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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(11)

第三章(八)

 その消息は突然、もたらされた。
 蒜田監督夫妻の養女・星香が行方不明になってから五年くらい経った頃のことである。
 ある朝、蒜田家の電話が鳴った。妻のはるこ夫人が大急ぎで受話器を取った。この日は家政婦さんが休みだったが、彼女の出勤日でも電話は必ずはるこ夫人か監督自身が取ることになっていた。娘からではないかと思うからである。
 海辺で姿を消した娘の遺体は未だに発見されていない。そのため、夫妻は、娘は生きているのではないか、記憶を失くしたまま、日本の何処かで暮らしているのではないかと思っている。記憶が戻った時、娘はきっと自宅に電話を掛けて寄越すだろうと確信している。「今、駅に着きました」
二人は娘のこの言葉を待ち続けている。
「もしもし、はるこさん」
 受話器から聴こえた声は残念ながら娘の声ではなかった。
「まあ、ケンちゃん。久し振りね」
 声の主は二人の大学時代の後輩・九東健吾(くとうけんご)、通称クトケンだった。
「本当ですね。監督も御在宅ですか?」
「ええ。今日は高校の演劇部の指導もないので家にいるわ」
「ああ良かった。これからお宅に伺います。午後からお出かけの予定なんて無いですよね」
「無いけど。随分、急なお出ましね」
夫人は冗談めかして応える
「はい、どうしてもすぐにお見せしたいものを入手したのです。では、後ほど」
 こう締めくくってクトケンは電話を切った。

 間もなく、蒜田家のチャイムがなった。
 はるこ夫人はすぐにドアを開けた。
 そこにはスーツを着て大きめのショルダーバックを担いだクトケンの姿があった。
「お久し振りです」
 青年が頭を下げると
「何か急ぎの用事みたいね。とにかく入って頂戴」
とはるこ夫人は彼を室内に通した。
「クトケンか、元気だったか」
 居間に入ると監督が寛いでいた。後輩の九東は気を使う相手ではないので応接室ではなく居間に通されたのだ。
「はい、先輩」
と応えながらクトケンはバックから何かを出そうとしていた。
「この部屋にはビデオデッキがありましたね。ちょうどいい」
 彼が取り出したのは三本のビデオテープだった。
「先輩、とにかく見て下さい」
 後輩は慌ただしくテープをデッキに入れて再生ボタンを押した。
「はるこさんも座って」
 ビデオの前に座った三人は画面に注視した。
 画面には、まずハングル文字があらわれた。映画かドラマのタイトルのようである。続いて白い朝鮮の民族服をきた少年が登場した。彼の顔がアップになった時、夫妻は叫んだ。
「星ちゃん」
「星香!」
二人の反応を見たクトケンは
「そうですよね。この子は星香ちゃんですよね」
と確認するように言うのだった。
「いったい、君はどこでこれを手に入れたんだ?!」
 監督の口調は詰問調になった。
「平壌ですよ」
 クトケンは、ビデオテープの入手経路を話し始めた。

 2週間前、彼は北朝鮮に行った。数ヶ月前、知人に北朝鮮への訪問団が定員割れしているので、ゼヒ参加して欲しいと頼まれたからである。ちょうど仕事が入っていない時期だったので参加してもいいと応じた。有り難い事に費用は全て先方持ちということも参加の理由の一つだった。
 クトケン自身は北朝鮮について特に関心もなく知識も無かった。団体の観光旅行のつもりで旅立ったのである。
 日本から北京を経由して平壌に到着した彼は、その瞬間から驚いた。
 まず空港で“日朝友好”と漢字とハングル文字で書かれた横断幕を掲げて記念撮影をさせられた後、招請団体の出迎えを受けた。そのままバスに乗せられ、彼らの案内で市内観光をした。夜は歓迎宴会に参席して、その後は滞在するホテルに行った。
 翌日からバスに乗せられて、あちこちの名所、旧跡巡りをしたのだが、修学旅行以上の慌ただしさで連れまわされたため、ほとんど印象に残らなかった。その間にイベントらしきものにも参席させられ、何か体よく利用されている感じもした。ただ、日本ではほとんど食べられない朝鮮の高級料理を食べられたのは良かったといえるだろう。
 そうこうしている内に旅行の最終日の前日となった。その日の夜はショーを見ながらの夕食会が行なわれた。場所は市内の迎賓館のようなところだった。
 舞台ではマジックや舞踊等、さまざまなショーが行われていた。そのうち女性歌手のステージになり、日本語の歌が聞こえてきた。その声には聞き覚えがあった。
 クトケンは小型録画機を隠し持って舞台に近付いた。歌手の顔を見て驚くと同時にやはりそうかとも思った。
「星香ちゃん!」
 内心でこう叫んだ彼は、こっそりとビデオを回した。そして、より舞台に近付こうとして係員に制止された。
「あの歌手に会いたい」
彼は日本語と片言の英単語を並べて係員に言ったが拒絶された。
 諦めきれない彼は、彼女のステージが終った後、すぐに楽屋を訪ね、彼女に会わせてくれと頼み込んだが、拒まれた。
「あの娘は駄目です。他にいい子はたくさん居ますよ」
 楽屋の出入口にいた男は意味有り気な笑顔で、日本語で言うのだった。
 夕食会が終わり、ホテルの部屋に戻ると間もなく彼の部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「ルームサービスなんて呼んでいないのに」

