『たしかに…それはそうだけど…俺、初めてだから…』

『最初は、俺もこの仕事だけはお前えにきっちり付き添ってよ、一緒にやり遂げて貰おうって思ってたんだけどよ、まあ、侭ならねえのは世の中の常ってもんだ。お前えにゃもう概ねの事は教えてあるんだから、あとは1人で何とかして貰わねえとな。この期に及んで贅沢は言えねえや。良く考えてみりゃあ、智龍ってなあ、そういう役割だ』
『でも…上手くいかなかったら…』
『ま、そん時ゃそん時…それも運命ってことだ。次のことをいろいろ考えて、四苦八苦すんのがお前えの仕事なんだよ。な、五代さんよ』
『…はい…』
『そこでだ、今日そのことを御所さんに話しといたからよ、早速お前え明日から御所さんに付き合って貰ってよ、一人で出来るように練習するんだ。ただし、御所さんは忙しいからよ、付き合ってくれるのは毎朝7時から1時間だけだ。もっとものんびりやってる余裕もねえからな。佼龍の4人が仕上がったら直ぐに本番だ。大急ぎでやってくれるかい?』
『分かりました…やってみます…』

『さて、それと昌美さんのことだ。治療の様子はどうだい?』
『やっぱり…抗癌治療は結構辛いらしくて、ぐったりしてますけど…来週には治療が終わりますから、そしたら一度退院していいって医者は言ってました』
『そうかい…医者の治療の下地がありゃあ、こっちも無駄なく攻められるし、頃合いとしちゃあ丁度いいかもだな…とにかく戻ってきたら、俺が必ず何とかするからよ。お前えは心配しねえで智龍の仕事に集中してくれよ』
『あの…ゼンさんは、前にも癌の人を治した事があるんですか?』
『ああ…本当はよ、人助けはしても、人の生き死ににはあんまり手え出さねえようにしてきたんだ。きりがねえからよ。でもよ、龍族となると話は別だ。次の龍族を見付けるのも大変だしよ、大切にしねえとだからな。で、何人かは治した事がある。そん中でも一番骨が折れたのは…俺の連れ合いの時だ…』
『連れ合い…って、ゼンさん結婚してたんですか?』
『ああ…一度だけだけどな。手習い所の教え子でよ、佼龍だった』
『あっ…あの…小枝って人…』
『そうか…お前えには見て貰ってたんだったな…』善蔵は懐かしそうに続けた。

『あれは…丁度あいつが奥さん位の歳だったなあ。ここで一緒に暮らしてたんだけどよ。おいらが暫く旅に出てよ、戻ってみたら…すっかり様子が変わっちまっててな。元々元気のいい奴だったのに、痩せてやつれちまっててよ。で、診てみたら、あっちこっちの臓腑に腫れもんがあってな。そっからはよ、毎んち付き添ってよ、臓腑をぶっ壊さねえようにちっとっつ減らしてったんだ。なんたって、そこまでやったことはなかったからよ、いろいろ様子見ながら根気よく少しずつ…そりゃあお前え、骨の折れる仕事だったんだぜ』
『それで…小枝さんは助かったんですか?』
『ああ、あんにゃろう90過ぎまで生きやがった…最後はよ、もう皺くちゃの婆あになりやがってよ…おいらの事あまるで孫呼ぶみてえに呼び捨てにしやがって…まあ、世間体のこともあったんだろうなあ…最期の最期までいい佼龍でよ、いい嫁さんだったぜ…ま、そんな訳で、ああいう腫れもんの治し方はそん時に身に付けたんだ。それから何人かは治したことがある。まあ心配すんな。今度はもっと手際良くやるからよ』
『そういうのって、どうやってやるんですか?』
『お前え、人の心に入えったことがあるだろう?ほら、警察の署長さんを連れてきてくれたじゃねえか』
『はい』
『あれが入口だ。心と身体は繋がってるからよ。誰から教わるもんじゃねえ。自分のやり方でよ、少しずつ身に付けてくしかねえんだよ。特に今はよ、色んな事が切羽詰まってやがる。早えこと黒龍を抑えなきゃあならねえし、おいらにもあんまり時間が残ってねえ…今から、礼ちゃん、お前えがいっちょ前の智龍としておいらの跡を継ぐんだ。こっから先は俺の事あ充てにしねえで、自分一人で切り開いていかなきゃならねえ。良く肝に命じとけよ』
『はい…分かりました…』
足元のイノシシが、足を止めていた礼司の顔を不思議そうに見つめていた…

第28話につづく…

第一話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家でもあるカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?