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自己紹介 ~20歳代

1985年4月 株式会社大沢商会入社


こんな面白い会社はあるのか!というくらい楽しい会社だった。
スポーツ用品を扱っているだけあって、大学の体育会出身者が大勢いる、所謂「体育会系」の会社であった。高校からラグビーをやっていた私にとってはなじみやすい環境であった。怒るときは怒る、めちゃくちゃ怒られる。けれど、尾を引かない。厳しくうるさい人ほど面倒見がよい。先輩風を吹かすのと面倒見がよいのがSETであった。配属はゴルフ部。当然だが商品のゴルフクラブは右利き用が大半。私は左利き(左投げ左打ち)なのに、右でゴルフをしろとしつこく言われたのには閉口した記憶がある。曰く、左利きは右で打ったほうが上手くなるとか、コースは右打ち用にできているとか。いずれも事実なのだろうが、自分も1回左で打ってみろと言いたくなる時もあった。そんなことでゴルフが嫌いになりかけて、会社辞めちゃおうかと思って時に新たな話が舞い込んだ。

LACOSTE


2年目の春に会社でLACOSTEを扱うことが決まった。私は、「ラコステ部」に異動となりアパレルの営業となった。東京で1年、広島で1年半、また東京に帰って1年、札幌で3年間、アパレルの営業に従事した。アパレルの仕事は以外にも水があっていた。ちょうどバブルの時代でもあり、ポロシャツがよく売れた。品ぞろえを変え、売り場の陳列を変えると売れなかった商品が面白いように売れた。顧客の反応が良く「打てば響く」状態であった。最もバブル真っ盛りに突入していたので、大概の仕事はうまくいったんだと思う。また、よく遊んだ。広島では流川、東京では六本木、札幌ではすすきのは言うに及ばず、出張先を含め全北海道でボトルが10本あったこともあった。

転勤をすると今までの人間関係がリセットされてしまい、知り合いは得意先と社内だけというケースがまかあるが、私は転勤先でもラグビーをやっていたのでそれはなかった。広島では広島ラガー、札幌ではサッポロラガー(現在は札幌クラブ)というチームに入れて頂いた。当時の札幌ラガーは結構強くて、全北海道選手権でベスト4に入ったりした。おかげで地元の人とも仲良くなりうまくて安い店にたくさん連れて行ってもらった。

そしてバブルが今にもはじけそうな1992年8月に東京行きの辞令が出た。「札幌は2度泣く」という名言がある。来るときに泣き、帰るときにまた泣くという意味だ。送別会はメンバーを変え場所を変え1か月に及んだ。(私がただ飲みたかっただけという事もある)最後の引継ぎは札幌を出発し帯広ー釧路-北見ー旭川ー名寄と回って、2泊3日で1000㎞走った。旭川の得意先の送別会では、スポーツ用品フロアに勤務する34名の内、どうしても仕事で来られない1名を除いた33名が出席してくれた。私のひそかな自慢だ。その時の出欠が書かれた紙片は宝物として大事に保管してある。
そして、20代最後の夏に東京に戻った。
(30代に続く)


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