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仙の道 21

第九章・雲(1)


話は少し前に遡る。それは善藏たちが成和会の事務所に乗り込み、浅川組と手打ちさせた数日後の夜の話、ほんの1週間前のことだ。

夕食後、食堂で戸枝たちと談笑していた礼司に善蔵が声を掛けた。
「おい礼ちゃん、ちょいと一緒に部屋に来てくれねえか?」
「え?いいですけど…何ですか?」
「ちょいとよ、大事な話だ。先生とイサオ、悪いけどよ、暫くおいら達2人だけにしといてくれねえかな?なあに、ほんの小一時間でいいんだ」
「別に、いいけど…何かあるの?」戸枝が怪訝そうに訊ねた。
「ま、一寸よ…儀式みてえなもんだ。悪いな…じゃ、礼ちゃん、行くぜ」
「あ、はい…」


善蔵は部屋に入るといつものように窓際の畳に座り、目の前を指差した。
「礼ちゃん、まあそこに座んな…」礼司が従うと続けた。
「お前さん、自分が何もんなのか知りてえって言ってたよな?」
「あ、はい…でもそれは…もう少し落ち着いたらって…」
「ま、連中もおたおたしてるようだし、少しゃあまだ間があるようだからよ、早い内に引き継ぎだけでもやっておこうと思ってな。気持ちの整理だけでもつけといて貰わねえとだからよ…」
「じゃあ、教えて貰えるんですか?…」
「いや、ちっと観て貰うだけだ。俺とお前さんはおんなじ役割だ。俺が何もんなのか観て貰えば大体の事は分かるだろう?」
「…はい…」
「じゃあ、そこに横になってくれねえかな?」
「え?あ、はい…」

善蔵は畳の上に礼司を仰向けに寝かせると、すぐその脇に座った。

「目を閉じて、楽にしてていいぜ。始めるからよ…」
そう言うと善蔵はその場で瞑想状態に入ったようだった…
突然礼司は頭からつま先まで身体が加熱してゆく感覚を覚えた…
「楽にしてていいぜ…楽に…」その善蔵の呟きが最後の現実の知覚だった…


礼司は深淵な暗闇の中に身を沈めていった…それはこれまで経験した事のない不思議な感覚だった。一切の重力を感じられず、自分が上を向いているのか下を向いているのかも分からなかった…

やがて、目の前に物凄い早さで映像が流れ始めた…その流れの早さに自分が次第に同調してゆくのが分かった…
流れと完全に同調すると、それは単なる映像ではなく現実の空間であることが分かる…


礼司は古い木造家屋の中にいた。
狭い縁側とほんの小さな庭を臨む簡素な座敷に和装の女性が座っている。女性は日本髪を結っている。女性の目の前にはまだ4、5歳の小さな男の子が正座し真剣な眼差しで女性を見上げている。子供もやはり和装だ。時代劇で見るような茶小坊主に頭を刈られている。

ここは…古い時代だ…目の当たりの情景を補足する様々な情報が脳裏に飛び込んでくる…
江戸…白金…肥後藩下屋敷内…徒士かち組頭・井坂善兵衛宅…享保きょうほう元年10月…

礼司が2人のすぐ傍まで近付いても、2人には礼司の姿は全く見えていない様だった。

「善蔵、お前は今日を限りにこの家の者ではなくなる。分かっていますね」
「…はい…父上から伺っています…」男の子が力なく小さな声で答える。

善蔵と同じ名で呼ばれる男子…どうやら、善蔵の祖先のようだ…その幼い顔には善蔵の面影が宿っている…

「お前は…神様から授かったその不思議な力を、必ず藩のお役に立てられるようにならなければなりません。明日から神谷様の御養子となります。江戸家老御用人、上士じょうし様のお屋敷に上がるのですから、今までのような不作法はいけませんよ。上屋敷はこことは別の世界です。周りの方々の言う事をよく聞いて、行儀良くしなければなりませんよ」
「…はい…お行儀良く…致します…」
「明日からお前は、井坂善蔵ではなく神谷善蔵となります。神谷家は私供とは大きく身分が異なります。これからは我が家との往き来も出来なくなるでしょう。よいですか?明日からはお前はもう、この井坂家とは縁の無い者となるのです。これまでの事は全てお忘れなさい。ただ…ただ、私がお前の母であった事だけは、どうか、どうか決して忘れないでおくれ…」母親は毅然とした表情をかろうじて保ち続けていた。
「…母様かあさま……」男の子は溢れる涙を必死で堪えながら、膝の上で両拳を握りしめた。


「おい、小姓!俺達の荷物持たせてやるぜ!」髪を結い上げ、袴姿の子供たちが、自分たちよりも一回り小さな子供を取り囲み、自分たちの風呂敷包みを抱えさせている。抱え切れない包みは容赦なく首や肩に縛り付けられててゆく…