 クトケンがドアを開けると若い娘が立っていた。
―あの男、何か勘違ったみたいだ。
「部屋を間違えたのでしょう? 私は君に用事は無いよ」
 彼は日本語で言った後、簡単な英語でも同じことを繰り返した。
「いえ、九東さまのお部屋に行くように言われました」
娘は、アクセントはおかしいが正確な日本語で答えた。
「私は君には用がないのでお帰りなさい」
と彼が言うと娘は
「このまま帰ると叱られるのです」
と泣きそうになった。
 気の毒になったクトケンは、こう言った。
「分かった。では一緒に食事をしよう。このホテルの地下にはレストランがあるようだから」
 こうして二人は地下のレストランに行き、食事をすることになった。
 日本のファミレスを思わせるレストランの内装にクトケンはほっとした。連日、高級な場所での食事ばかりで少々疲れ気味だったのである。
 テーブルの上のメニューを見ると焼肉等の朝鮮料理の他に、ハンバーグやオムライス、カレーライス等のいわゆる洋食もあった。
 彼はハンバーグとパン、サラダ等々を注文した。
 すぐに料理は来た。
「さあ、食べて」
 娘はテーブルの上の箸を使って食べ始めた。日本同様、箸もあるとは気の利いた店だなとクトケンは感心した。彼自身も箸を使う。
「うまいだろう?」
 娘は頷きながら美味しそうに食べた。
 食べ終わるのを見計らって飲み物を注文し、そして、娘に訊ねた。
「さっきの舞台で歌っていた女の子、知っているかい?」
 運ばれてきたジュースを一口飲んだ娘は答えた。
「金輝星のことですか?」
「あの娘の名前はキムヒソンっていうのか。どんな娘なんだい?」
「もと中央芸術団の女優です。それ以外は知りません」
「そうか…」
 その後は他愛も無い雑談をし、デザートを食べて店を出た。
 彼が会計をしている時、娘とレストランの従業員が言いあっている声が聞こえた。
「どうしたんだい?」
 クトケンが娘に訊いた。
「これ買おうとしてお金払おうとしたけど駄目だって言われました」
「どういうことだ?」
 彼は今度は従業員に訊いた。
「当店では人民元か日本円しか使えないのです」
「そんな!」
 自国の紙幣が使えないなんて。娘の手にはこの国の紙幣が何枚も握られていた。
 娘はカップ麺を買うつもりだったようだ。家族への土産にするつもりだと言った。
 彼はカップ麺とそばにあったレトルト食品を十個ほど買うと言って先程の食事と合わせて支払をした。
 袋に入れられたカップ麺を見ると、ハヤシ食材と書いてあった。
「この店はハヤシ食材と関係があるのですか?」
 彼は会計をしてくれた従業員に訊いた。
「はい、ハヤシ食材が経営しています」
 そうか日本の店なのか。彼は納得した。
 クトケンは食堂で買った品物の入った袋を渡して娘と別れ、自室に戻った。

 翌朝、昨夜、公演場の楽屋入口にいた男がクトケンの部屋にやって来た。
 彼は「ビデオテープを買いませんか」と言いながら、テープを部屋にあったデッキに入れた。
 朝鮮の時代劇のようなものが画面に映し出された。間もなく、少年姿の星香が出てきたのである。クトケンは画面に見入ってしまった。
「如何ですか? 五万円でいいですよ」
 男は法外な値段を言ってきた。クトケンは黙って画面を見続ける。男はそれを拒否と受け取ったのだろうか、
「三万円でいいです」
と値引きしてきた。クトケンが応じないので
「ではもう一本加えて二本で三万円では、どうですか」
と言った。クトケンはやっと返事をした。
「買うよ」
 実は画面に見入っていた彼は、男の存在をすっかり忘れていた。三万円と言われた時、我に返り応えたのだった。
 帰国したクトケンは自宅に戻らず、荷物だけを送り、自身はテープを持って蒜田家に直行した。一刻も早く夫妻にテープを見せるために。

 クトケンが話し終えると、時代劇は終っていた。彼は、別のテープをデッキに入れ、再生ボタンを押した。
 画面に軍服姿の娘が登場した。
「星香だ!」
「ええ、間違いなく星ちゃんよ」
 コンサートのビデオのようで、画面の娘は次々と様々な曲を歌った。夫妻はじっと画面を見つめている。
 これが終ると最後の一本をデッキにいれた。クトケンが撮ったものだ。隠し撮りだったので画像は今一つだった。
「確かに星香だ」
「星ちゃん…」
 全てのテープを見終えた監督は言った。
「この娘は何処にいるんだ。今すぐ迎えに行かなくては」
「そうよ、ケンちゃん。星香のところに案内して」
 掴みかからんばかりの夫妻をひとまず落ち着かせたクトケンは、
「まず、北朝鮮に行って見ましょう」
と提案した。
 日本から北朝鮮には簡単に行かれない。クトケンが参加したような訪問団で行くのが一番簡単そうだったのでそうしたものを探したが、この時期には無かった。
 三人は関係部署を探しまわり、北朝鮮行きの団体を見つけ出し、入れてくれないか頼んだが駄目だった。
 また、観光ツアーなるものを発見し申し込んだが、何故か蒜田夫妻だけ入国許可が下りず参加出来なかった。こうしたことは、以後、何回もあった。
 そうしたなか、蒜田家に空き巣が入り、星香が出ているビデオテープが盗まれるという事件が起こった。
 三人は、誰かが蒜田夫妻を“金輝星”にあわせないようにしているのではないかと考えるようになった。それは、平壌にいる金輝星は輝田星香であることを示しているようだ。
 星香は生きている。彼らは安心すると同時に何としても彼女を日本に連れ戻さなくてはと決意するのだった。


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