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夢を叶えると決めるまで。オックスフォード大学への留学と「書く」ことへの想い


こんにちは。
書道家・現代アーティストの夏目珠翠(しゅすい)です。

ずっとやりたかったこと、
出来ないと思ってあきらめていた夢のひとつを、
実現すると決めるまでのこと
を、ここに書いておこうと思います。

『本当はやりたいことがある』

でも、

『責任感に縛られて』

『日常の忙しさに忙殺されて』

『自分を出すことが怖くて』

『踏み出す勇気が出せなくて』

『生き辛さを感じているけれど、どうしたらいいかわからなくて』

そうして、何もできないでいる間に時間だけが流れていく。

気持ちだけが焦りながら、時間とともに諦めの気持ちが膨らんでいく。

私がそうだったように、そんな風に感じている方も多いのではないでしょうか?

近ごろ私は、「どうしてそんなに挑戦できるんですか?」と言われたり、(人の目から見たら)「行動力がありますね」と言っていただくことも多くあり、

私が元からそういう人だと思っている方もいるみたいなのですが、
私はもともとは、全然そんな性格ではありませんでした。

むしろ真逆だったのです。



自分を押し殺して、本当の自分を必死に隠すように生きてきた。
小学生の頃しか知らない知人には、別人みたいだと言われます。

そうやって、小さな頃は息苦しさを感じながら生きることしかできなかった私ですが、
今は出来る限りやりたいことに挑戦し、自分の心の望みを出来る限り叶えてあげるようにしています。


今は、好きなことを仕事にすることができていて、素敵な友人や生徒さんたち、支えてくれる方々が居てくれて、毎日がとても楽しく幸せだと感じています。

そして今回、十年ほどずっと行きたいと思っていた、イギリス・オックスフォード大学への留学という夢が、一つ叶うことになりました。

短い期間だけれど、仕事をしながら行くと決めることは、私にとってとても勇気のいる、大きな選択でした。

臆病だった私が、
なぜ書道家・アーティストとして独立して
色々なことに挑戦できるようになったのか、
どうして勇気を出せるようになったのか、
なんのために留学に行くのか、

「書くこと」についての私の原点にある想いのこと。

今まであまり出してこなかった、これまでのことを書きました。

なかなか信じてもらえなかったりもする、少し不思議な、でも本当のお話。

今回は誰かの背中を押すことになればという想いもあり、丁寧に伝えるために書いたけれど、
とても自分をさらけ出しているから、もしかしたら、そのうち消しちゃうかもしれない。

もっと短くまとめたいと思ったけれど、もっと上手に書きたかったけれど、全然まとまらなかった。

それでも本当の気持ちだから、もう勇気を出して公開してみることにしました。

個人的なことだけれど、正直に感じた本当の経験を書きました。
これを読んだ方の心に、少しでもいいから、光が灯ればいいなと思います。

少し長いですが、ひとつのストーリーとして読んでもらえたら嬉しいです。


「留学へ行きたい」理由

「留学に行きたい」と初めて思ったのは、たしか中学の頃。

私の今回の留学の目的は、
海外のアートに触れることと同時に、
もう一つとても大きな軸があります。

それは「物語を書く」ことのためです。

だから今回は、「物語」に関わることにできるだけ絞って書こうと思います。

書道や絵を描くことも、同じくらい大切な想いや物語があるけれど、長くなりすぎてしまうので、それはまたの機会にでも。 
(でも、関わりのあることは書道もアートも出てきますよ!)

私の「物語」、作品制作のルーツは、小さな頃にあります。

「ものがたり」へのルーツ

■内気すぎた子ども時代

私は物心ついたときから、とても内気な性格でした。

しかし好奇心は旺盛で、いろいろなことを知ることが好きでした。
そのことは、私の物語への想いや、書やアート制作に大きく関わっています。

四人兄弟の三番目として生まれたけれど、あまりにも内気で臆病な性格でした。他の元気のいい兄弟たちとは全然違って、一人だけ話すことがとても苦手な子どもでした。

人と言葉でコミュニケーションを取ることがなぜかとても恐ろしくて、両親や兄弟に話すときでさえ、何十回も頭の中で言葉を考えなくてはならなかった。

知らない人たちの人目につくだけで、普通に話そうとするだけで恐怖感で体が震えて涙が溢れてくるのを、必死に我慢しなくてはなりませんでした。おそらく現代ならば何かしらの障がいや病名がついていたと思います。

保育園も小学校も、「人がたくさん居る場所」に行くというだけ、登園するということだけでも、そんな私にとっては大きな試練でした。

今では知られるようになったHSPという言葉も当時は知らず、感受性が繊細すぎた私はまさにそれでもありました。


また、私には周囲の人がどうして思ったことをそのまま伝えることができるのか、全然わからなかった。

皆が一言一言を、私と同じように、勇気を振り絞って話しているのかと思っていた。

でも、保育園のころ、みんなは初めからそれができるのだと知りました。
むしろ、何も考えずに思ったことを口にしていると知ってとても驚きショックを受けました。
皆はこんな辛い思いをして話している訳ではなかったのかと。

「言葉で人に何かを伝える」という、当たり前のことができない自分はおかしいのだと思った。

それが自分でも辛くて、周囲の人に心配ばかりかける自分が大嫌いで、同じクラスの子が遊びに誘ってくれても、自分などが一緒に遊んだら迷惑をかけると思っていた。本当は一緒に遊びたいのに首を振って断っていたほどでした。

そうして、どうして断ってしまうんだろうと自分でも情けなくなりました。
本当は何も気にせず、ただ楽しく一緒に遊べたらどんなにいいだろうと。たまに少し話すお友達はいても、いつも相手の気を悪くしてしまうのではないかと、心の中は不安で怯えていた。

保育園時代は、時計の針を眺めては、ただただ時間が過ぎるのを待っていました。お昼寝の時間に眠ったことなどただの一度もなくて、ずっと寝たふりをして考え事をしていました。


時々、先生の質問に答えなくてはいけなくて何かを話すと、「大人みたい」だと言われていました。

優しいとか、賢いと私のことをほめてくれたその言葉まで、「子供らしくなくてかわいくないということかな」と自分の中で勝手に曲げて受け取り落ちこんでしまうくらいに自信がなくて、

