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美術との出会いーーモネ展に寄せて

今さらですが、大阪中之島美術館にてモネ展が開催されています。(会期は5/6(月)まで)

実は美術鑑賞が私の趣味となったのは、過去に観たモネ展で、衝撃を受けつつも心洗われる、忘れられない感動体験がきっかけなのです。

以下は、そのときのモネ展で受けた衝撃を綴ったもので、書いてそのままになっていた文章を少し手直ししたものです。

モネ展を観に行く前に、振り返りを兼ねてnoteに投稿してみることにしました。



アニメを見て育った私は、美術館に飾られているようないわゆる美術作品よりも、マンガやアニメ、イラストに興味・関心が強かった。大学入学以前はマンガのようなイラストを描くことが好きで、美術作品への関心は一切なかったといってもよい。
その頃の私が持っていた美術に対するイメージと言えば、「美術愛好家が作品をしげしげと眺めては、偉そうに評論家を気取って意見や感想を述べているような、素人が気軽に楽しんだり軽々しく近づいたりできないもの」であった。そんなイメージを抱いていたかつての私にとって、美術は堅苦しくていい気がしなかった。

ところで高校時代の私は、世界史が大好きだった。日本史も好きだった。とにかく歴史が好きだった。
歴史の試験では、必ずと言っていいほど文化史に関する知識問題が出題される。このときの私は、作者の名前と作品名を機械的に暗記していった。その際に資料集などを眺めながらこの絵は好きだとか、この人の作品は好きではないとか、多少は美術鑑賞の真似事もしていたが、あくまで試験で良い点数を取ることが私にとっての最優先事項であったのは間違いない。

時は流れて大学生のとき、私は縁あってヨーロッパを訪れた。初めての渡欧では、ドイツとフランスをめぐった。
フランス旅行とくれば、当然ながらパリのルーブル美術館を観光した。世界史で習った人物の肖像画や作品、そうでなくとも一般的に認知度が高い有名な作品がたくさん飾られていた。

今から思えばこのときは“美の鑑賞”というよりも、自分の知っている人の作品を実際に自分の眼で見られることに感動していたのだと思う。
教科書に載っていたミロのヴィーナスや数々の古代ギリシア彫刻に心を躍らせたり、実物のモナリザが案外小さいことに驚いたり、エラスムスやデカルトの肖像画がこんなところにあるとは!と小さな発見に驚いたり、宗教画の迫力に圧倒されてしまったり……。
数々の作品が並ぶ中でも、特に素敵な絵だと思って作者の名前を確認したら、ルーベンスの絵であるとわかった時は、絵画に詳しくない私でも知っている高名な画家の絵は、素人が見てもやはり目を引くものなんだなと、感心したのを覚えている。

エラスムスの肖像画
こちらはデカルト
モナリザの前だけ大行列ができていた。
ドラクロワ『自由を導く自由の女神』教科書で見た絵画が目の前に!という感動は大きかった。


この経験が素地となっていたのか今となっては定かではないが、私は帰国した2か月後に運命的出会いを果す。
この年の秋に上野の東京都美術館では「モネ展」が開催されていた。モネの絵は美術にうとい私でも知っている。よく見かける睡蓮の絵が素敵だなと漠然と思っていた。(実際に当時の私がモネの絵として真っ先に鮮明に思い浮かべることができたのは、歴史の資料集に必ず載っている「ラ・ジャポネーズ」であったが。)

その展覧会の目玉作品は「印象・日の出」であり、パンフレットにはトリミングされたこの絵が起用されていた。パンフレットを見る限り「印象・日の出」はそこまで私の好みの絵でもなかったが、かの有名なモネの絵ならば見てみたいと思い立ち、当時知り合いの中では唯一の美術系専攻であった友人を誘ってモネ展に行った。

モネ展の会場は、有名画家の展覧会なだけあって人がとにかく多かった。作品の前には数珠つなぎのように人が並んでいた。その列に私たちも加わって、作品の前に立てるときを待った。
長い列ができていたと言っても、意外なことに第一会場での列は、止まることはなくゆるゆると流れていた。はじめは小ぶりな大きさの作品が並べられていたと記憶している。しかし、どんなに小さな絵だあっても、私の目に‘まっすぐ’入ってくるのである。鑑賞者の視線をすぐに捉えて離さないのだ。作品の大きさ以上の存在感をもち、主張力のある絵画ばかりであった。私はどの作品も知らなかったにもかかわらず、一気にモネの絵画の世界に取り込まれてしまった。

次のコーナーへ移ると、今度は比較的大きな作品群が待ち受けていた。たしか睡蓮を描いた絵画たちであったと思う。様々に描かれる美しい睡蓮の池の絵画は、鮮やかではありながらも決して目に強い刺激を与えるような類のものではなく、穏やかな自然のあたたかみを感じさせるものばかりであった。
この時点で私は完全にモネの描く美しい自然の世界のとりこになっていたと思う。

