自己紹介 ~30代その1

人生が大きく動き出したが30代。

辞令をもらって本社に戻ったら会社の空気が一変していた。バブルの崩壊だ。会社の利益をけん引していたLACOSTEも予算達成に必死であった。店頭消化を上回る在庫を納品し月末に翌月付の返品を受ける。そんなことが頻繁に行われる。ただの数字合わせに過ぎないことはわかっているのに。誰もが疲弊を始めていた。そして1年経過後、異動が発令される。「営業企画室」である。主な仕事は、”滞留在庫の処分販売”。バブル期の強気の発注が裏目に出て、大量の滞留在庫が会社の資金を圧迫し始めていた。換金の主戦場は「ファミリーセール」。名の通った1流ブランドが破格の値段で販売される。クローズドセールなので、得意先の反発ももない。このビジネスが私の新たな担当だった。会社を上げてのイベントだった。各部を回り出品リストをもらう。場所割をし、DMを作り発送する。会場周辺の交通整理や搬入・搬出要員の供出を部門を回ってお願いする。当日は運営本部につめ、不測の事態に備えた。1回のセールで3~4億を売り上げた。

バブルの爪痕が大きくなるにつれ、会社の業績も厳しくなっていった。ボーナスがだんだん減っていく。この会社に入った理由、「自分たちの手で元の1部上場の会社に立て直す」が遠くなっていったように見えた。
1996年11月のこと。朝礼のため会議室に向かうとなんと!知らぬ間に社長が交代していた。新社長は開口一番、リストラ策を告げた。

詳細は覚えていない。一人で行ったのか、誰かと一緒に行ったのかさえ。専務取締役の部屋で、聞いたことは確かだ。「この会社の再建はどういう状況ですか?」回答は「非常に厳しい」。「あきらめるのですか?」「非常に厳しい状況だ」。夢が壊れた瞬間だった。この会社にいてこれ以上苦労する必こともない。リストラに乗ろう。こうして、私は1997年3月をもって、夢を抱いて入社した会社を退社した。

その陰でもうひとつの問題が進行していた。私は生まれつき腎臓が悪かった。22歳時点でのクレアチニンは1.7。それが30歳には2.1となり、大沢商会を退社した34歳の時2.8となっていた。ここでラグビーの話。私のポジションはバックス。30歳近くなってスピードが衰えてきたのもあり、ウエイトトレーニングを行った。高たんぱくな食事を志向しプロテインを試した。体は大きくなった。167㎝65kgから73㎏へ ベンチプレス120㎏×1回、100㎏×9回、スクワット135㎏×8回、デッドリフト135×8回、145㎏×5回がMAX。それらのすべてが腎臓に悪く作用した。町医者から大学病院に紹介状がでて、診察を受けたとき死刑宣告にも似た言葉を聞いた。「このままの生活だと半年以内に透析になるよ」。医師の指導は、運動禁止、食餌療法(減塩、低たんぱく高カロリー食)であった。タンパク質の摂取は1日30g。これは、かなり手ごわい。その日の晩、地元のとんかつ屋で涙ぐみながらとんかつを食べた。

転職は思いのほかスムーズに進行した。1984年倒産の時に輩出されたOBが新しい会社で頑張ったためだ。大沢商会OBの市場での評判が非常に良かった。また、人事部の小部屋には、OBの勤務する会社からきた中途採用用のパンフレットが積まれていた。その中からこれだと思う会社を選び人事課長に紹介を頼んだ。その会社には、大沢商会のOBが経理部長として勤務していた。
5月の連休明けに私は、当時神谷町にあった片岡物産株式会社に転職した。



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