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仙の道 22

第九章・雲(2)


善蔵は白装束を身に纏い、座敷でその時を待っていた。
元文げんぶん5年6月…肥後藩江戸家老屋敷…

善蔵にとってこの10年は、まるで悪夢のような年月だった。
10年前のあの日、面目を潰された杉井は、善蔵との果たし合いを申し入れてきた。
申し入れは国家老から幕府筋を通じて正式に行われた為、藩主も江戸家老の米田も差し止める事が出来なかった。果たして、杉井は敗れ、二度と再び太刀を持てない身体となってしまった。

藩中右に出る者なしと言われた剣豪を打ち破った神谷善藏の名は瞬く間に全国に轟いた。
その結果、善蔵は仕官を志す剣豪たちの標的となってしまった。次々に申し入れられる果たし合いから逃れる事は出来なかった。相手の殺意が強い時には、力の制御が及ばないことも多く、必死に襲いかかる相手は命を失うか、重篤な障害を抱えるという結果を招いていった。
時は8代将軍・吉宗の時代。武士の質実が奨励され、果たし合いや仇討ちが美徳とされていた。

特に善蔵を悩ませたのは、残された家族たちによる仇討ちである。
幼気いたいけな婦女子を相手にする度に、善蔵の心は荒んでいった…

善蔵の圧倒的な強さもまた問題だった。判官びいきを常とする人々の間に次第に善藏に対する悪評が立ち始めた。
幻術使いであるとか、魔神の化身であるとか、人と鬼との間に生まれた鬼人であるとか、何れも根も葉もない中傷にしか過ぎなかったが、風評は風評を呼び、いつしか善蔵は悪の権化として恐れられていた。この間に実の両親も相次いで病死し、今や藩の汚点でしかなくなってしまった善蔵は、自分の運命を呪い、何もかもが空しく思えるようになっていた。

そんな折、藩から善蔵に対して突然謹慎の命が下った。それは、善蔵が数々の勝負に当たって勝ちにこだわり、術を用いて正々堂々と剣を交えず、藩の名誉を著しく傷つけたという理由からだった。藩は不可思議な能力を持つ善蔵を抱え込んではみたものの、世論に押されその存在が重荷となっていたのだった。
とは言え、藩外に放置すれば、危険な存在になりかねない…藩の為、処分が必要と考えたのだろう…
果たして、謹慎中の善蔵に切腹の沙汰が下りた。
善蔵にとってはもうどうでもいい事だった。覚悟はとっくに出来ていた…


その時が訪れた…
白装束の善蔵が江戸家老米田是春の立会いのもと、庭先に設けられた布幕のもがりに通される…
白布が掛けられた畳の上に座す…
白飯・塩・味噌・白湯の膳が運ばれる…
善蔵は逆さ箸を摂り、それぞれに口をつける…
杯に酒が注がれ、それに2度口をつける…
膳が下げられ、替わりに切腹刀を乗せた三方が眼前に置かれる…
前に座る検視役が一言声を掛ける…
「では、御覚悟、宜しいか…」

善蔵の脇に控えたたすき掛けの男が深々と頭を下げ、「原玄武と申します。介錯つかまつります」と名乗った…
「宜しく、お頼み申します…」
善蔵は上下かみしもを背後に外し、刀を手に取ると三方を腰の下に差し入れる…
その間に介錯人は立ち上がり、介錯刀を水柄杓で清め、後方で八双に構えた…
善蔵は着物の前を割り、両手で切腹刀を腹部脇に当てると、思い切って全身の力を両腕に集めた…
しかし、その刃先は腹部の皮膚寸前でピタリと止まり、どんなに力を振り絞っても皮膚に到達する事はなかった…
頃合いを図っていた介錯人が善蔵の首目掛けて長刀を振り降ろした…
介錯刀は善蔵の首に到達する前に粉々に砕け散った…

「は…あは…あは…は、はははははははははは……」

呆然とする検視役や立会人たちに囲まれ、白座の上で善蔵は晴天の空を見上げて、いつまでも笑っていた…


強風が土埃を舞い上げる…
人々は前屈みに着物の裾を押さえて皆足早に通りを行き交っている…
通りには大小様々な構えの店が軒を並べている…品川宿…宝暦ほうれき10年4月…

