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モーツァルトの弾いたピアノ③:アンシャン・レジームのピアノ事情(188)

1778年の3月から9月にかけてモーツァルトは求職活動のためにパリを訪れています。この三度目のパリは苦難に満ちたものとなりましたが。 上に引用したのはモーツァルトが父親への手紙の中でド・シャボー公爵夫人 Elisabeth Louise de La Rochefoucauld (1740 - 1786) を訪問したときのことを回想しているところです。この訳者は、昭和18年という時代的に致し方ないことながら、「Clavier」を全部「ピアノ」と訳してしまっているので注意が必要

    • モーツァルトの弾いたピアノ②:シュタインの発明(187)

      次は手紙の本題であるところのシュタインのピアノです。 クリスティーネ・ショルンスハイム『レオポルト・モーツァルト:ハンマーフリューゲルのためのソナタ集』(2012)、使用楽器はアウグスブルクのモーツァルトハウス所蔵の1785年製ヨハン・アンドレアス・シュタインのオリジナル。 ヨハン・アンドレアス・シュタイン Johann Andreas Stein (1728 - 1792) は、ゴットフリート・ジルバーマンの甥であるストラスブールのヨハン・アンドレアス・ジルバーマンや、

      • モーツァルトの弾いたピアノ①:シュペートの “Pandaleon-Clavecin”(186)

        モーツァルトとピアノと言うと必ず引き合いに出される、この1777年10月17日のモーツァルト(当時21歳)が父親に宛てた手紙ですが、楽器の説明としてはなんとも要領を得ない文章でもあります。 シュペート Franz Jakob Späth (1714 - 1786) はレーゲンスブルク(ラティスボン)のオルガン及びクラヴィーア職人で、彼は主にタンジェント・ピアノの発明と製造で知られています。既に何度か触れてきたように、これは細長い木片を飛ばして打弦する鍵盤楽器で、18世紀末

        • パンタレオンというドイツの鍵盤楽器について(185)

          クリストフ・ゴットリープ・シュレーターがピアノを「発明」するきっかけとなったのは、本人の述べるところによれば、パンタレオン・ヘーベンストライト Pantaleon Hebenstreit (1668 - 1750) のダルシマーの演奏を聴いて感銘を受けたためであったといいます。 ヘーベンストライトはナウムブルク近郊のクラインへリンゲンの生まれで、1691年にハレのヴィッテンベルク大学に入学し、学生サークルでヴァイオリンを演奏するなどしていました(後にテレマンが自分よりも上手

        モーツァルトの弾いたピアノ③:アンシャン・レジームのピアノ事情(188)

        • モーツァルトの弾いたピアノ②:シュタインの発明(187)

        • モーツァルトの弾いたピアノ①:シュペートの “Pandaleon-Clavecin”(186)

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          自称ピアノの発明者、クリストフ・ゴットリープ・シュレーター(184)

          J.S.バッハは1747年にローレンツ・クリストフ・ミツラーの「音楽学術協会」の会員になり(会員番号がBACH数である14番になるまでわざわざ待っていたのです)、有名な肖像画やゴルトベルク変奏曲の主題による謎カノンなどを提出したわけですが、その年の同協会の機関誌的な定期刊行物である『音楽文庫』には、ノルトハウゼンのオルガニスト、クリストフ・ゴットリープ・シュレーター Christoph Gottlieb Schröter (1699-1782) による、自分はクリストフォリよ

          自称ピアノの発明者、クリストフ・ゴットリープ・シュレーター(184)

          録音で聴くチェンバロの音の違い

          チェンバロはタッチで音に強弱をつけることは殆どできません。そのため乱暴に言えば誰が弾いても、猫が歩いても、同じ楽器なら同じ音が出ます。そのため演奏者の腕前と同じぐらい楽器が重要であるといっても過言ではありません。 そしてチェンバロはスタイルによって音質が大いに異なります。ヴァイオリンであればストラディヴァリとシュタイナーの音の違いを聴き分けるのは相当詳しくなければ無理でしょうが、ルッカースとゼンティの違いなら誰にだってわかります。 しかしチェンバロは調整次第で同じ楽器でも

          録音で聴くチェンバロの音の違い

          「ヴァイオリン伴奏付き」鍵盤ソナタについて(183)

          これら K. 6 - 9 の4つのソナタは2冊に分けてパリで出版され、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの最初の出版作品となりました。ちなみにモーツァルトは1756年1月27日生まれで、この手紙の時点でもう8歳でしたが。 そして現在は「ヴァイオリン・ソナタ」とされることの多いこの曲集の本来の題名は『クラヴサンのためのソナタ集、ヴァイオリン伴奏付きで演奏可能 Sonates pour le Clavecin Qui peuvent se jouer avec l'Acc

          「ヴァイオリン伴奏付き」鍵盤ソナタについて(183)

          英国スクエア・ピアノ事始(182)

          さらに「ジルバーマンの弟子」というのも加えられて、ピアノの歴史でよく紹介されているこの「十二使徒」のエピソードですが、実の所これは根拠不明の与太話に過ぎません(初出は上記引用書)。もっとも、七年戦争(1756 − 1763)の戦禍のために多くのドイツ人が故郷を離れたことや、イギリスにおける初期のピアノ製造がドイツ人主体であったことは事実です。 伝説の常としてこの十二使徒とされる面子も一定しないのですが、ヨハネス・ツンペ(ジョン・ズンペ)Johannes Zumpe (c.