そんなひねくれた自分自身にまた落ち込み、私はどうしてこんなにもマイナス思考なのかと、そのたびに自分が嫌になった。

人と話すこともできないで、人と関わることだけでもなぜだかとても恐ろしくて、普通で居たいのに自分の意思に反して体が震えて涙が出そうになる。


そんな自分が、これからどうやって生きていけばいいのか、まともに生きられるとはとても思えなくて、幼心に自分の将来に不安しかありませんでした。

身体も弱かったので、毎日のように頭痛をはじめとした体調不良を抱えていました。

なんとなく「自分は二十歳まで生きられないんじゃないか」という漠然とした気持ちが常にありました。

母も保育園の先生も、そんな私をよく心配していたことを覚えています。そうして心配させる自分のことも情けない思っていました。


だからこそ、自分が嫌いで「変えたい」と願う人の気持ちが痛いほどよくわかる。 


普通の日常生活が困難と苦痛に満ちていて、他の兄弟たちに比べて私だけどうしてこんなにも生きることが難しいんだろうと思っていた。


今はこれまでの経験から、どんな自分にもなれるという確信を持っているけれど、当時はそんなことは信じられなかったのです。

■「書いて」いるときだけは息をすることが出来た

しかし、言葉で話すことが苦手な代わりに、私には好きなことがありました。

「書く」ということです。

書くことと本を読むことが好きで、
物心ついたときからいつも、書いてばかりいた。

絵を描いたり字を書いたり、
物語を書いたり。

書いている間だけは、何からも自由になれるような気がした。


魚は陸では、泳ぐことも呼吸することもできないけれど、
海に戻れば自由に息をしてのびのびと泳ぎ回ることができるように、
私にとっては日常生活そのものが、陸に打ちあげられた魚のように感じていました。

耐え難いくらいの生き辛さを感じていた。

「心で想っただけでなぜ伝えることができないんだろう」 

「人間は口に出さなくては伝わらないなんて、なんて不便なんだろう」

「どうして、どう考えても傷つくことを平気で口にするんだろう。ケンカするのが好きなんだろうか?」


小学校に上がる前、保育園にいた頃から、そんな疑問を数えきれないほど感じていました。

当然のように話すことのできる周りのみんなが宇宙人のように感じていて、なぜよくわからない行動をするのか、全然理解できなかった。

けれどもむしろ、宇宙人なのは私の方ではないかと疎外感を感じていました。

そんな気持ちを、家族にも誰にも伝えることができなかった。

そんな私にとって、書いている間だけは、息のできない陸から海の中に戻された魚のような心持ちがした。

その間だけは押し寄せる不安も「できない」という辛さも何もかも気にならず、

それが上手いか下手かなどどうでもよくて、

ただただひたすらに楽しかった。

書いているとき、私は自由に息ができた。

だから私は、小さな頃から書くことばかりしていました。
私にとって、それは「一番の遊び」でした。

兄弟に誘われて庭で鬼ごっこや隠れんぼをすることも楽しかったし、一緒に遊べることが嬉しかったけれど、それ以上に一人で何かを書く時間は私の喜びでした。
誰かが見ていると緊張してしまうから、いつもこっそりと書いていたけれど。


庭で小さな生き物や植物を観察したり、自然を見ることも大好きでした。

表情や言葉には表せなくても、心の中では小さな一つ一つのことに、深く大きく感動していた。そんな時間を心から楽しんでいました。

それから文字を覚え、書けるようになってきてからは、新聞の字を意味もわからないままに、形を真似して書いてみたりもしていました。

書くものの内容はいろいろでした。

小さな頃は絵に始まり、習字を習い始めたら字を書くことも好きになり、

家にいるときは大好きな本を読んだり、空想を膨らませて想像したり、
やがて小学校低学年ごろからは、物語を自分で書くようになりました。


心の中には様々な空想の世界が広がっていて、それは現実の限られた世界よりずっと美しくて夢があって、豊かだった。

私にとって書くことは、息を吸うことと同じことでした。

それが無くては生きていけないくらいに私にとって自然なことで、生きるために必要なことで、同時に一番の遊びだった。


夢中で書いていると音も聞こえないくらいに、ただただ楽しかった。
ただ書いているだけで楽しかった。

それは今でも、根本的には変わっていません。

思うようにいかなくて嫌になることも、もちろんありましたが、

ただ自分の中でもっと上手になりたくて、もっと良いものを作りたくて、思い浮かんでくるものを表現したくて、
誰に見せるわけでもない物語や絵を、秘密のノートに書いていた。


それが駄作なのか傑作なのか、そんなことはどうでもよくて、ただ書くということそのものが大切だった。

誰に、何度止められてもやめられないほどに、
ただただ楽しかったのです。

『水の惑星 - 水の精のあそび』Shusui Natsume


■登下校での「一番の遊び」と、空からのプレゼント

物語を書くということ、物語を愛することの根っこがどこなのか、私にはわかりません。
きっとそれは沢山あるのだと思う。


幼いころ、寝る前に毎日必ず母が読んでくれていた物語かもしれないし、好きだった世界名作劇場シリーズのアニメかもしれない。

私は長い物語が好きで、読みながら眠りそうになる母を起こしては読んでもらっていました。笑

あるいは、本を愛する父が集めた、一般文芸やNewtonのような科学雑誌、マンガや伝記、経営書のような様々な分野の本たちで、家の中が小さな図書館のようでもあったからかもしれないし、

毎週にように連れて行ってもらった図書館の影響なのかもしれない。

本を読むとまるで自分がその世界にいるかのように感じられて、とてもワクワクして楽しかったです。


中でも私がよく覚えているのは、小学校に上がり、登下校で歩いている時のこと。

私たちの学校は、登校の時には大人数での班で歩いていたけれど、下校は一人で帰ることも多くありました。

小学一年生のころから、学校から家までの30分ほどの帰り道を一人で歩きながらいると、空から物語が降ってくるみたいに物語が思い浮かびました

それは自分で考えているというよりも、まるで空から、神様からプレゼントが降ってきているかのような、そんな感覚でした。

(それは今でも書道や絵の作品作りの時にもある、インスピレーションの感覚と似ています。)

浮かんでくるその物語を、まるでラジオが電波を受信するかのようにそのまま口に出し、それを自分の耳で聞きながら、自分で物語を楽しんで歩いていました。

当時から声が小さくて、なかなか他の人に聞きとってもらえなかったので、どうせ聞こえないだろうと開き直っていたこともあります。
もし人から見られていたら、ちょっと…………かなり危ない子に見えたことでしょう。笑

物語を作るその秘密の遊びは、一人の時だけ行っていて、
誰かに聞かれてはいないか、そんなことにドキドキして周囲を気にしながら、でも楽しみながら歩いていました。

『水の惑星』Shusui Natsume


そういった遊びは私にとって、自分だけの心から楽しめる時間でした。

何かを書いている時間や、想像を膨らませる時間は周囲の音も聞こえなくなるほど集中している性格で、誰かが話しかけても気が付かないこともあります。(これは役立つけれど、けっこう困ります)

寝食も忘れて何時間でもやり続けていられるくらいに、とにかく好きでした。

小・中学校の授業では、今思い返せば半分くらい、意識が空想の世界に飛んでいたと思います。(すみません)

上の兄弟たちと同じような成績を取るために、そして自分の苦手を克服するためにも、授業では勇気を出して発言をするという課題を自分に与えていたのですが、
そのノルマをできるだけ達成し、先生がその日に進みそうな範囲までノートに問題を解いてしまっては、残った時間で好きな空想を働かせていました。

ノートのなか、人から見られないような場所に絵を描いたり、パラパラ漫画を作ってみたり。教科書の写真に落書きすることも地味に好きで、たくさんの偉人をペリーに変えました。笑