『めしや』と書かれた小さな看板を下げた小降りの店から楊枝をくわえた小兵の痩せ浪人が悠々とした表情で縄のれんを潜り出てきた。
髷はぞんざいで、剃髪や生え際からの無性毛が目立つ。着古した着流しの上につぎの当たった見窄らしい羽織を羽織っている…
風貌はうらぶれてしまっていたが、その顔は、明らかに善蔵だった。
あれから20年もの年月が経っている…

もう50に手が届いている筈の善蔵だが、見たところ未だ20代の若侍にしか見えない…
善蔵が通りを歩き始めると、前から歩いてきた3人の侍が前に立ちはだかった。金糸を織り込んだ袴を履いた立派な身なりの大柄の侍が黒羽織姿の2人の侍を従えていた。

「おい、貴様…見たところ侍のようだが…差物はどうした?」男が善蔵を睨み下ろした。
「何だ?お前えさんは?いきなり貴様呼ばわりったあ、随分と礼儀知らずじゃあねえか。差しもんなんざあはなっから持ってねえよ。お前えみてえな阿呆と話してる暇はねえんだ。通してくんな」
その話し振りは、善蔵だ…今の善蔵と全く同じだ…

「無礼者っ!こちらは旗本岡村家の…」黒羽織姿の一人が口を挟みかけた。
「旗本だろうと何だろうと俺の知ったこっちゃねえよ。無礼者はそっちのこった。邪魔だ、そこ退けっ!」
「な…なんだとお…浪人の分際で…」黒羽織が思わず刀の柄に手を掛けた。
「何だお前え、こんな往来の真ん中で刀抜こうってかい?はは…こりゃとんだ凶状持ちだあ」
「まあ、待て。お主、余程腕に自信がおありのようだが、肝心の腰の刀はどうした?大方食い詰めて質にでも入れたか?丸腰で、武士として恥ずかしいとは思わんのかっ!」
「大きなお世話だ。何でえ武士武士って笠に着やがって…そこの飯屋の鰹節の方がよっぽど味があらあ。大方お前え等、こんな頃合いに宿じゅくのしてるなんざあ、その辺のくるわで女郎買いの帰りか何かなんじゃねえのか?偉そうにふんぞり返りやがって…往来で人にいちゃもん付けてる暇があったら屋敷に戻って本でも読んでろ。第一お前え等、腰に下げてるその刀、一体何に使うんだい?」
「き、貴様…何を言ってる…刀は武士の魂だ…」
「そんなもん魂なもんかよ。この辺じゃあヤクザもんでも持ってるぜ。何に使うか知ってるかい?先っぽに芋刺してよ焚き火にかざして焼くんだよ。尺が丁度いいんだ。どうだい?お前え等みてえに人斬り包丁に使うよりゃあ、よっぽど役に立つたあ思わねえかい?」
「ぶ、無礼な…もう勘弁ならん…その性根、叩き直してくれる…お主等峰打で構わんっ!懲らしめてやれっ!」

2人の黒羽織が待ちかねたように抜刀し善蔵に襲いかかった。その瞬間2人は中空から地面に叩きつけられた。2人とも利き腕をへし折られていた。

「どうしたい、旗本の小僧…懲らしめるんだったら自分でやらねえかい。危ねえ事あ手下にやらせてよ…それがお前さんの言う武士ってもんかよ…どうやら性根を叩き直さなきゃならねえのはお前えの方みてえだな…」善蔵は男ににじり寄った。

