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「されどわれらが日々――」柴田翔著を読んで


柴田翔の滋味あふれる文章に私はかつて気づかなかったのだ。「そうね、そういうこともあるわよね」という自分の同棲時代を回顧するような感想しか十数年前には抱けなかった。青春時代の何たるか、学生運動の何たるかを知らず、物語の解像度が低かったのだ。その間どういう新たな経験をしたというわけでもなくただ馬齢を重ねただけの私に彼の文章の豊かさが染み渡るのである。

大江健三郎の帯文はこう書いている。「そして今日の日本文学は この真摯な秀作を必要とするばかりか この作品に別れを告げ 現実と未来にむかって確実な歩調であゆみでる作家・柴田翔を必要とする」

そして小説のタイトルの「日々」に込められたある種のノスタルジーとともに、日本の「政治の季節」は過ぎ去り二度と戻ってこなかった。かつ、「未来にむかって確実な歩調であゆみでる作家・柴田翔」は文壇には現れなかった。時代はしらけ世代を通過しポストモダンへと雪崩れ込み、しらけ世代からは中沢けいがポストモダンからは島田雅彦が時代に先駆けて輩出し、柴田翔は決定的に自分の時代は過ぎ去ってしまったことを悟ったのであろう。

大江健三郎も称える端正な文章は中沢けいには引き継がれているが、中沢のある種価値観が破綻しているところはすでに「政治の季節」が破綻したことを物語っているのだろう。そして島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」に至っては左翼の末裔でありながら異端の烙印を押され、ポストモダンの浅田彰に救われたという経歴からも柴田翔の系譜には入らないのかも知れない。(私は類似点に惹かれるところはあるが)

補足すると、柴田と中沢の間に桐野夏生がいるし、村上春樹もいる。数多の小説家が存在するが、系譜から言うと柴田の系譜は桐野に引き継がれたのであろう。柴田翔は1975年を境に執筆活動を休止し、2017年に再開している。1935年生まれの柴田は82歳で執筆再開し、2018年には「岬」という短編集でアマゾンで星五つを獲得している。私は文芸批評できるほど読んでいないし比較できるほど造詣が深くないが、村上春樹はその系譜に入らない独特のスタイルのような気がする。

本文に戻り、気になった記述があったので書き写す。「六全協の決定は、ぼくら(佐野)がそれまで信じてきたもの、信じようと努力してきたものを、殆ど全て破壊しただけではなく、その誤ったものを信じていた、あるいは信じようとしたぼくらの努力の空しさをはっきりさせることによって、僕らの自我をも、すっかり破壊してしまったのです」

このことは二つのことを思い起こさせる。一つは大日本帝国が戦後日本になって教科書を墨で黒塗りにしたこと。尋常小学生だった私の父はその時のショックで生涯信じるものを持ち得なかった。二つ目は現代の共産党でも共産党が生き抜いていくためには「信じる人」ではなく自らが考えそして党を作っていく人の集合体にならなければ六全協で若者を失望させたようなことが起こり得るのではないかと思うこと。と書いたら上記の六全協について懐述した佐野が同じような趣旨のことを述べていた。

「信じることは楽だからね」と曽根は言い
主人公は「私は、曽根とは違うやり方だったが、やはり、信じることを拒否し、曖昧さを憎んで暮らしてきた」と述懐する。

「だが、もしかしたら佐野という男の生は、慎重とか選択とか、あるいは生き方ということにすら、何の関係もないような生、それ以外ぬきさしならない生だったのかも、あるいは死だったのかも、知れない」と主人公文夫は言う。

遺書をかいつまんで言うと、血のメーデーと言われた日に佐野は細胞のキャップとして怖気づく下級生をアジって鼓舞して警官隊と揉みあいになった。そのとき一瞬恐怖を感じ、その恐怖にたちまち包まれていたたまれなくなりプラカードを投げ捨て逃げ去ってしまった経験が、彼にとって「裏切り」として心を苛み苦しめたということであった。そして、彼は自分が死ぬとき何を思い起こすのかと考えたとき「裏切り者」という言葉が浮かび、恐怖におののいたのである。