上屋敷内…藩学問所前…享保5年6月…

かず…いいのかい?善蔵はお前の弟だろう?」
「構うもんかい。こんな奴、弟でも何でもないよ。父上だって母上だってうんざりしてるんだ。何だ善蔵…何か文句でもあるのかっ?」神谷家嫡男・和英かずひで

「…いえ…ありません…」10歳ほどに成長した善蔵が、頭を下げる…
どうやら、養子先では冷遇されているようだ…

「どうせこいつの親父が御家老様を上手く言いくるめたか何かしたのさ、きっと…仕方なく置いてやってる下人みたいなもんだ。小姓にしてやるんだってもったいねえや。下賎の出なんだよ…此奴は…俺の家を汚しに来たんだ。どうせ母親だって何かしたんだろう?御家老様に…色仕掛けでもしたに決まってるさ…」あまりの暴言に子供たちは大いに賑わった。

子供って残酷なんだなあ…どの時代でも…しかし、礼司には見守る事しか出来なかった。

「母様のことを…悪く言うな…」善蔵が呟いた…
「何だとっ!お前、誰に口利いてるんだ?」
初めて耳にする善蔵の反抗…しかも学友たちの面前で…和英の表情は見る見る怒りに満ちていった…
「母様のことを…悪く言うな…」善蔵が再び繰り返した。義兄を睨みつけていた。

「和、幾ら何でも言い過ぎなんだよ…」友人の1人が窘めたが、和英の怒りは収まらなかった。

「そんな口を叩いたら、どうなるか思い知らせてやる…」和英が善蔵ににじり寄った。
「兄上…私に…手を上げてはいけない…父上から言われているのを忘れたんですか?」善蔵は脅えるどころか、恐ろしく冷徹な表情で真っ向から対峙した。
その態度に義兄はますます怒りをつのらせた。

「和…もうやめておきなよ…」他の友人も止めに入ろうとしたが無駄だった。
「この下郎っ!無礼を許すと思うかっ!」和英が拳を義弟の顔面に振り降ろした。
ゴゴッ…鈍い不思議な音が響いた。「あっがああーっ」振り降ろされた右腕は奇妙な形に数ヶ所が折れ曲がり、義兄はあまりの痛さに地面を転げ回っていた。

善蔵は何かを吹っ切った様に今まで周囲には見せた事のない落ち着いた表情で全ての荷物を地面に置き、悶え続ける義兄に近付いた…
「兄上…だから手を上げてはいけないと言われていたでしょう?神谷家を汚しているのは、兄上、貴方ですよ。もう…貴方にはうんざりだ…」
善蔵が恐怖に脅える和英の額に指を触れると、ぴたりと騒ぎが収まった。
和英は大人しく呆けたようにその場に座り込み、空ろな目つきで不可思議な笑みを浮かべていた。
「ぜ…善蔵…和に、な、何をしたんだ?…」
「壊しました。兄上はもう二度と正気には戻りません…」

学友たちは大慌てで地面に置かれたそれぞれの包みを掴むと、その場から逃げるように立ち去っていった。


大きな屋敷の奥の間で初老の男がまだ10を過ぎたばかりの少年と真剣に向かい合っていた。
「うーむ…やおいかんな…こら、どがんしたらよかもねろ…」肥後藩江戸家老・米田こめだ是春これはる…知恵を絞っている様子だ…

「御家老様…私にはもう無理です。身分など、家柄など…私は欲しくはありません。私は、どんなに侮辱されても構いません。でも…母様を侮辱する者は、誰であろうと絶対に許せません…藩の為にお役に立てと仰るのであれば、何でも仰せの通りに致しますので、どうか、どうか私を井坂の家にお帰し下さい。どうか、どうか、お聞き届け下さい。お願い申し上げますっ!」善蔵は畳に額を擦り付け訴えた。

「ふーむ…儂が神谷んごた、凡人に預けたつがまちごうとったばい。ばってん…よかか?主が藩の為ん働くっちゅう為にゃ、やっぱそんなりの家柄ば用意せんといかんけん。こらあ、殿からのお達しだけんな。まあ…よか。さしより主ゃ暫く儂が預かるけん。元服まではここにおるとよか」

こうして善蔵は江戸家老直々の預りとなる…一方神谷一家は役目不行き届きの責めを負い、謹慎の上国元での隠居を命ぜられる…善蔵は嫡男和英に代わり神谷家江戸詰の禄・役職全てを受け継ぐ事となり、下屋敷、徒士組頭邸に暮らす井坂家との往き来も許されるようになった…


肥後藩上屋敷内、肥後新陰流道場…享保15年8月…

礼司は大人に成長した善蔵の容貌を見て仰天した…
善蔵は…善蔵の祖先ではなく…善蔵そのものだった…背格好といい、顔立ちといい、善蔵をそのまま20歳の青年に若返らせたとしか見えない。
この時代に既に善蔵は生まれていたということなのだろうか…