「し、失礼仕ったっ!」男はいきなり地面にひれ伏した。
「な、名のある御武芸者とは知らず、とんだ御無礼、申し訳御座らん!平に、平に御容赦の程…この通りで御座る…」
「何でえ…張り合いのねえ野郎だぜ。喧嘩あ売ったのはそっちじゃねえのか?へこへこ頭あ下げやがって…とっとと消えっちまえ。2度と宿に顔出すんじゃねえぞ」
「あ、あの…失礼とは存じますが、お見受けしたところ、御手元不如意ふにょいの御様子…どうぞ、これで…これで御勘弁の程を…」男は懐中から財布を出し善蔵の前に差し出した。
「落とし前かい?生憎銭にゃあ困ってねえんだ。おっとそうだ…そんなら折角だから一つお願いしてもいいかい?」
「何で御座いましょうか?」
「いや、俺のこの羽織よ。あちこち直しながら着てるんだけどよ、すっかりもう擦り切れやがって、すーすー寒くて仕様がねえんだよ。そこの御家中、俺と背丈があんまり変わんねえ様だから、そいつの羽織と取替えちゃあくれねえかい?」
「そ、そんな事でしたら…あの…拙者の羽織で宜しければ、その方が…」男は藤紫に染め上げられた絹地の羽織の袖をおずおずと示した。
「馬鹿言え、そんなちゃらちゃらしたもん着られるかよ。祭の田舎芝居じゃあるめえし…第一お前えとは背格好が違わあ。無理言って済まねえが、そいつのでいいからよ。どうだい?いいかい?」
「ど、どうぞ…お召し下さい…」指名された従者は痛そうに腕を庇いながら羽織を脱いで、善蔵に渡した。
「じゃあこれ…雑巾にでも直して使ってくんな」善蔵は着古した羽織を渡すと黒羽織に着替えた。
「こいつあいいや。おー、暖けえ暖けえ…有り難く使わせて貰うぜ」
「あ、あの…せめて、お名前だけでも、お聞かせ頂けませんでしょうか?」旗本家の男が訊ねた。
「名乗るにゃあ及ばねえよ。後々面倒な事が多いからよ。お前さんも名乗らねえ方がいいぜ。家名とやらに傷がつくってもんだろう?」善蔵はそう言い残すと、上機嫌でその場から去ってゆく…

「いよっ!ゼンさんっ!格好いいぜえっ!」いつの間にか周囲を取り囲んでいた大勢の弥次馬たちの中から善蔵の背中に声が掛けられた。
「あいよっ!」善蔵はそれに応えてかるく後手を挙げた。


品川…東海寺…

境内から子供たちの元気な声が聞こえる…本堂脇の上がり口には沢山の小さな草履が脱ぎ散らかされている…
やがて、20名ほどの着物姿の子供たちが手に手に布包みを持ち、元気に飛び出してきた…その後から何人かの子供たちに纏わりつかれながら外に出て来たのは、着流しに黒羽織姿の善蔵だ…

「おいおい…ほら…草履ぐれえ履かせてくれよ…」
「ゼンさん、ゼンさん。一緒に帰るんだろう?一緒に帰ろうよお」
「悪いな、まだ和尚様とちょいと話があんだ。先に長屋に帰ってな。あとで遊んでやるからよ」
「絶対だよ。竹とんぼ作ってくれるって約束したんだからね。*バイの回し方も教えておくれよ」
「はは…分かった分かった。いいから先に帰えんな」
「ゼンさん…あたしね、読み書きだけじゃなくて…あの…算術も教わりたいんだけど…」
「ほう…小枝さえちゃんが覚えてえんなら構わねえぜ」
「本当っ?あたしねっ、あたし…商売が上手くなりたいんだ。うんとお金儲けたいんだあ」
「そうかい…じゃ、和尚様に頼んで適当な往来物おうらいもの探しといてやるよ」
「ねえゼンさん、今度さ俺に剣術教えておくれよう」
「剣術?そんなもんお前えには必要ねえだろう?第一、俺あ剣術は苦手なんだ」
「嘘だあ、おっ父が言ってたぜ。昨日刀持った侍2人をゼンさんがぶん投げたって…小間物屋のウメちゃん勾引かどわかされそうになった時だって、何人もいる浪人を1人でやっつけたって…ねえ、ゼンさん剣術じゃないんなら何でそんなに強いんだよお。おいらにも教えておくれよお」
「なんだ虎坊、お前えそんなに強くなりてえのか?」
「そりゃあそうだよ。俺、喧嘩に負けたくないんだもん」
「そうかあ…絶対に喧嘩に負けねえ方法が1つだけあるぜ。教えて欲しいかい?」
「本当?教えておくれよっ!」
「それはよ、はなから喧嘩しねえこった」
「何だいっ!そんなのねえや、けちっ!ゼンさんなんかにゃもう頼まねえやい。一人で強くなってやらあ!」
「ああ、そうしろそうしろ。せいぜい頑張るこったな、ははは…」
「ゼンさん、有り難う御座いましたっ!」「また明日宜しくお願いしますっ」
「おう、みんな気い付けて帰えんだぞ。遊んでばっかりいねえで、ちゃあんと親あ手伝うんだぜ」
「はーい…」

