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自己紹介 ~30代その2

新しく入った会社は思いのほかフレンドリーだった。中途入社で何もわからない私に親切に接してくれ、飲みに誘ってくれた。1985年に大学を卒業した仲間が3人いたが、「また同期が増えた」と喜んでくれた。社風が「体育会系」であったことも溶け込みやすかった原因の一つだ。仕事はスーパーやコンビニを相手にコーヒーや紅茶を売る仕事。営業職だ。前職と大きく違ったのはその売り方。アパレルは百貨店を主戦場とし、コーナーを作ってブランドイメージを演出し、販売員を派遣して対面で接客しながら販売する。顧客の嗜好や購買動機が接客を通してわかる。しかし、スーパーやコンビニの仕事は対面販売ではない。仕事は陳列するところまでである。何故売れるのかの理由がわからない。売れても手ごたえをつかめない。

しかし、この会社の営業は厳しかった。その頃の加工食品業界は年に2回の”棚割り”で向こう半年間の取扱商品と陳列場所が決まる。棚割りのシーズンは半年に1回でだいたい2週間。この2週間で、半期の業績がほぼ決まってしまう。自分だけのものならまだいい。支店の営業マンの成績まで左右してしまうのだ。初めて胃に穴が開きそうな思いをした。棚割りの時にバイヤーと十分にコミュニケーションが取れるよう棚割り以外の時期にはとにかく「仲良くなる」ことに専念した。売り場の改装応援などにも積極的に通った。バイヤーと仲良くなり同業者と情報交換するためだ。

クレアチニン2.8で入社したが、数値は通院のたびに悪化していった。それこそ「真綿で首を締めるように」。どんなに節制しても数値は悪くなる。タンパク質30gだと肉はまず食べられない。例えば、中華丼に乗っているウズラの卵(タンパク質2g)を見つめ、悩みに悩むのだ。朝からの食事を思い出し、コレハクエルノカ?と思い悩む生活だった。

高タンパク質と筋トレで作った体は見る見るうちにしぼんでいった。同僚は「会社が合わないのでは」と心配してくれた。私は、自分に不利になる情報を社内のだれにも言ってなかった。入社時の履歴書に「健康状態:良好」と書いたことが略歴詐称に当たると思っていたからだ。そうこうしているうちにジョッキングな出来事が起こった。早朝から売り場改装に向かい、一度帰宅して着替えてから出社したある日の帰宅中での出来事。くたびれ切った私は営業かばんを手にトボトボと歩いていると、見るからに高齢のおじいさんに抜かされたのだ。この時、自分の病状の悪化と体力の衰えに愕然としこのままサラリーマンを続けてはいけない。と思った。

「手に職をつけよう」そう思って1年で取得できて、メシの食える資格を探した。そして社会保険労務士に行き当たった。それまでの履歴で人事を経験したことは勿論ない。私は退職し、派遣社員をしながら試験勉強をする道を選んだ。会社の仲間は必死に止めた。給料のいい会社だった。みんなともうまくやっていた。今思えば、いかにも無謀であった。
1999年の年末に片岡物産株式会社を退職した。年明けより派遣社員として5時まで働き、6時半からの受験予備校の授業に参加した。帰宅してからまた勉強した。派遣社員は受験日の1か月前にやめた。その夏は友人からのサザンの茅ヶ崎海岸でのライブの誘いも振り切り、寝る、食べる、風呂以外の時間を勉強に費やした。
試験の前日は気が高ぶってしまって全く寝られなかった。8月の終わりの日曜日、徹夜状態で試験会場に向かう。おそらくこういうのを「ゾーン」というのだろう。集中して問題と向き合った。落ちる恐怖とか一切感じず、「全部出せば結果なんてどうでもいい」という心境になっていた。試験が終わった翌週、小笠原諸島父島行のフェリーに乗っていた。無職である私は3航海の旅に出た。帰島からしばらくして合格発表があった。ネットで確認し、自分の番号の載っている官報を手にした。

体調は瞬く間に悪化し、クレアチニンが6.0を超えた。透析が現実のものとして眼の前に迫っていた。家族での話し合いが行われ、母親が自分の腎臓の提供を申し出た。私は断った。病気でもない人の腹を切って命の危険にさらすことはないと思った。しかし、母は真剣だった。引かなかった。話し合いの結果、母の腎臓を生体腎移植することとなった。手術は40差の3日前に行われ、無事に成功した。
(続く)


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