「ぬしたちゃ、もちっと腹に力ば入れんかいっ!」
新任の若い師範代は木刀を手に大きな身体を誇示するように肩をいからせ檄を飛ばす…

この4月に国元から江戸藩邸内の藩校に派遣された剣術師範代・杉井隆之進は、まさに血気盛んな剣豪だった。
国家老職松井家の縁戚の次男ということもあり、幼い頃から師範に目を掛けられ指導されたが、剣術の才能に秀で、今や国元では右に出る者はいないと噂されている。
しかし、その人格に関してはあまり良い評判は聞かない。嫡男として生を受けなかった運命を自分の腕一本で切り開いたという自負心にしがみついていた。
彼の価値観は『強』と『弱』でしかない。武士とは、弱者を束ねる力を持つ強者であらねばならないというのが彼の確固たる持論である。

それに引き換え、前任の剣術師範代は人格者だった。これからの世の中、武士は剣術に頼るべきではないと教えられた。心技を重んじ、剣術は人格を鍛える為にあり、強くなる事に固執するなと言われ続けた。善蔵のことも米田から聞き及んでいて、剣術から人を傷つけぬ方法を見出す事に努めることを勧めた。

善蔵には本来剣術は必要なかった。打ち込みは相手に届かぬように形だけのものに留め、かわす必要のない攻撃を身をかわしながら受け、払っているように見せる技術だけを身に付けた。
善蔵との組み手では、誰一人勝負を決する者はいなかった。
ここでは善蔵は強くもなく弱くもない自分を演出していた。新任の師範代杉井は前任の師範代と同じく、江戸家老の米田からは善蔵が特殊な人物であることは聞かされてはいたが、彼にはそれは受け入れ難いことだった。

道場に通う門弟の若い藩士たちは、杉井を恐れていた。稽古初日から怪我人が続出した。特に剣術を不得手とするひ弱な者に対しては、杉井は容赦なかった。それは、稽古に名を借りた苛めでしかなく、誰の目にも杉井自身の力を誇示する為だけのものに見えた。
杉井が師範代に就いて、既に4ヶ月が過ぎていた。身体は勿論のこと、友人たちの中にはいよいよ精神を病む者まで出始めていた。若い善蔵の心の中にも、押さえ切れない怒りが芽生え始めていた…それは、杉井にとっても同じだったのかも知れない…

「こらあっ!神谷あっ!わりゃあ、なして目いっぴゃ打ち込まんとかあっ!そがんぬるか剣捌きで、相手ば倒すこつが出来っと思っとっとかあっ!」遂に杉井の罵声が善蔵に向けられた。善蔵はいつになく反抗的な目で相手を睨み返した。
「私は…人を倒したいとは思いませんので…」
「主ゃ…何ばゆうとるか…人ば倒せんで、何の為の剣術じゃあ…よか、儂がきっちり稽古つけちゃる…他んもんは、脇に下っちょれ……」
「杉井様、あの…どうかお許し頂けませんか…あの…神谷は、その…少しばかり特別な事情が御座いまして…どうか…」門下生の1人が慌てて仲裁に入った。
「なんが特別じゃ…いらん口ば挟むなあっ!」門下生はいきなり向こう脛を木刀で払われ、床板に倒れ込みながら「ご、御無礼致しました…」と道場の隅に転がるように退避した。
道場の中心に残された小兵の善蔵は、杉井の肩口ほどの背丈しかなかった…

「主ゃあ米田様からちいと目えば掛けられとると思て、よか気になっとっとだろうがっ!おお?」
「何を仰ってるんですか?いい気になってらっしゃるのは、杉井様、貴方の方ですよ。貴方のやっていることは剣術なんかじゃない。ただ人を傷つけているだけじゃないですか。少し位剣の腕が立つことが、そんなに偉いんですか?言っておきますが…貴方に私は倒せませんよ」
「おんしゃ…許っさん…もうよかけん…とっとと構えんか…」
「貴方1人を相手に…こんなものは必要ありませんよ。さあ、私を倒して御覧なさい」善蔵はそう言って手に持った木刀を床に放り投げた。

「ぬしゃあっ!」杉井は素早く足を運び、善蔵の肩口に木刀を振り降ろした。善蔵は全く身動きしなかったにも関わらず、木刀は杉井の手から弾きとばされてしまった。杉井はすぐに木刀を拾い上げると、再び善蔵に打ちかかる…善蔵はその場から一歩も動かなかったが、杉井の木刀は幾度試みても身体をかすることすら出来なかった。業を煮やした杉井は身体ごと体当たりを仕掛けたが、弾きとばされたのは杉井の方だった。誰の目にも勝敗は明らかだった…

第22話につづく…

第1話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家でもあるカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。

カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com





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