見出し画像

私が麻雀に人生を救われた話3

―前回までのお話―

幼少期編

中学時代編

中学時代を経て、たくさんの趣味とたくさんの黒歴史ができた私ですが、卒業するまでにはそれなりに友達もできました。勉強は嫌いではなく、成績はそこそこでした。

高校受験は無事第一志望に合格し、家から自転車で20分ほどのそこそこの進学校に入学しました。

私が麻雀に人生を救われた話3
〜高校時代編〜

弓道部ってなんかかっこいいよね

なんかかっこいい」という理由だけで弓道部に入部した単細胞な私でしたが、3年の夏に引退するまでほとんど休まず部活に出ていました。弓道はやや専門性が高いので、顧問の先生の他に、地域の弓道の達人みたいな人が講師として教えに来てくれます。我が弓道部には、オオクマさんという達人が月に数回指導に来てくれていました。

オオクマさんはその名の通り、熊さんのように大柄でいつもにこやかでとてもいい人だったのですが、一つだけ難点がありました。いつもはちゃめちゃに鼻毛が出ているのです。そこそこの進学校とはいえ、あれだけの鼻毛を前にまだ高校生の私達全員がスルーできるはずもありません。誰かが「ねぇ、オオクマさんてさ、いつもめっちゃ鼻毛出てるよね…」と言い出したのを皮切りに、弓道部に第一次鼻毛ブームが巻き起こりました。(第二次があるとは言っていない)

一人がオオクマさんを「はなげんげ」という小学生レベルのあだ名で呼び始め、いつしか弓道部全員の呼び名の末尾が「げ」に変わっていくという怪現象が起きました。なおみはなおげ、よっちゃんはよっちゃげ、といった具合です。はなちゃんという名前の子が弓道部にいなくて本当に良かったなと思います。ただ一人、えっちゃんと呼ばれていたえりちゃんだけは、えっちゃげから更に進化を遂げ、最終形態が「チャゲ」になりました。これにはASKAもびっくりです。

かっこいいという理由で入ったはずの弓道部で、毛を連呼するというパラドックスはなんとも可笑しく、私が弓道部をより好きになる要因のひとつになりました。ちなみにチャゲは20代半ばに結婚し、今や2児の母です

人生の岐路にて

1年生が終わろうかという頃、私は初めて人生の岐路に立たされます。それは自分の進路を決めるというもの。2年生からはクラスが文系理系に別れるため、進学したい分野をある程度絞らなければならなかったのです。

ピアノのコンクールで賞をとっても、美術の時間に描いた絵が昇降口に貼られても、「これで食っていくのは大変だろうな」と冷静に判断するくらいに可愛くない子供だったことは、皆様ご承知の通りです。

昔から母の通院で一緒に病院へ連れて行かれることが多く、看護師という職業に憧れがあったことと、「このご時世だし、手に職をつけておこう」というこれまた可愛くない理由で、私は看護師を目指すことに決めました。この時に、3歳からずっと習い続けていたピアノも辞めました。

成績もそこそこだった私は、先生に県内の国公立大学の看護学部で偏差値上位の2校(受験には理系科目が必須)に行くといいと勧められ、2年生からは理系の特進クラスに進むことになりました。しかし、ここから私の苦悩の高校生活が始まります。何を隠そう、私は信じられないほどのスーパーウルトラアルティメット文系脳だったのです

最強のマブダチなるちゃん

理系の、しかも特進クラスに進んだことで、私のあまりに文系に傾倒した脳みそはなかなか言うことを聞いてくれなくなりました。そもそも私にとっては「弟が家を出てから5分後に走って追いかける兄」も「毎秒1cmの速さで動く点P」も絶対的に許せない存在でしたので、「定積分の漸化式」とか「多重平方根の極限」とか言われてももうチンプンカンプンなわけです。

そんな絶望的な教室の中で、私の唯一の救いとなったのが、このクラスで初めて仲良くなった友達「なるちゃん」の存在でした。特進クラスはクラス替えがないので、なるちゃんとは2年間同じ教室で過ごしました。

なるちゃんは活発を絵に書いたような、ショートカットがよく似合うボーイッシュな女の子でした。くしゃっと笑った時にのぞく八重歯が印象的で、運動神経も抜群でソフトボール部ではキャッチャーをしていました。よく喋りよく笑い、誰とでもすぐに仲良くなれるコミュ力オバケでした。
一方私は運動神経など皆無でしたし、人の顔色をうかがいながら生きているコミュ障オバケで、まさに正反対の二人です。そんな私達は話をしているうちに何故か意気投合し、休み時間や放課後もよく一緒に遊ぶようになりました。

なるちゃんとの遊びは、2階の教室の窓からピンポン玉を地面に投げつけるだとか、先生に見つからないよう死角になる渡り廊下の柱の影でバトルえんぴつトーナメント大会(参加者2人)を開催するなど、年頃の女子高生の遊びという観点からいうとやや普通から逸脱したものでした。そして私はというと、いつもばくだんいわのメガンテで力尽きていました。
真っ白な自由帳1ページに、その日にあったことと「絵だけしりとり」を書いて渡すというフリーダムな内容の交換ノートは、高校生活2年間で10冊にものぼりました

そんな破天荒ななるちゃんと過ごすうちに、私は学校でも自分らしく周囲の人と関わることができるようになっていきました。友達も増え、人並みに恋愛もして、楽しく高校生活を送ることができました。数Ⅲと数Cのテストで人生初の0点を取って白目をむいたことも、今となってはいい思い出です。

アルティメット文系脳が本気出したらこうなる

いよいよセンター試験当日。雪がちらつく中、推薦入試で一足先に合格が決まっていたなるちゃんにもらったお守りを握りしめ、試験に臨みました。持参したお弁当は、母お手製のカツサンド。母はどうやら担げる験は担いでおくタイプらしいです。

私が受験した年は例年より数学が簡単でした。いや、正確に言うと簡単だったらしいのです。周りのほぼ全員が100点や90点台という数ⅠA、数ⅡBでどちらも60点台という記録的点数を叩き出しました。震える手で文系教科の自己採点をし、国語で180点台、暗記ゲーの地理でほぼ満点をとり、無事アルティメット文系脳の名を欲しいままにしました

文系科目でなんとか点数を稼いだのでトータル的には及第点で、第一志望に無事合格し、かつての陰キャ幼児は晴れて看護師を目指す女子大生となったのです。

次回〜大学時代編〜へ続く

いつも応援ありがとうございます(∩ˊ꒳​ˋ∩)もっともっと頑張っちゃいますので、楽しんでいただけましたら是非ぽちっとお願いします♡