書きかけの物語の続きを空想したり、登場人物の名前を考えたり……。

そうしてたまに、不意に先生に当てられ、内心ものすごく焦りながら平気な顔をして、何を話していたか予測してなんとなく答えて乗り切っていました。

何とか人前では「普通」であろうとしていました。そして周囲の期待に応えるために、出来る限り優秀であろうと努力もしていたつもりでした。

学校の友達は、「どうしてそんなに自信がないの? なんでもできるのに」とよく不思議がっていました。同じことを毎年のように言われては、「私なんて全然ダメだよ」というようなことを言って、いつも心の底から褒め言葉を否定していました。受け取ることが本当に出来なかったのです。
前半の「自信がない」だけを受け取って、どうして自分はこんななんだろうと密かに落ち込んでいたほどに、当時はマイナス思考でした。 


その自信のなさと臆病さ、人とコミュニケーションを取ることの難しさからか、学校が面白いと感じたことは少なくて、できればずっと家で何かを書いていたいと思っていました。

小学校の一年生ほどの頃から、自分の内気すぎる性格を変える努力(修行?)を日々していたので、(決して得意ではなくても)だんだんと人とコミュニケーションをとることはできるようになり、多くの人がいる環境に居ること自体の苦痛は減っていました。

仲の良い友達もでき、友達や先生と話す時間は実際に楽しいと感じられるようになり、日常生活を「楽しい」と感じられるようになりました。話がそれるので書かないけれど、楽しいと感じられるようになる努力をたくさんしました。
私の小・中学校での私の過ごし方は、ある意味特殊だったと思います。

■優秀な兄弟たちと劣等感

小・中学校では、姉や兄を知る学校の先生は私に「あの、みんな優秀な夏目さん家の三番目の子」と言いました。

姉や妹は外見も華やかで美しくて元気が良く、成績も良く運動も出来るクラスの中心人物で、兄も似たような感じを、優しい天才肌にしたような面白い人で、
全員がマンガの主人公のような兄弟でした。

妹は、中学校の修学旅行先の東京で、三日間の滞在期間中に三度も芸能事務所からスカウトされて帰ってきました。笑
家が厳しかったのでその道には進みませんでしたが、そんなことあるんだな、と驚いてしまった覚えがあります。

その中で、外見も性格も一人だけみなと似ていなかった、内気すぎた自分が、なんだか間違っているように感じていました。

周囲の人から「同じように優秀な子」とみられることは、多少は嬉しくもあったけれど、
同時に「そのレールから外れてはいけない」と思ってしまうような、プレッシャーでもあったのです。

大人になってみれば些細なことだと思えるけれど、当時、家と学校がすべての社会だった私にとっては大きな問題でした。

すでに他の兄弟が当たり前に出来ることが出来ないのに、一人だけダメな子だと周囲から思われるのが怖かったのだと思います。


劣等感を常に感じながら、
それでも捻くれていないで内面を磨き自分らしく生きられるようになりたい、せめて自分くらいは自分を好きにならなくてはと思いながら、そんな葛藤を抱えながら、

日々自分を磨くためにわからないなりに、どうしたら変わることができるのか、自分の人生を使って「実験」と努力を小学生のころからずっと繰り返していました。


具体的な実践の内容はここでは割愛しますが、そういった実践を通して得た経験と智慧が、

Instagramで書く言葉や、言葉の力にフォーカスして立ち上げたペン字講座の「ことのは通信講座」、たまに講師としてお招きいただく講演会など、様々な活動に繋がってくれました。だからこそ無駄ではない大切な経験だけれど、当時は本当に必死でした。

自分が本当に好きなこと、物語や絵などを描くことは、当時はあまり表には出せませんでした。絵や書作品は何度も学年代表に選んでいただいたり、いろいろな賞状をいただき、そんな時は嬉しかったけれど、上の兄弟たちも同じだったので特別なことだとは思っていませんでした。ただもっと頑張らなくてはいけないような気がしていました。

『ENSO 循環』Shusui Natsume

■「やりたいこと」が「食べていける仕事」ではない葛藤

書くことがどれだけ好きでも、

当時の私にとって、それらは「現実的な、食べていける仕事」になるとは思えませんでした。


他にも音楽やアート、スポーツ選手など、「やりたいこと」が現実的に「生きていける仕事」ではないと言われて悩むという、同じような経験をされた方もおられるかもしれませんね。

中学、高校と進学する過程で、
「好きなことで生きていく」ことは、

「現実的ではない」
「一部の選ばれた人だけができる特権」
「夢物語だ」
「趣味としてやるべき」

という言葉を何度も聞く中で、
自分の好きなことでは生きていけないのだと、ほとんど諦めていました。


もちろん諦めたくなかったけれど、諦めなくてはならないと自分に言い聞かせていました。 


当時、私の周りには、自分の力で小説家や画家、書道家として、それだけで生きている女性は身近には誰もいなかったので、余計に現実的ではないように感じられました。

今の時代ならば簡単に、小説家や書道家、アーティストとして活躍する人たちをネットやSNSで見ることができます

少し勇気を出せば、DMなどでつながることも会話することも簡単にできてしまいますし、その人たちの日常を気軽に知ることもできます。
SNSを通じて発信もできて、本当にいい時代になったと思います。


しかし当時はスマホも一般的ではなく、ネットやYoutubeで気軽に調べたりできるわけではなかったので、芸術で生計を立てる人は「テレビの中の世界」の人たちでした。
(もっとも今の時代も、日本で芸術の道で生きることはとても難しく、多くの方は副業をしているのですが。)

いくらやりたくても、自分はそれで生きていけるほどに「特別な」人間ではないと思っていました。

やりたいことで生きることはできないと、初めから言われていたので、
大人になることに対する希望もほとんど持つことができませんでした。

それしかやりたいことがないのに、私が心からやりたいと思えることはそれしかないのに、

やりたいことで生きていくことができないのなら何のために生きていけばいいのだろう?

ずっとやりたくないことを、我慢してやりながら生きなくてはいけないのだろうか。

それともそういう事でも、大人になれば楽しめるようになっていくのだろうか?

心の中にこっそりと、ひっそりと、でも確かに燃える「やりたいこと」への熱を、

この国で芸術の分野で生きていくという困難な道を、
「普通」を捨てさせて「夢に生きる」ことを選ばせかねないような、
努力だけではどうにもならないような身の丈に合わないリスクだらけの夢を、

どうすれば忘れることができるのか、私にはわからなかった。


決して天才などではないくせに中途半端に勉強ができたために、周囲の期待や環境と、自分のやりたいこととの乖離が大きくなって、でも期待を裏切ることをしたくはなくて、息苦しかった。

それでも夢を諦めようと思っても諦めきれずに、
そんな苦しさをずっと心の奥に抱えていました。

■夢を封印しようとした大学選択

大学への進路を思った時、アートや物語などの専門学校に行くことも考えました。

しかし、私を含めた四人兄弟の全員が勉強を頑張っており、高校選択では、姉と兄は偏差値70を超える地元で一番の進学校に入学していたので、姉の制服をそのまま使えるということで、私も同じ学校に入学しました。

そこは地元の人にとっては憧れの高校で、そこに通っているというだけでなぜだか褒められました。
私にとってはそれはどうでもよかったのですが、姉や兄たちと同じように、「レールを外れず」「まともな」道を歩んでいられることにほっとしていたように思います。