この小説を読み進んでいくと、佐野の死の意味、主人公の婚約者の嫁ぐ者の空しさ、共産党という組織のもつ性質、など自分の無知を知ることになる。

百円均一の古本から選んだこの本の見た目は古びた紙の束に過ぎないが、そのうちに瑞々しくも傷つきやすいあの時代の精神が、今はもう無いといってよい誠実さが、知性の発露があることに畏れを抱いてしまう。幸い重版を重ねているようだが、絶版で百円均一から救い出されなければ、永遠にその精神は継承されないのだ。

しかし、浮遊しているように生きている私から見るとある立場を取るということは(現在でも)相当な覚悟の要ることなのだ。そして取っている立場が異なるから対立も生まれ、対話も生まれる。そうして対立の果てに赦せないこともあり、しかし、そこには佐野が赦せなかった相手の曽根宛に長い遺書を書いたように濃密な人間関係が存在しうるのだ。

主人公の婚約者節子の言葉にもそれが現れている。「生きるって、やっぱり、どこか、怖いところがあるわね・・・」

この小説は東大生の青春群像である。私とは一歩も二歩も秀でた人たちの青春は剃刀のように鋭い。佐野も文夫も人生の意味が判らないのだが蒙昧で判らないのではなく人生を見通し世界の中で自分なりの居場所とささやかな幸福を手に入れようとしている彼らを襲うのは死すべき人間の虚無なのだ。その虚無から逃れる術が判らないのだ。佐野は栄光を欲する自分に裏切られ虚無に捉えられ自殺をする。曽根だけは現実と格闘することで虚無から逃れられているように見える。

主人公の文夫は受験中の勉強による陶酔から醒めて駒場に入学したころから生きている実感がしなくなっていたのだ。それは燃え尽き症候群とも五月病とも世間では言われるが、その生の実感を求めて石川啄木のように、太宰治のように女性たちを渡り歩いていた。

優子は欲望に忠実に文夫と交わったが、妊娠中絶をし本当は欲望ではなく愛が、家庭が欲しかったことを手紙で述懐して自殺する。優子の自殺を知り深い悔恨と自己嫌悪の中に文夫はまた生の充実を味わっていたが、落ち着いて見るとその後の文夫は心が震えることも充実することもなくなった。内側が虚無で満たされたら外側を固めてなんとか生きていこうと考え、平凡な日常を送ることを心に誓い、それまでの放蕩を改め、真面目な節子と人生を共にすることを決心する。ところがささやかな幸福を掴もうとして掴み損ねる文夫であった。

優子の純粋な欲望だけが信用できるという言葉はどこかで読んだことがあると思ったが、中沢けいの「水平線上にて」の主人公だった。

男性は欲望の解消の仕方はいろいろあるが、女性は欲望を自覚しても、男性に抱かれなければならないという制約がある。しかも、女性の場合欲望は非常に曖昧だ。抱かれたいということはセックスをしたいということに直接結びつかないし、愛されたいと願うこともセックスとは直接結びつかない。愛されて、抱かれたその先のセックスなのだ。

そして幾度となく文夫(主人公)は呟く。「それは少し退屈だった。が、それが幸福というものだ」

節子は文夫のもとを去り分厚い手紙を認めた。その中で文夫との縁談がくる前に、学生運動の中で恋をした人がいたこと。その恋した人を神格化していたこと。
六全協で彼女はこう述懐している。「従ってあの夏、党の無謬性が私たちの前で崩れて行った時、私たちの中で同時に崩れて行ったものは、党への信頼であるよりも先に、理性をあえて抑えても党の無謬性を信じようとした私たちの自我だったのです」。
「そうした理論の名を借りた大仰な理屈に脅かされて、眼の前に存在する事実を健全な悟性で判断することをやめてしまった私たちには自我と呼ばれていいものがあったと言えるでしょうか。その時、私たちにつきつけられたのは、私たちには自我が不在であること、私たちは空虚さそのものであるということでした」。

ここに節子は大切なことを書いている。「眼の前に存在する事実を健全な悟性で判断することをやめてしまった」のは文夫ではなかったのか。眼の前に生きている節子を見ることなく、自らの伴侶という形の中でしか捉えられなかったから、彼女は離れていくしかなかったのではないか。