一階の展示が見終わった私たちは、二階へ続くエスカレーターに乗った。次はどんな絵画が待ち受けているのだろう。期待に胸が膨らむばかりであった。
エスカレーターで二階まで運ばれた私は、ふと左手の展示スペースに目を向けた。その瞬間、私は目から脳天を打ちぬかれたかのような衝撃を受けた。薄暗い部屋の中にひしめくたくさんの人だかりのその先に、煌々と一枚の絵画が輝いていたのである。その絵だけが、その空間から浮き出しているかのような錯覚を覚えた。そして、その絵に描かれていた小さな朱色の丸が強烈に眩しく、目に突き刺さってきた。その衝撃でよろめきそうになったとき、列が動いた。
そこで我に返った私は、自分の正面方向に目を向けた。そこには「印象・日の出」の解説が大きく掲げられていた。この日の出の様子を、モネはどの場所から描いたのか、どの時刻に描いたと推定されているかということについての解説だった。

そう、私の頭を打ち抜くほどの衝撃を与えたその作品こそまさしく「印象・日の出」だったのだ。
あれほどパンフレットやポスター、展覧会のホームページなどで目にしてきたはずなのに、私は本物を目にしたときにその作品が「印象・日の出」であることを認識できなかったのである。認識するよりも早く、私はあの作品の太陽に射抜かれ、しびれてしまっていた。

「印象派」という名称は、モネの「印象・日の出」に由来するという。その理由を私は感覚的にすぐに理解することができた。
この作品は当時の絵画展に出品されたのであるが、出品されたこの絵を目にした人々は、いったいどれほどの衝撃を受け、何と思ったことだろう。そんな名も知らぬ過去の遠い国の人々の胸の内を思いやりながら、私は「印象・日の出」の目の前に立てる時を今か今かと待った。

その後もモネの美しい絵画の展示は続くのであるが、「印象・日の出」とともに特に印象的であったのは、最後の展示室であった。
モネは晩年に視力の低下に悩まされたという。それは美しい自然を描き続けてきた画家にとって、致命的な障害となったことは想像に難くない。絶望と失意の中にあったであろうモネの絵画は、若いころと同じ風景を描いているはずであるのに、線も色もなにもかもが荒々しかった。作品が、モネの魂が、絶叫しているようであった。
つい先程まで若い頃の美しく、繊細に色が重ねられた絵画を見てきた私には、晩年の作品にモネの絶望や恐怖といった苦しみの感情が如実に表れているように感じられ、胸が詰まる思いであった。


作品を全て見終えて会場を出た私は、短い時間の中で、一人の画家の一生を覗き見たような感覚を抱いた。モネの描いたどの作品にも強い力がこもっていた。それらを一身に浴びて、私の心の中はいっぱいいっぱいだった。ただしそれは決して私の心を打ち負かすようなものではなく、むしろ日常の雑多な物事に追われてかさついていた心が、一気に清流で洗い流されたかのような感覚を伴うものであった。

展覧会の帰り道、友人に「すごかったね」と一言つぶやくことが、その時私ができる精一杯だった。展覧会で見てきたものを整理して、その感慨を言葉にするには、もっと長い時間が必要だった。
私は言葉にならない美しい光を、大事に大事に自分の心に抱え込みながら友人に別れを告げ、帰りの電車に乗り込んだ。電車の窓に、夜の街の明かりが流れていくのをボーっと見遣りながら、頭の中では何度も何度もさっきまで見ていたモネの作品たちを反芻して、耽美な世界に浸ろうと努めた。私はモネの作品が私に残した光を、こぼして失くしてしまわないように全身で抱きしめていた。

会場の出口付近にあった、唯一写真撮影可だった田辺誠一さんのイラスト


あれから幾年かの月日が流れたが、「モネ展」以上に衝撃を受けた展覧会に、私は未だ出会えていない。それはモネ展が私にとって初めて自分の意志で訪れた展覧会であったことや、ミュージアム訪問を重ねていくにつれて私の目が肥えてしまったり、なんらか美術鑑賞に対する耐性のようなものがついてしまったりしたことも、関係しているのかもしれない。
しかし、人生の中であのような感動体験をすることができたのは、私にとって大きな財産であることに違いはない。

また、モネ展での衝撃という美術との奇跡的な出会いによって、私が自分の人生の支えと、心の豊かさの源泉となる美術という癒しを得ることができた事実も疑いようがない。

美術の価値や良さを、かつての私のように知らない・知ろうとしない人は一定数いるだろう。それを非難する気は私にはないし、美術に関心がない人に、あえて美術のすばらしさを説くこともしない。美術との邂逅は、個々人がそれぞれにストーリーを持つものであって、私が思うところの美術のすばらしさを彼らに力説しても、それを体感したことのない人には恐らく正確に伝わることはないし、理解できないと思うからだ。
ただ、余計なお世話に過ぎないとしても、未だ美術の魅力を知らずに生きている人たちにも、何らかの形で美術との素晴らしい出会いがあることを祈るばかりである。



これを読んで、当時の私は(今より若干とがってることはいておいて)、美術の素晴らしさについて語ることに、かなり消極的だったんだなと思いました。でも今の私は、押し付けがましく語る気持ちはないにしても、このnoteという場では、機会があれば美術作品に対して自分が感じたことや考えを、言葉にして発信してみようと思っています。

それは、ほかの方々の感想を読んだときに「面白い!」と感じることが多かったからです。だからこそ今回の文章をアップしたわけでもありますが、今後もときどき書いていければと思います。


※挿入した絵画は私がスマホで撮影したものです。中には斜めから撮影したものもあり、縦横比を編集して正面を向くように加工しております。額縁が歪んでいるものはそのせいです。ご了承ください。

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