私という中身は何も変わっていないのに、その制服を着ているだけで知らない人からも褒められることが、不思議に感じていました。


みなが中学でトップの数人に入るような人たち、学級委員長などを任されてきたような人たちのなかで、私はここに来てよかったのだろうか? 場違いなのではないかとも感じていました。 

けれどもそうやって地元の人に愛される高校で、入学したくてもできなかった人もいる中で入らせてもらったのだから、やりたいことをする時間がないと文句を言っていないで、頑張らなくてはと思っていました。

入学後は、高校一年からずっと受験生のような毎日で、不器用な私では、睡眠時間を削らなくては終わらない量の勉強に追われました。

勉強ややるべきことへの努力をしながら、それでもどうしてもノートを開いて、心にあふれてくる物語や絵を書かずにはいられなかった。

けれども夢中になると時間は飛ぶように過ぎてしまって、そうして勉強の時間がなくなり、焦ることを繰り返していました。


でも、「好きなことは大学受験が終わってからやろう」と思うことにして、書きかけの物語のノートを段ボール箱に入れてガムテープで封印し、
それでも我慢できずに、意思の弱さに情けなくなりながらも開封しては書き、
また段ボールに封印することを繰り返し……その過程で捨ててしまった物語もあります。

そうして最大限の努力で夢を封じ込めようとしていました。

『雪の子の夜』Shusui Natsume

(それでも書くことが好きだったので、高校までにコソコソと隠れて書いた物語は大学ノート数十冊分ほど。今捨てずに残っているものでは100冊分以上ほどあります。)


今思えば、きっと私が好きなことをしたって、誰も反対などしなかった。

私が本当に信念をもって「これがやりたいのだ」と堂々と伝える、そのことさえできていればよかったのだと思います。
本当にそうやって生きたいとはっきりと言えたなら、おそらく両親も応援してくれたことでしょう。


でも、当時の自信のない、他人の期待を裏切ってはいけないと思っていた私には、とてもできなかった。

現実的に生きていけないということを言われるだけで、そんなにお金をかけさせて夢に進む意思を貫くことは、子どもっぽい我儘であるように思えた。


自分が皆のお荷物になる将来を想像すると、私程度の才能ではきっと小説や芸術の道では生きてはいけないのだという想いが明確になっていくように思われて、
分不相応な夢を持っていることが恥ずかしくもなり、将来が恐ろしかった。


そして優秀な兄弟の中で自分だけ落ちこぼれになることがこわくて、出来る限り「まっとうな道」を進んでいました。
不安と恐怖に押しつぶされてしまいそうで、必死にできることをして、道を探っていました。

高校の同級生たちがみな、東大、京大、大阪大学、名古屋大学といった難関大学を当然のように志す中で、
自分の行きたい「不安定な」「現実的ではない」「(ついでに、馬鹿にされる)」目標を貫くほどの勇気はありませんでした。

四人兄弟で皆大学に進むため、学費もとてもかかります。上の兄弟二人も国公立に進んでいたので、国立大学は学費が安いしいろいろな機会が得られるからいいのだ、と自分を納得させることにして、同じように難関大学を目指しました。

もともと勉強することは好きでしたし、
今でも一緒に遊ぶほど素敵な友人たちに出会えた高校選択には、後悔はありません。

性格も良く、読書家でいろんなことを知っている素敵な友達にもたくさん出会えました。

しかし大量の宿題と、自分が本当にやりたいことを押し殺さなくてはならない葛藤で、高校当時は常に睡眠不足で悩みも多かった。同じ努力をもう一度しろと言われても出来ないと思います。


そして体が弱かったので、小学生のころから毎日のようにどこかが痛かったりと、健康な日の方が少ない毎日でしたが、ストレスのせいか高校の時は特に辛かったです。

一時間の授業を座っていることが耐え難いほど腰痛もひどく、
病院に行けば「ヘルニアになりかけていて、これからひどくなっていくだろう。背骨の手術をするか、一生付き合っていくしかない」と言われて絶望的な気持ちになりました。
(どこへ行っても治らなかった腰痛は、二十歳を過ぎてから、意外な方法で無料で治ったので今は大丈夫です。)

当時、体調が悪いという状態が普通になっていたので、身体のどこも痛くない健康な日は本当に楽で、それだけで最高に嬉しくて、気分がうきうきしてしまうくらいでした。

自分の体調のことで人に心配させても体調が良くなるわけではないので、体調が悪くても友達にも言わず、出来る限り顔にも出さないようにして、勉強に集中しようとし、なるべく楽しく過ごす努力をしようと思っていました。(顔色は悪かったと思いますが笑)


自分の辛さも体調不良も、顔に出さないことに慣れすぎてしまって、気が付けば癖のようになっていました。
人からは「辛いことなさそう」「恵まれてていいよね」などと言われていましたが、ありがと~と笑って答えていました。

そうして色々ありながら、体調も、本当にやりたいことも押し殺して、我慢しながら努力し続けた大学入試は、面白いくらいに全然うまくいかなくて、

一番望んでいた物語制作やアート系ではなく、たまたま縁を感じた大学で、二番目にやりたかったことでもある英文科に進みました。

信じていた人から心無い言葉をかけられることもあり、気持ちも落ち込み、当時の私にとって「大きな挫折」と感じた経験をしました。

大学進学先は私立だったので、結局は私が一番行きたかった大学と学費も変わらず、(その時点では)誰も喜ばない選択となりました(笑)

今思えば、高校生活は張り詰めた糸の上を歩くようなギリギリの精神状態だったと思うのですが、
人の期待に沿って第一志望にした大学入試では受験科目を間違えたりと、マンガのような、もはや奇跡のようなミスを繰り返した、散々なものでした。


自分を押し殺して努力したのに、結局誰の期待にも応えられなかったことで張り詰めた糸が切れ、気持ちもとても落ち込み体調も崩しました。

今までやってきたことは何だったのかと、どうしようもない気持ちになりました。

■留学への目標

しかし、もう入学したのだから、なんとか気持ちを切り替えて楽しもう、と思いました。

思ってもみなかった大学へ行くことになり、ある意味奇跡的な結果になったのだから、逆にこの大学が私にとって一番良い場所だったのかもしれない。
せっかく英文科にいるのだから、行ってみたかった留学に行って、いろんな世界を知ろう、という気持ちになりました。

私の尊敬する人々が多く卒業するオックスフォード大学や、他の大学への留学に興味を持ちました。


海外に行くということで、日本人なので日本のことについても学び、留学に必要な試験の点数も取り、あとは行くだけでした。


しかし、当時は厳しかった家族の反対により、行くことができなくなってしまったのです。

(家族は今では応援してくれていますが、当時は体調のこともあり心配していたのだと思います。) 

