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「間(マ)」とは何だろう

前回「〜っぽい」「〜っぽさ」について 
noteに書いてみたが、
書いていたら益々「間(マ)」の正体が何なのか気になってきた。


音と音とのあいだ、
物と物とのあいだ。

そこには何も無いのだろうか?
見えないけど、聞こえないけど、
何かがある(居る)のだろうか?

古代の日本人から伝統芸能の世界へと受け継がれた『間』という概念は、空間を埋め尽くす西洋音楽によって、失われつつあるのかもしれない。

そもそも『間』は手に取れない、
感じるのに形としては見えないし、聞こえない。

見えないし聞こえないものをどうやって教えられたのか、今思うと不思議である。

たしかに『間』は存在していて感じる事が出来る。
それは、何故なのか。

『間』は、日々のお稽古だけでは習得出来ない。

日々のお稽古では、「ここには『間』がありますよ、音を鳴らさないでね」という約束があるだけで本来の『間』は存在していない。

『間』を見える化するには、
『本番』という舞台が必要になる。

『本番』という場の『緊張感』が加味される事によって『間』が出現する。

その日の天気や湿度、話し声、咳払い、小さな物音や全体が静かになるのにかかる時間、
その日によって変わってくる様々な条件、
その条件が加味される事で『間』の輪郭が浮かび上がってくるのだ。

東洋の『間』と西洋の『間(拍)』が与える脳への影響を調べたら、とある記事では脳の差違が感知され、邦楽にしか鍛えられない脳の部分があるとの事。

具体的に細かな内容について書かれていないのが残念だが、脳科学の専門用語付きの解説を聞いたとして、私に理解出来るかは甚だ疑問ではある。

『見えない聞こえない物』がそこに『ある』と認識する現象がどこから来ているのかは分からない。
個人的には教祖も教義も救いも無い「無い宗教」として日本人の脳内に『私は無神論者です。』という顔をして、今でも脈々と受け継がれている古代神道(近代神道ではない)に繋がっている気もするが。
科学的には解明出来ていない。

こうやって見えないものの話しをずっとしていても、結局『間』は見えないのである。

『間』の輪郭が浮かび上がって来ても、それは『間』の本体ではないのだ。

琵琶の音と音のあいだにある『間』、
本番でそいつはよく「いまここだ!ここで次の音を当てて来い!」と叫ぶが、そいつが何者なのか、どんな顔をしているのか私は知らない。



“おまけ”

昨年、『スペース【マ】』という『間』だけの楽曲を作ったが、録音することが出来ないので当然の事ながら発表出来ない。
そもそも無音ではいわゆる音楽配信サービスでは発売出来ない事になっているので、インディーズでカセットテープとかにしたら、無音でも発表出来るかな。いや、
したとして、それは、やはり『間』では無くなってしまう。
録音物には『間』っぽい何かが居るだけだ。




参考文献

「神道はなぜ教えがないのか」
/ 島田 裕巳【著】 -

https://www.bestsellers.co.jp/books/library/5d5f602c7765610f46070000

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