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三十八歳月曜日。今日も本が読めない

 二〇二四年五月六日月曜日。くもはばき、三十八歳になりました。
 つい先日まで「ああ、誕生日が来たらもう三十九か……」と自分の年齢を勘違いしていたのでこれは嬉しい誤算。あと一年猶予があるぞ。(なんの猶予だ)

 さてこのマガジンであるが、毎週月曜日につれづれなるまま書きたいことを書いていくものにしていこうと思う。日記ではない。なぜなら毎日特に何も起こらないからだ。
 朝は八時前に起きて、ソシャゲのデイリーをこなし、あとは一日ぼーっとして寝たり起きたりしている。余力があれば本を読むこともあるが、その余力はないことが多い。
 双極性障害(昔でいう躁うつ病)のうつ状態で無職の人間が過ごす日々など大体こんなもんであろう。むしろこれでも調子の良い方である。本当に調子が悪い時などは泣きながら「いのちの電話」が繋がるのを待っていたり精神科の閉鎖病棟に入院していたりする。
 ちなみに「いのちの電話」は全然繋がらないのだが、東京都にあるセンターの場合二十四時間あたり概ね四十三件ほど入電があるようだ。一時間あたり取れて二件ほどらしい。そりゃ繋がらんわ。

 閑話休題。(なお、この文章を書けている時点で今の私の精神状態は比較的安定していると言えるのでご安心いただきたい)
 とにかく毎日特に何もないので、日にちに関係なく気になったことや印象に残ったことを書いていこうと思う。

 さて、今週であるが、先にも述べた「本が読めない」ことについて。
 私は文章を書くことを一応の生業としているわりにはもともとあまり本を読む性質ではなかった。なんなら読むよりも書く方が楽なことさえある。
 なので自分の読書量の少なさが長らくコンプレックスであったのだが、ここのところ輪をかけて本を読めずにいる。読めずにいるからますますコンプレックスが膨れ上がる。そして読書が「楽しいもの」と認識できなくなる。
 これはうつ症状による読解力や集中力の低下もあるのだろうが、そもそも本に手を伸ばすことにすら恐怖心ないしルサンチマンを覚えている現状の方が大きいような気がする。世の中にはこんなにも豊かな本に溢れていて、なおかつ自分も作家の端くれだというのに、そこから脱落しようとしている我が身。

 その昔。といってもそう昔でもないが、数年前までの私は小説を書くことについて「書かずにいられない執着こそが才能である」という考えに取り憑かれていた。だってなんかかっこいいし、自分には才能があると思いたいし。そして現に「書かずにはいられない執着」ひとつで駆け抜けていた頃もあった。
 しかしまあそれも一つの書くことに対する解答ではあろうと思うが、その「書かずにはいられない執着」が風前の灯となった今、それは私の抱えるルサンチマンの元凶になっているように思う。才能だけならまだしも、情熱すらないことを自分に認めるのはなかなかどうして苦痛である。デビューはしたが、爪痕を残すことなく消えてゆくのか。

 そこで最近は「小説を書いたり読んだりすること以外にも幸せはある」と努めて思うようにしている。夫もいるし、今は無職だが何か人の役に立つ仕事をすることもいいだろう。旅行だって楽しいし、たまにはお酒を飲みにいくのだっていい。大事なのは作家であることよりも私が幸せであることだ。小説を書くことや読むことが苦痛なのであればそれは全くもって人生から排除して構わぬものであるはずだ。

 しかし、そうして本や読書から遠く離れたところに身を置いて精神の自立を果たすことができれば、またそれらの行為と程よい距離感で付き合うことができるかもしれない。それに、もしかすると今患っている精神病が快癒すればまた執着と情熱を持って読書や執筆に取り組むことを楽しめるかもしれない。そうあればいいと思う。いや思うんかい。読み書きしたいんかい。

 そう。結局まだ私は、書くことや読むことを手放せずにいる。手放せた方がよほど楽だろうに、馬鹿なやつだ。

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