せっかく見つけた希望でもあった留学に、行けなくなったこと、
それはとてもショックでさらに自暴自棄になり、ずっと心に引っかかっていました。

そうして大学時代の一年から三年には、受験や留学の葛藤があったこと、

一時は毎日のように家に遊びに行っていた、同じ高校で受験を頑張っていた友人が自死してしまったことなども経験して、

とても悩み、食事も喉を通らず、ひどい時にはサプリメントと水で栄養を補給をして、
一時期はベッドから起き上がることもできないほど体調を崩しました。

友人の死は私にとって、まるで自分自身が死んだかのように感じられました。

しかし、誰にも言わずに、這うようにして何とか大学には通いました。

授業を無断欠席してしまうことも、遅刻することも多かったですが、友人たちに心配をかけたくなくて、何も言わず友人の前ではできるだけ笑顔で居るようにしていました。
調子の良いときには、本当に楽しく、元気に過ごすことが出来てもいました。


しかし家に帰れば死んだようにベッドに倒れ込む、そんな時期が長くありました。

鬱と診断されましたが、鬱の薬について調べると副作用に「鬱症状」があったり、さまざまな記録を見てあまり良くないなと感じ、精神系の薬は飲まないことにしました。
そのお陰で鬱から回復するスピードが早かったように思うため私の場合はその選択をしてよかったと思っていますが、鬱の辛さはとても感じていました。

■生死を彷徨った時のこと


いつまでも続くように思われたどん底の時期を通して、
その渦中で、私はかけがえのない経験と教訓を得ました。

悪い条件が重なり、たまたま生死を彷徨うことになった日がありました。


そうして自分の隣に「死」を身に染みて感じたとき初めて、

自分の人生にとって本当に必要なものが何なのか気付くことができたのです。


もう下がない程のどん底で、昔から知っているある女性の先生の愛を思い出しました。

指一本動かすことができなかった、
その時の私を見ても、その先生だけは昔と変わらずに、
ただ「あなたは素晴らしい子や」と心の底から言ってくれるということが、そこに先生がいなくてもわかりました。

何かを成し遂げなくては、人の期待に応えなくてはいけないと思っていたけれど、
その先生だけは今の何もできない私に、失望することもなく、何の見返りも求めずにただ心の底から信じて愛してくれていることを信じることが出来ました。

そのどこまでも深い愛が『蜘蛛の糸』のように、私の心に光を差し込み、光を灯してくれた。
もう一度立ちあがってみようと思うことができた。


誰かたった一人でも、自分を心の底から、魂の底から無条件に信じてくれる人が居れば、
人は生きる事ができるのだと
その時にわかった。

出来ないかもしれないけれど、
私もいつか、
誰かのことをそんな風に信じてあげられる人になりたいと思った。

そうすることで誰かを救けたいと思った、けれどもその為にはまず自分が自分を心の底から信じる事ができなくてはいけないのだとわかった。

『神の愛』Shusui Natsume



その時の経験は、一冊の本が書けるくらいのことでしたが、ほんの短く書くとしたら、私を救ってくれたのはその先生の、無条件の愛でした。


なんの条件もなく私を信じてくれたその先生の愛だけは、裏切ってはいけないのだと思った。少しだけでもいいから恩返しができたらいいと思った。

ひと筋だけの光が心を照らしてくれて、何もないところから、ゼロから再出発しようと思えたとき、自分の気持ちさえ全く分からなくなっていたけれど、

私が何をして生きていけばいいのか、何をしたいと感じているのか、
本当の心に気付くことが出来ました。



私は物語を書くことが好きでした。

妹や友達がそれを読んで、楽しそうに笑ったり、たまに涙してくれるのを見る瞬間、とても幸せでした。

そして私自身が物語に救われていた。
学校生活で辛かった時、人間関係に悩んだ時、物語が私の人生にとって大切な答えを教えてくれた。
先生の愛と、物語によって私は現実的に実際に、救われてきた。

たった一人でも構わないから、誰かの心を動かすもの。

出来ることなら、光を灯すようなもの。

物語を通して、絵を通して、書を通して、
書くことを通して私は、私がしてもらってきたように、誰かの心に光の灯るものを作りたい。

そんな大それた意味がなかったとしても、
ただ面白い物語があるというだけで、明日を生きる力をもらえる人もいると思ったのです。

それが自分に出来るとは、その時の自分には到底思えなかったけれど、
指一本動かせないくせに何を言っているのかと可笑しくも思ったけれど、
やってみなくては死にきれないと思った。

生死の境を経験したのは、なんの偶然か、ちょうど二十歳の時でした。 

私が幼いころからなんとなく感じていた「二十歳まで生きられないのでは」という想いが、まさに現実となったかのようでした。 

その時の自分の人生の続きは、正直に言って生きたいとは思えなかった。

けれども、「今、ここで一度死んだと思ってまた新しい人生を始めるとしたら。」

そう考えました。

先生の信じてくれる愛に気づいて、
過去を捨て去り生き直す覚悟ができたとき、心の中で私はあることを祈った。

そうしてそのまま放っておいたら命を落としていたであろう状況から、どんなに頑張っても動かなかった指をなんとか動かして、気力だけで体を動かして、自分を救うための行動を起こす事ができたのでした。

◾️もう一度だけ


「前後を切断せよ、
みだりに過去に執着するなかれ、
いたずらに将来に望を属するなかれ、
満身の力をこめて現在に働け」

夏目漱石

漱石の書いた一文ですが、私はその時、この言葉と同じように過去を捨てようと思いました。
未来のことをいたずらに考えることもやめました。

自分の本当の気持ちを分かってもらえなかったこと、期待に沿おうと頑張ってきたのに裏切られたように感じたこと、自分を消してしまいたいような辛さ、さまざまな複雑な想いがあったけれど、

人のせいにしようと思えば千の理由さえ浮かびそうなほどに傷を抱えていたけれど、

今、死んだと思ってすべてを捨て去ってしまおうと思いました。

どんな状況でも結局は、「今」、自分に出来る最善を尽くすこと。
それしかできない
のだし、今までだってそうしてきた。

それを続けられたとき、最後には、ちゃんとその努力は報われてきた。

受験でそれが裏切られたように思ったけれど、もしかしたらそれが最善の道だったのかもしれない。
何が本当に幸せなのかなど、人間の浅はかな頭で考えたってきっとその時にはわからないのだと。

客観的に自分を思い返せば、「自分で決断しなかった」こと、それが私の間違いだったのだと思いました。

自分に自信を持てなくて、自分の心の声を押し殺して人の期待に応えようとしたこと。
人に決断を委ねたこと。
人のせいにしていたけれど、そうすると決めたのも自分なのだと思いました。

自分の人生に責任を取れるのは自分だけなのに、
私はその決断を人任せにしてはいけなかったのだ
と、
そんな当然のことに、痛い思いをしてやっと心の底から気が付きました。