善蔵は寺の石段の上から眩しそうに目を細めて子供たちを見送っていた…
「しかし、大した人気者じゃのう…善蔵さんは…」背後から善蔵に声を掛けたのはこの寺の住職、久道きゅうどうだ。


善蔵と久道との出会いは20年前の事だった。
将軍家所縁ゆかりのこの寺に久道が住職として赴任した直後の事、ある夏の日、石段の下からずっと寺を見上げている若侍がいた。身なりからして、何れか身分のある藩士のようだったが、無精髭を生やし垢と汗と埃にまみれた姿は、何日も放浪していた様子だった。荷物らしいものは何も持っていないので、旅の途中とは思えなかった。

何か特別な事情を感じた久道は侍に近付きそっと声を掛けた。
「先程からずっとこの寺を見上げておられるが、何か御用向きがおありかな?」

侍は視線を寺からゆっくりと久道に移すと、小さな声で呟いた。
「御坊様…私は…如何にすれば…死ねるのでしょうか?…」
その時、久道の心の奥に小さな灯明の様なものが灯った…それが何なのかは分からなかったが、自分とこの侍が目に見えない太い絆で結ばれていることは明らかだった。

「よくここにおいでなさった。さぞかし御苦労された御様子…どうやら儂はその答えを見出して差し上げねばならないようじゃ…さ、とにかく、まずはお上がり下され。身を清め…話はそれからじゃ」

善蔵がこれまでの身の上全てを久道に話すと、久道は暫く思案を巡らせ、こう言った。
「何とも不思議なお身の上じゃ。お主が死ねぬのなら、それは死ぬべきではないのじゃろう。お主は死なずにここに来た…そして、儂と会った…そうすべきだったのじゃろうて…お主のその不思議な力には、きっと理由があるはずじゃ。為すべき時に為すべき事を為す為の力だとは思わんか?儂にはそう見えるがな。まずはここに居て、心を平らにすることが肝要じゃ。御自分の心の内をよく眺め、なさりたい事をなさりたいようになされませ。無理に開かずとも、道は自然に開くものじゃ…」

こうして善蔵は暫くの間この寺に身を預ける事となった。最初の数年は寺の下働きをしながら座禅と読書に明け暮れたが、やがて町に出て人々の中で暮らしたいと申し出た。

久道が町の顔役と相談し、元肥後藩、浪士・神谷善蔵として品川宿の人別帳に名が登録され、宿場南の長屋に居を構える事となった。

ささやかな生活だった。学問を身に付けていた善蔵にはいくらでも糧となる仕事があった。長屋界隈に暮らす人々の相談役となり、町役人への手続きや療養所との手繋がりとなる病人の診療、手紙の代筆、もめ事の仲裁など、貧しい人々の中で甲斐甲斐しく働き続けた。
いつしか長屋の世話役『ゼンさん』として、誰からも親しまれる存在となっていった。

10年ほど前には長屋の住人から依頼され、無料で子供たちに読み書きを教え始めると、周辺の親たちに評判が広がり、瞬く間に生徒が増え、今では久道から寺の本堂や集会所を借り、にわか手習い所の主催者となっている。善蔵は今や庶民の中にいて、庶民と供に日々人生を満喫している。もう二度とあの忌まわしい侍の生活に戻りたいとは思わなかった。

第23話につづく...

第1話から読む...

* 『バイの回し方』:バイ貝(正確にはダンベイキサゴ)を回すコマ遊び。ベーゴマ遊びの原型と言われている。


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家でもあるカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





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