          英国スクエア・ピアノ事始(182)

          J.C.バッハとモーツァルト(181)

          1725年に書き始められた2冊目の『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳』の中でも、一際稚拙な筆致で書かれたヘ長調の無題の小品(BWV Anh. 131)、これはJ.S.バッハの末息子であるヨハン・クリスティアン・バッハ Johann Christian Bach(1735-1782)の幼少時の作品(W. A 22)と見られています。 1750年7月28日に父のJ.S.バッハが亡くなった時、ヨハン・クリスティアンはまだ14歳でした。彼は異母兄であるベルリンのC.P.E.バッ

          J.C.バッハとモーツァルト(181)

          ソレールのファンダンゴ(180)

          「ファンダンゴ Fandango」はイベリア半島伝統のペアで踊られる三拍子の舞曲で、現在の民族舞踊としてのスタイルは地方により様々ですが、一般に八音節詩の歌を伴い、ギターとカスタネットで奏されます。 もっぱらこちらのほうが有名であるフラメンコのファンダンゴは、古典的なファンダンゴとは殆ど別物です。 ファンダンゴの起源は語源も含めて明らかでありません。北アフリカやアラブ圏由来とする説もありますが、現存最古のファンダンゴの楽譜は『Libro de diferentes cif

          ソレールのファンダンゴ(180)

          スカルラッティとソレール神父(179)

          スペイン王家は毎年秋にはマドリードの北西50kmほどに位置するエル・エスコリアル修道院に滞在するのが習わしでした。当然ドメニコ・スカルラッティもフェルディナンド6世と王妃バルバラに同伴していたはずです。 そのエル・エスコリアルの修道士にしてオルガニストであったのが、アントニオ・ソレール神父ことアントニオ・フランシスコ・ハビエル・ホセ・ソレール・イ・ラモス Antonio Francisco Javier José Soler y Ramos (1729-1783)。 ソレ

          スカルラッティとソレール神父(179)

          スカルラッティとセイシャス(178)

          ドメニコ・スカルラッティが1719年8月にヴァチカンの職を辞した後、いつどうしてポルトガルに渡ったのかは20年くらい前までは謎でした。1719年9月3日のとある日記に「スカルラッティ氏はイングランドに向けて旅立った」という記述があったため、ロンドンで賭博にはまって借金を作ったせいでポルトガルに逃げたのだという説もあったぐらいです。 現在では資料の発見によってスカルラッティはポルトガル王ジョアン5世によってリスボンの王室礼拝堂のマエストロとして招かれていたのだということがわか

          スカルラッティとセイシャス(178)

          ライムンドゥス・ルルスの生涯

          これの解説みたいなものです。 ライムンドゥス・ルルス(ラモン・リュイ)は1232年頃マヨルカ島の富裕な家に生まれました。マヨルカ島は長くイスラム教徒の支配下にあって、1229年に「征服王」ハイメ1世によってキリスト教圏に奪還されたばかりでした。ルルスはまだ異教の文化の色濃く残る中で育ったものと思われます。若きルルスは、後のマヨルカ王ハイメ2世の側近として宮廷に仕えて順調に出世を重ね、1257年には結婚して二人の子供をもうけています。 ルルスの人生に転機が訪れたのは1263

          ライムンドゥス・ルルスの生涯

          ライムンドゥス・ルルス『アルス・ブレヴィス』日本語訳

          本稿はライムンドゥス・ルルスことラモン・リュイ Ramon Llull (1232-1315) の『アルス・マグナ Ars magna(大技法)』として知られる『究極普遍技法 Ars Generalis Ultima』の著者自身によるダイジェスト版である『アルス・ブレヴィス Ars brevis(小技法)』の全訳です。 この「ルルスの術」は、記憶術が人工記憶なら、こちらは人工思考とでも言うべきもので、コンピューターの始祖、AIの萌芽、などとして概要だけはよく紹介されているも

          ライムンドゥス・ルルス『アルス・ブレヴィス』日本語訳

          これまで書いたチェンバロ関連記事のまとめ

          自分でも何を書いたのか分からなくなってきたので。 チェンバロ曲ではなく、ヴァージナルやスピネットを含めたチェンバロという楽器自体について書いた記事のまとめです。 初期のチェンバロ 14世紀のウィーンのヘルマン・ポールによるチェンバロの発明から、最古の図像資料であるミンデンの祭壇彫刻、アルノーの図面、現存最古のチェンバロである1480年頃のウルムのクラヴィツィテリウムまで。 16世紀イタリアの特殊鍵盤 アルキチェンバロとか、半音以下に分割されたエンハーモニック鍵盤につ

          これまで書いたチェンバロ関連記事のまとめ

          記憶術について2:ピエトロ・ダ・ラヴェンナ『不死鳥』日本語訳

          承前。 『ヘレンニウス』の記憶術の説明は、記憶術に関する最古の資料であるわけですが、その後の記憶術に関する著作の多くも『ヘレンニウス』の注釈に過ぎないといっても過言ではありません。 その中でも印刷術の普及を背景にベストセラーとなって後世にも多大な影響を与えたのが、1491年に出版されたピエトロ・ダ・ラヴェンナの『不死鳥 Foenix』です。 ピエトロ・ダ・ラヴェンナ (Pietro da Ravenna, c.1448–1508) あるいはピエトロ・フランチェスコ・トン

          記憶術について2:ピエトロ・ダ・ラヴェンナ『不死鳥』日本語訳