状況やお金、誰かが望むからだとか、そんな言い訳や思い込みに囚われていたけれど、
結局は私自身が、はっきりと「自分はこうしたい」と言えばよかった。


手足を縛られていたのではないのだから、わかってもらえなかったとしても、何度でもちゃんと伝えればよかった。

そうすれば伝わったかもしれないし、伝わらなかったとしても方法はあったかもしれない。それを何度か試しただけで、もう駄目なのだと諦めてしまっていた。

幼いころから今までのことを思ったとき、
"自分の心を押し殺して生きているのだとしたら、それは本当に生きていると言えるのだろうか?
そんな疑問を覚えました。


自分を押し殺して、まったく別の「誰かの理想」を生きようとしていた。

でも、そんなものは全然、私ではないのではないか。
それは、本当の自分ではない。

本当の自分を押し殺して生きるのだとしたら、
それは生きながら死んでいるようなものではないのか。

あまりにも極端かもしれないけれど、その時の私にはそんな風に思われました。


きっと、心を押し殺しても平気な人ならそれでよかった。
こんな複雑なことを考えなくても、幸せに生きられる人ならそれでよかったのだと思います。



でも私は不器用で、自分の心に嘘をついて行動しても、結局は体がついてきてくれないのだとわかった。
自傷行為などはギリギリ踏み留まることが出来たので一度もしなかったけれど、それでも「自分を否定する」ことを通して、私の体からこんなにも生気を奪ってしまったのは誰でもない自分で、それが自分に申し訳ないことのように思えた。


誰もほめてくれなくてもいいと思った。
誰も認めてくれなかったとしても、私だけは、私の味方でいてあげなくてはならなかったのではないか、そう思った。


もう一度だけ、やってみよう。
そう思いました。

どんなに無様でもいい、失敗してもいい。
今ここで死んだのだと思って、これからの人生を「おまけ」の人生だと思って生きるとしたら、失敗も何もないのではないか。

死ぬことはいつだってできるのだから、本当にやりたいことに挑戦してみたっていいのではないか。
そうしてもし全然うまくいかなかったとしても、精一杯努力したと思うことができたとしたら、満足できるのではないか。



いつも目をかけてくれた習字の先生が、
「我が人生悔いなし」と思って死ねるように生きてきたと、そう言っていたことを思い出しました。


■心の声にまっすぐに

心の声を押し殺して生きることは、もう十分すぎるほどにやってきた。
でも死にかけるほどに上手くいかなかった。

「その方法は間違っているのだ」と、あなたの生きる道はそうではないのだと、数年間の大きな痛みを伴う経験を通して、神様が教えてくれているような気がした。

だから今度は、心の声に素直に生きてみようと思いました。

心の声にまっすぐに、自分を信じて、やりたいことを心の喜ぶようにしてみようと。
どうせおまけの人生だ。
もともと無かったものだと思えば失うものは何もない。
やってみれば、そうすれば何かが見えてくるかもしれない。
人の役に立ちたいと思っていた、世界中の辛い人たちが一人でも救われてほしいと思っていた、その気持ちは今もあるけれど、やり方は全然わからない。
でも、もしそれが私にできるのだとしたら、そうなれるように導いて下さいと祈った。
そうしたらきっと、どんなに辛くても這いつくばってでもかっこ悪くても必ず成し遂げてみせると思った。

自分に出来るところまで力を尽くして。

『自分らしく生きる - Yakushima』Shusui Natsume


その時まで、自分の苦しい状況のなかで、どこかで自分のせいだとは思いたくない気持ちがあった。
けれどももうすべて認めてしまおうと思った。
言い訳なんていくらでも出てくるけれど、自分の人生の責任はすべて自分にあると、認めようと思った。

「私を救ってください」と、誰かに救ってもらおうとするのではいけなかった。

その泥沼から足を引き抜いて、自分が誰かを助けたいと思えるくらいでなくてはいけないのではないか。人に救われようとしているから、他力になってしまう。そんなことでは力も出ないのではないか。

どんなに弱くても、生かされているのなら自分の足で立とうとしなくてはいけないのではないかと、そう思いました。

「私を救って」ではなくて、「私が救う」のだと思えば、許せないと思うくらいに傷ついたことも、今までのこともすべて許すことができるような気がした。許すことができたら感謝も湧いてきた。

そうして自分は、今できることを、今目の前の一つ一つを、楽しみながら大切に生きてみようと思いました。


その一日の、生死を彷徨った数時間の間に、私の心は一度死んで生まれ変わったような気がした。

ちょっとした転生物語みたいですが(笑)、本当にそんな経験をしました。

Instagramの投稿
Shusui Natsume


■行動の変化

その日から、少しでも興味のあることには積極的に挑戦することを選ぶようになりました。

もちろん、元々臆病で安全地帯から出ようとしなかったのだから、すぐに挑戦できた訳ではありません。

こわがりながら、
やっぱり止めようと何度も迷いながら、
それでもやらなかった後悔よりもやってみれば何かがわかると思って、経験することを選んできた。
やってみて嫌なら、それも学びになると思った。

はじめは多少無理をしてでも、いろいろな場所に行くようになり、いろいろなことを試すうちに、だんだんと体も健康になってきました。


「自分の心の声を聴く」ことが分からなくなっていたから、
立ち寄ったコンビニで好きな食べ物を選ぶという、そんな小さな選択から一つ一つ始めていった。

Shusui Natsume


大学でも英語劇に参加したり、他学科のいろいろな授業を聴講生として受け、興味があれば別の大学でも学べる制度があったので、それを使って学びに行ったりもした。
少しでも興味の湧いたものには、県外だろうが飛行機だろうが、出来る限り参加した。
費用を作るためにバイトも頑張るようになりました。

大学以外にも興味のあるものには参加してみて、それまで会ったことのない色々な人たちと出会いました。
その中には、頭ではほとんど考えず、直感の通りにまっすぐに進む人たちもいて、いろいろな考えに触れる中で、自分を押し込めていた枠を少しずつ、少しずつ壊していった。

すでに捨てるものなど何もないと思えば、失敗することへの不安も少しは楽になった。
自分の枠を捨てれば捨てるほど自由に、心が軽くなっていくようでした。

そうしている間に、心配をかけないよう無理をして笑うのではなくて、心から笑えるようになっていました。

自分を褒めること、人を褒めること、いろいろな人生の「実験」を毎日「実践」する中で、だんだんと変わっていくことを感じました。



だんだんと、自分を卑下する気持ちや自信のなさも減っていき、代わりに心に光が増えていくようでした。
自分とは思えないくらいに明るい笑い声を、自分で聞いて、変わることができたんだなと感じて嬉しくなったこともありました。

いつの間にか体も元気を取り戻し、毎日が心から楽しくなり、「いつも楽しそうだね」と人からも言われるようになっていました。


今ももちろん私は不完全で、出来ないこともたくさんあって、
少しずつ成長している途中で、きっと一生自分を磨いていくのだけれど、
それでもそのままで大切な存在なのだと思う。自分も人も。
成長するその過程も、等身大に楽しんでいけたらと思います。

『月暈 - 祝福』Shusui Natsume


■書道の道と夢

そうして、社会人になり、様々な縁あって書道教室を開くことになりました。


その時の想いは、二十歳の時に感じたあの想いから来ています。

私が以前先生にもらったような愛を、書道を通して伝える場にできたらいいと思った。先生が私を救ってくれたその無条件の愛のように、私がそこで関わる生徒さんたちを心から信じてあげられたらと思った。
未熟すぎて先生のようには到底できなくても、全員には届かなかったとしても、今できる最善の真心を込めればいいと思った。その心で一つ一つの仕事、作品作りをすることで、ひと筋だけでも光を届けられるかもしれない。
私自身も楽しみながら、書道や言葉を通して少しずつでも人や社会が明るくなればと思った。


