【エッセイ】本質について(1000)
物事は根幹をなす「本質」とそこから派生した「末梢」から成り立っているという考え方がある。「末梢」は少しわかりにくい言葉なのでよく使われる言葉なら「枝葉」と表現される。同じ意味だ。
つまり。物事を「木」にたとえている。
木にとっては「枝葉」も大事である。なぜなら木は葉がないと光合成できないし花が咲かないと実がならない。生きていけず次世代に自分の子孫を残せない。
この説はそう言う意味で物事を「本質」と「枝葉」にわけることではない。物事を捉える時に「枝葉」にばかり気が取られていると「本質」を見失ったり、大事な「本質」を理解ができなくなってしまうという否定的な意味で使われる時の観念である。
たとえば。
幼いこどもがふたりいたとしよう。AちゃんとBちゃん。ある日、AちゃんがBちゃんを叩いて泣かせてしまった。
ここでの教育の本質は「なぜAちゃんは暴力をふるったか考えてから叱ること」である。
枝葉はもちろん「暴力をふるったAちゃんが100%悪く、咎めるのはAちゃんだけ」ということになる。
人は過ちを犯す生き物ではあるが教育現場の現状はこうである。人手不足の側面は大きいとしても子を預ける親としてはもう少し先生のスキルアップに期待し🐭。
余談だが「今の現状」と「頭が賢い」って言う人が苦手でその表現が気になる(これは末梢かもしれぬ🤭)。
話を戻すと。
もしかしたらBちゃんが叩かれても仕方ないくらいの悪口をAちゃんに言ったかもしれない。あるいは普段からふたりには確執があり何かのきっかけで暴力となって表出したのかもしれない。
先生や親になった気持ちになって考えてみて欲しい。
Aちゃん、Bちゃんのお互いがこのことから何かを学び取るように導くのが優れた教師や親である可能性が高い。
紙の本を出す大学の先生のような偉い人が「現代の問題の本質は数々の事象が複雑に絡み合い過ぎていて、切り分けたり理解したりすることは不可能だ」ってことを本に記していることがよくある気がする。そしてほとんどの知識人がそう捉えているように感じる。
しかし、そうやって諦めることは果たして正しいことなのだろうか。複雑に絡まり合っているからと言う理由だけで難しい問題を棚上げしていいってことにはならない。第一そのために知識人がいるのではないのか。嘘でいいから何か回答を出さなきゃいけない。嘘とまでも言わないくても、どこかの側面からだけでも答えを出す必要がある。
それだけが知識人の使命であると私は思う。
追伸
最近のエッセイの題材は相互フォロワーみかんさんとnoteでの返信やりとりに起因することが多いです。今回のヒントになったコメント欄はこちら💁(みかんさんには無断転載)
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