この度、わたくしの念願だった、ペットロスの方向けの本を出しました。 亡くなったペットと交信するチャネラーさんや、獣医さんにも寄稿いただき、ペットロスの方を少しでも笑顔にできるようにとの思いで出版しております。 応援いただけましたら、大変ありがたいです🙏 【本日の抜粋】 『飼い主さんの愛情が深かった分だけ、ペットたちもそれに応えるように深く感謝して、お空に旅立っていきます。この本を通じてそういったことを是非知っていただきたいと思った次第です』 Am
わたくしたちの外側の世界は、 わたくしたちの内側の理解で 創られています。 外側の事実はひとつでも、 内側の理解や解釈は、 観ているひとの数だけある、 ということ。 それは、すなわち、 同じものであるにも関わらず、 結果として、違うものである、 ということと、 実は、何らもかわりません。 例えば、 飛行機というものは飛行機、 であることに間違いないわけ ですが、 翼やタイヤといった部品だけ では、飛行機とは言いません。 それでは、 どれほ
「失言」というものは、 心の中で思っていたことが、 口をついて出ることを言うの です。 「そんなつもりはなかった」と、 よく言い訳を聞きますけれど、 心の中で思っているからこそ、 言葉として出てくるわけです。 失言したひとは、 「どうしてあんなことを言って しまったのだろう」 と反省するのですが、 反省の本質はそこではなくて、 「どうしてあんなことを思って しまったのだろう」 と、まずそこを反省するのだ、 ということなのです。 感謝、合掌 慈永
あのね、 車だろうが、 ひとだろうが、 むやみやたらと急ぐことなく、 自分のまわりにも目を配って、 丁寧に丁寧に過ごしておれば、 本当に止まらなきゃいかん時、 ちゃーんと、止まれるのだ、 ということなのです。 感謝、合掌 慈永
「人目」 というものがございますから、 ひとと接する時の態度を観て、 その人柄を判断することには、 あまり意味がありません。 むしろ、 物と接する時の態度を観て、 その人柄を判断する。 物を乱暴に扱うひとは、 ややもすると、 ひとも乱暴に扱います。 物へ丁寧に接するひとは、 ひとにも丁寧に接する。 そういうところから、 ひとというものを見極める、 ということなのです。 感謝、合掌 慈永
わたくしの人生において、 非常に大切だと思っていること なのに、 それがなかなか実現しない理由 は、 非常に大切だと思っていること を、 わたくしの人生、 そのど真ん中に置いた生き方や 生活をしていないからなのです。 感謝、合掌 慈永
世の中で、 「寛容」 と呼ばれるひとの中には、 自分と比べて、 相手の地位や能力が劣っている、 すなわち、 その相手といると、 自分が優越感を感じられる存在 だからこそ、 「寛容」でいられる、 というひとも少なくないのです。 こういうひとの「手のひら返し」、 ものすごく痛い目にあうので、 よーくよく、 ひとを見極める目を磨くのだ、 ということです。 感謝、合掌 慈永
人間にとっての一番の不幸は、 「幸せになること」 ばかりに目を奪われて、 「幸せであること」 に気がつかない、 ということなのです。 感謝、合掌 慈永
「他人から頼りにされていない」 そのように思える時には、 「自分が自分を頼りにしていない」 と気づくことです。 「他人から嫌われている」 そのように思える時には、 「自分が自分を嫌っている」 と気づくことです。 「他人から大切にされていない」 そのように思える時には、 「自分が自分を大切にしていない」 と気づくことです。 周りが原因じゃないんだなぁー、 すべて自分、 自分が変われていないから、 どこへ行っても、 何をやっても、 昔と同じような
自らの思いのままに生きよう、 心からそう思っているならば、 何よりも、 他人さまの思いを大切にする、 ということです。 「えっ?、ちょっと意味がよく わかりませんが、、、」 自らの思いのままに生きる、 それを成し遂げようとする時、 邪魔するものがあるとすれば、 「他人さまの思い」だけなのだ、 ということに気づくことです。 そうであるならば、 わたくしの、 「思いのままに」口に出す、 「思いのままに」行動する、 万一、そういうことにより、 他人さ
29,200日、 人生、 80年とした時の日数です。 いま、55歳だとすれば、 残りは、25年、 9,125日。 ね、 数えるほどしか生きられない のが人生、 毎日毎日どう過ごしますか?、 ということです。 感謝、合掌 慈永
仏教には、 「十善戒」 という教えがございます。 「殺さない」 「盗まない」 「ひとの道に外れない」 「嘘をつかない」 「心にもないことを言わない」 「悪口を言わない」 「筋の通らないことを言わない」 「貪らない」 「怒らない」 「邪にものごとを見ない」 以上、十の戒めですが、 何かに気づかれましたか? はい、 これならば、 「十善戒」ではなくて、 「十戒」でいいわけです。 なぜに、 「十善戒」という教えなのか? ということです。
この世の、 ありとあらゆるものごとは、 すべて意味があって生まれて くるわけです。 「善」は、「悪」を識るために、 「悪」は、「善」を識るために、 「正」は、「誤」を識るために、 「誤」は、「正」を識るために、 「対極」というものは、 お互いがガチャンとぶつかる ためにあるのではなく、 お互いを深く識るためにある。 そういうことに気づき始める と、 何ひとつ変わっていないのに、 がらーーーっと、世の中が、 変わって観えるようになるの です。
ひとにとって大切なことは、 「いまを生きる」 ということです。 「何ですか、それ??? みんな、いまを生きてますよ」 本当にそうでしょうか? 過去のことに思い煩わされて はいませんか? 将来のことに振り回されては いませんか? 「いまを生きる」という、 まことの意味は、 過去に縛られず、 将来に脅かされない、 そういう生き方を言うのです。 「あの失敗さえなければ」 「もっとお金さえあれば」 ひとのしあわせというものは、 何か条件をつけた段階で
ひとというものは、 奢り高ぶる生きものです。 そうであるからこそ、 謙虚に生きなければならない。 ひとというものは、 幸せに慣れてしまう生きもの です。 そうであるからこそ、 感謝をしなければならない。 ひとというものは、 勘違いをする生きものです。 そうであるからこそ、 誤りを正さなければならない。 ひとというものは、 間違いを犯す生きものです。 そうであるからこそ、 謝罪をしなければならない。 ひとというものは、 ひとというものは、、
「中庸」 というものを 「真ん中」や「平均」のように 思っておられる方も多いわけ ですが、 もともとの意味は 「極端な行き方をせず穏当」 「片寄らず中正」 なのであって、 必ずしも 「真ん中」ではないわけです。 上下、 左右、、 前後、、、 軸と軸の両端を見極めながら、 バランスの良いところを探る。 大きく偏っている状況ならば、 あえて、こちらも偏ることで、 バランスを取ることもある、 ということ。 陰極まれば、陽となり、 陽極まれば