自分の葛藤と友人の死をきっかけに、才能を生かして幸せに生きるための教育法を研究して論文を書いたこともあり、そこでの学びも生かすことが出来ると思いました。


今までのことは何も無駄ではなかったのだと感じました。

大学選択も、第一志望としていた場所に進んでいたとしたら、こんなに早く独立して書道をしていることはなかったかもしれません。
今でも自分を押し殺して生きていたかもしれない。


言葉を話すことが難しかった経験も、そこから努力して話すことが楽しくなったことも、勉強を頑張っていたことも、すべてが今に生きていて、すべてがいま私を幸せにしてくれていて、それらは大切な「宝物」と呼べる経験となりました。

教室も、アートも、のちに始めることになった通信も、きっかけは人から求められて始めたものです。

でも、やるという決断を自分でして、それを通して少しでも誰かが幸せになればという自分の軸になる信念をもって行っていて、だからこそとても楽しいと思っています。

アートを依頼してくれた方、購入してくれた方や、生徒さんたちが喜んでくれるのが心から嬉しく、
今の仕事を誇りに思っていて、書道だけでは生きていけない人も多い中でとてもありがたいことだと思っているし、
これからも楽しみながら進んでいきたいと思っています。

しかし同時に、物語のことが気にかかっていました。

■物語への想い


物語は、小学2、3年生のころからずっと、一人でノートに書き綴っていました。

そのノートはすでに捨ててしまったものも多いけれど、少なくとも100冊以上は書いていたし、途中からはパソコンで書くようになっていました。


私の部屋に忍び込んでこっそり読むくらいに(怒りましたが笑)、楽しみに読んでくれた妹や、
二時間もかけて定期的に家まで読みに来てくれた友人も少しだけ居たのですが、基本的には一人で書いて読んで楽しんでいました。

でも、心の中にはいつも、いつかはちゃんと小説と本気で向き合いたいという気持ちがありました。
いつも本気ではあったし書き続けてはいたけれど、忙しさを理由に、挑戦することがなかなかできなかった。

物語への挑戦

■東京での朗読イベント

そうして初めて挑戦したのが、2021年12月の、東京での展示会です。

自作童話『雪の子の夜』朗読イベント

書道とアート作品を展示した個展会場で、ちょうど会期がクリスマスだったことから、クリスマスにぴったりな、大人向けの童話を書きました。

そして、その自作の物語を朗読するイベントを行いました。

コロナ禍だったことから、人数を調整するために有料チケット制にしました。少ないけれど満員となり、『雪の子の夜』という童話を読む小さな朗読会をしました。チケットは有難いことに完売し、当日立ち見してくださる方もおられました。


雪のアニメーションで幻想的な雰囲気を出し、音楽も用いて、サポートメンバーのみなさまの協力を得ながら行ったこの朗読会では、「号泣しました」と言ってくれた人もいて、
愛知から東京の会場に来てくれた方は、「帰ったらちょうど初雪が降って」きて、物語とリンクしてとても感動したと連絡をくれました。

未熟なところもある作品だったかもしれないけれど、楽しんでくれた人たちの声がとても嬉しくて、物語を書くことがやっぱり好きなのだと改めて感じました。

「あの時聞いたお話が忘れられない。絵本にしてほしいです」と言ってくれた人たちのために、いつか本にできたらいいなと思っています。

その時に制作した挿絵。
墨、和紙を用い、伝統的な技法の彩色を施している。

■時間を作ること

そうして少し経ったとき、出雲大社に行く機会がありました。

行きの飛行機の中で、私は今後のことを迷っていました。
しかし、出雲大社での権宮司様との素晴らしい出会いがあり、様々なことを心で感じる中で、
やはり物語をちゃんと書きたいという気持ちは明確で、それときちんと向き合っていくことを決めました。


(物語をどこで発表するかはまだ考えていて、もしかしたらこそっと別名で出すかもしれませんが笑、きっとこれからもずっと書いていくと思います。皆さまにもお知らせ出来そうでしたら、よかったら応援してください。)


書くことは私にとって息をすることと同じくらいに大切なことで、
だからこそはじめから一生やり続けるだろうと思っていたけれど、

日々の仕事のどれもが私が主宰するものであり忙しく、でも一つ一つが大切で、そのために書くための時間が取れないことが悩みでした。

しかし、出雲大社で勇気を頂いたことで、その時間を作るために努力しなくてはいけないと思いました。

作品作りのためにも、そして人生のためにも、「経験する」「学ぶ」ことは最優先にしています。それは日々の仕事、人から相談を受けた際などにもとても活かされています。学びたいことも多い中で書くための時間も確保しなくてはならず、どうしたらいいかと悩んでいました。

悩んでいたけれど、その後偶然、対面の書道教室の生徒さんで、受講時間を変えたいという方が同じ時間から何人か出てきました。
同じクラスのほかの方も快く、他の日時に時間を変更してくださり、そのおかげで、本当にスムーズに、一週間の中で元々三日あった授業日の、一日分のクラスを閉講することができるようになりました。
とても悩んで決めたことなのにあまりにもスムーズで、本当にこうしたいと決めてしまったら、出来ないと思っていたことも出来てしまうことを知りました。授業日が変更したのに、誰も辞めることなく続けてくれた皆様には、心から感謝しています。


県外への出張も毎月何度かあった中で、授業日が減ったことで場所の制約も減り、ギリギリな状態が続いていた身体も楽になっていきました。
空いている日は、オーダー頂いた作品を作ったり、全国から送ってくれる作品の添削をしたり、学びを深めたりなどにも使っているのですが、以前よりも余裕を作りやすくなりました。


そのおかげで、それ以来、昔から書いてきた物語で手直ししたいと思っていたものに向き合ったり、真剣に物語のことを学ぶための時間を意識的に取るようにできるようになってきました。(もちろん、楽しむための時間も!)