「それでもいいから、あなたに、自分の前にいる私というものに我を忘れてもらいたかった」。

文夫との心が通わないこと。「文夫自身」を抱こうとしても「文夫の身体」を抱くことしかできない哀しさ。

野瀬さん(節子の恋人)の眼差し、それは、あの晩のあなたの抱擁が決して与えてくれなかった眼くるめくような官能の歓びでした。

文夫との結婚は二人にとって死(空虚)に満たされた生活であるだろう。

節子「私たち人間の生活は、いつも、何の意味も持たない茫漠とした世界の淵にさらされていて、ともすればその果てしのない深みと拡がりの中へ落ち込んでいきます。(中略)が、私たちはそれでもなお、自分の生活に意味がない事象の継起でしかないことには堪えられません。(中略)そこに単なる時間の流れではない歴史と呼ぶにたるものを生み出したいと願ったからであり、更に、それによって私たちははじめて、私たちのまわりに拡がるこの無限の空間、私たちをやがて死の中へ消して行くだろうこの無限の時間に堪えることができるかも知れないと感じたからに他なりませんでした。」

節子「私がが無であり、あなたを変える契機たりえなかったことを、すでにその時はっきり知っていた」ので「文夫さん、私はこうしてあなたから離れようと決心しました」。

「もし人の心にそうした自分さえ知らないひそかな願いが育ち隠されているとしたら、それこそが人間の宿命と呼ばれるべきではないでしょうか。」
「私のことを判って頂けるのは、ただあなただけなのです。(中略)いつか、私が自分の生活を見出した時、それを告げ知らせたい人は、ただあなただけなのです」。

こうして、節子は日常を捨て、未知の世界に旅立った。五木寛之の「青年は荒野をめざす」の出版に先立ち、柴田翔は死んだような日常から生きようともがき未知の土地へと旅立つ青年の姿を描いていたのだ。
それにしても、この生き方は流行になり、フォーク・クルセダーズのヒット曲にもなり、ATG映画でも青年は必ず日常から逃避するなど、随分消費され手垢にまみれた感があるが、この小説の発表当時は清冽な展開だったのだろう。

残された文夫の後日談。結婚間近の曽根が言う「でもね、惚れるってこと、あるいは惚れたと自分で認めるってことは、つまり、そういうことなのではないかと思うんだ。(中略)そこに自分とは違った望みを持っている奴がいて、そいつと自分が関わり合ってしまっているってことを認めること――自分が事実そういう事態にいるんだから、生きるってことは、結局その事態を認めるってことになるんだよ」

自分の世界から抜け出ようと試みた節子を文夫は別離の悲しみの中でさわやかに称える。
もし一人の人間の行為が、自らの意志によって決定されるようにみえて、その実それほど多くの人々の願いあるいは怨恨をうしろに背負っているものであるとしたら――、もはや、それが幸であろうと不幸であろうと、彼にその行為を拒否することはできない。(中略)人は生きたということに満足すべきなのだ。〈読了〉

【拙い感想】
文夫は当事者ではなく常に観察者であったが、節子の別離と自立によって自らの生が虚無ではなく数多の仲間との関係によって「存在する」ということを肯定するようになり彼自身の人生を歩み始める。
この時代から70年代くらいまでは「われら」という同時代意識が存在していた。しかし、日常の耐え難い虚無はこの時代の価値観の現れであったように思える。カフカの「異邦人」の不条理にも似た虚無による感情の摩滅。そこから這い出ようと多くの若者がもがいたのだ。
その耐えがたい退屈な日常を手軽に満たすものとしてテレビが現れ、ゲームが出現し、スマホが皆の虚無の時間を吸い取っていく。
ところが、ウクライナやガザ地区の戦争を目の当たりにすると、虚無と思えた日常に意味が込められ、日常こそ至高の価値のあるものだと逆説的に感じるのである。
柴田氏の近年作も拝読し、変化の激しかった時代をどのように理解し、どのように生きてこられたかを知りたいと思った。

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