■夢を実現すると決めたこと

その中で昨年、私の中で封印されていた気持ちを思い出すことがありました。

海外留学のことです。

私は中学生の時から、物語、中でもイギリスのファンタジー文学にハマり、毎週のように図書館に行ってはイギリス文学の棚を目を輝かせて眺めていました。

そうして借りられる冊数を目一杯まで借りて帰ることを繰り返しました。自分の書く物語も、ファンタジー系や大人向けの童話、エンタメ小説が多いです。


ファンタジーの中でも、現代ファンタジーに影響を強く与えている、『指輪物語』(ロード・オブ・ザ・リング)の著者J・R・Rトールキンや、『ナルニア国物語』のC・Sルイスは、オックスフォードで学び、教鞭もとっていたりと、非常に文豪と縁のある大学です。

トールキンの『指輪物語』から生まれた映画


私の大学にイギリスのファンタジー文学に詳しい教授もいたことから、彼らについての話も聞き、その瞬間にものすごくワクワクしたことを昨日のように覚えています。

私も大好きな作品であり、有名なハリーポッターシリーズでも、オックスフォード大学はロケ地にもなっていますね。私にとってオックスフォードは、大好きな作品を書いた作家たち縁の、いわばファンタジー文学の聖地になっていきました。


その大学で文学を学びたいということは、いつの間にか私の夢の一つにもなっていました。

映画ハリーポッターの舞台にもなっています


しかし、教室や通信講座もあるのにどうやって行けばいいのだろうと思い、半ばあきらめていました。


一時期は留学に行くために、ある区切りで今の仕事をすべてやめてしまうことまで考えましたが、私も好きな仕事でもあり、同時にたくさんの方が楽しんで学んでくれる環境を自分の都合でやめてはいけないと思いました。

けれども、毎年作っている、私の人生の目標のような地図には、いつも必ず海外留学、中でもオックスフォード大学で学ぶことが相も変わらず載っていて、
さすがに、そろそろきちんと向き合わなくてはいけないのだと感じていました。

その中で、ある方からオックスフォード大学に短期でも留学に行けることを教えてもらいました。
また、ある先生が、大学教授として勤めながらも2週間ほどの短期留学に行かれたことを聞き、仕事を続けながらでも行こうと思えば行けること、短い期間でも学びを得られるのだと感じました。

もともとは一年くらい行かなくては意味がないように考えていましたが、ゼロか百かではなく別の道もあるのだということを知りました。

それでも、2、3週間行くには普段の仕事をどうするか決めなくてはならず、生徒さんたちに迷惑をかけてしまうことにとても悩み、やめようと思いました。以前に行ったアート旅と違って、通信の添削時期と日程がかぶっていたからです。
けれども、その時に相談した人はみんな口をそろえて「行ってきた方がいい、仕事は大丈夫。生徒さんはきっとわかってくれるから」と言ってくれました。

相談した何名かの通信の生徒さんも、口をそろえて「行ってきてください! 全力で応援します」「かっこいいです! またお話や写真をぜひシェアしてください。みんな応援してくれると思います」と言ってくれ、心からありがたく勇気をいただきました。

そう言われても、納得してくださらない方もいらっしゃるのではと、まだ迷う気持ちがありました。
でも、自分がもし逆の立場ならどうだろう? と思った時、雲が晴れていくような気がしました。


自分なら、自分が習う先生が留学に行くとしたら、心から応援すると思いました。そんな先生をむしろ誇りに思い、いろいろ教えて頂きたいと思うだろうと思いました。

反対するとしたら、きっとそれは自分にとても厳しい人で、自分も自分のやりたいことを我慢している方なのではないか。

だとしたら、そういう方こそ、私が勇気を出して挑戦する姿を見てその人も「こんな風に夢を叶えていいんだ」と思っていただけたらいいなと思いました。

そうして、行かなくて後悔するよりも、行って経験にしよう、もっと自分を成長させれば伝えられることも増えるし、どんな経験も自分次第で必ず輝いていくと思い、渡航することに決めました。

仕事も幸い、運営を手伝ってくれている先生にお願いすることができるようになり、生徒さんにもさほど迷惑をかけずに行けるということがわかりました。

通信では、数年前より、私をサポートして下さり、ことのは通信の添削で活躍してくれている豊田先生(指導免許取得者)がその期間頑張ってくれることになり、楽しんで行ってきてくださいと、心から応援してくださりました。

私が体が弱かったことで、私に何かあったら今の生徒さんに迷惑がかかることなどを想い、誰か信頼できる方に伝えておかなくてはと、もともとお弟子さんであって指導免許をすでに持っていた豊田先生に、数年前より一から通信のことをお伝えしていました。文字の事だけでなく、言葉のことや心のこともお伝えしています。

通信や私の考え方に共感してくれ、何より真面目で優しい方でしたので、この方なら大丈夫だと長い期間をかけて研修し、今では心強いチームの一員になってくれたのですが、こんなところで助けていただけるとは思いませんでした。今もとても熱心にサポートしてくださり「先生のもとで仕事ができて本当に幸せ」だと何度も言ってくださり、本当に心から有り難く感謝しています。

他にも応援してくれた沢山の方々に、心から感謝しています。
といっても、まだ行っていないのですが(笑)

勇気を出して行くと決めてからも、いろいろなスケジュール変更や事情があり、本当に行けるか直前まで迷っていました。
その関係もあり、なかなか報告も出来ずにいました。


今も、この文章を書くだけでも緊張してしまうくらいですが、

先日まで開催していた個展会場に様々な県から駆けつけてくださった生徒さんたちが、みな口を揃えてすぐさま応援してくださったことに、とても勇気をいただきました。

突然行くと知って驚かれた方もおられるかもしれません。でも、そんなに長い期間ではないので、昨年も行った海外アート旅のようなものだと考えて頂けたらと思います。 


自分の人生に責任を取れるのは自分だけであり、今私の人生にとって必要なことだと思うので、自分に出来るだけのことはして、楽しく学んできたいと思います。

このまま無事、何事もなければ(笑)、七月末ごろから八月中旬過ぎまで行ってくる予定です。

英語で学ぶのですが、普段使わないような専門用語も多いはずの授業で、どこまで学べるか、一人で大丈夫だろうかと不安もあります。

ワクワクだけではないけれど、きっと素敵なものになると信じて、心を広げてしっかりと受け取って、楽しんできたいと思います。

オックスフォードで学びを終えた旅の後半は、日本から友人も来てくれて、スペインに渡り、アートや建築など、世界的な素晴らしい作品たちなど様々なものを見て経験して、アートの知識と心の宝物を増やしてくるつもりです。そちらは一人ではないので、思い切り楽しみです(笑)


経験に勝る学びはありません
昨年の海外でのアート旅でも実感しましたが、その経験がこれからのアートや物語、生徒さんや誰かとの会話でも、必ず糧になってくれると思います。

また旅での経験も、どこかで報告出来ればと思います。
(そういえば、シンガポール、タイ、カンボジアのアート旅のことも、全然報告できていませんでした……! しまった)


文章が長くなりがちなので(笑)、またこのノートでシェアするかもしれません。よかったらフォローしてみてくださいね。
どうぞお楽しみに!

そして、これはぜひお伝えしたいのですが

やりたいことがある方は、ぜひ挑戦してみてくださいね。

はじめは怖くても、自分から一歩踏み出せば、そこには新しい世界が待っています。
そこから新しい縁が広がっていくはずです。

『ENSO - 宇宙の夜明け』Shusui Natsume
個展にて


心の声にまっすぐに進む方が増えますように。


今回は真面目なことばかり書きましたが、普段はもっとゆるーい人間です。笑
遊び心を持って、楽しくやっていこうと思っています^^

長文を読んでくれてありがとうございました!

最後に、記事が少しでも良かったなと思っていただけたら、

ぜひいいねや、シェア、ご感想いただけるととても励みになるので嬉しいです!

それではまた。

言葉で心を豊かに。
書道家・現代アーティスト 夏目珠翠(しゅすい)
Shusui Natsume

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読んでくださりありがとうございます。

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