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自己紹介 ~40代

2003年3月、私は新たな会社に就職した。まだ退職したばっかりなので実名は控えたい。BtoCの会社のA社としておく。A社には障害者の募集で応募した。移植手術がうまくいったので、普通に応募しても良かったのだが、移植後の体に何が起きるかわからない。障害者雇用をしている会社なら理解もあるだろうという魂胆だった。この会社とは入社時からひと悶着あった。腎移植に成功したことを伝え、ほかの社員と同じように働けるし給料は前職並みを希望した。それで順調に進んでいたように見えたのだが、最終面接の時に人事部長がこういった。「障害者となった人に前職と同じ賃金は出せない。前職の80%でどうだ。もし、1年間働いてみて、健康上問題なく仕事の評価も良ければ元に戻すから」長期に渡る無職でお金がぎりぎりだった私は、その条件を呑んでしまった。今思えば、この時点で入社をやめとけばよかったのだ。結局1年後に賃金が戻ることなかった。騙された気持ちがつよく、転会社を退職しようと真剣に考えた。しかし、40歳過ぎて平社員の私を採用してくれるところはあるだろうか、また、開業を考えるにも資金が乏しかった。この会社で頑張るしかない、ほかに方法はないという気持ちで退職は思いとどまった。同じ年の社員はみな管理職となっていた。「早く追いつかねば」と思い、仕事でアピールをするのだが、ことごとく裏目にでる。今まで務めてきた会社のような「体育会風」ではなく、むしろ文科系サークルの「オタク風」の社風であったのだ。時にけんか腰も辞さず、あいまいに終わらせず白黒はっきりつけていく私のやり方は直属の上司には認めてもらえるも人事のウケは悪かった。受けが悪いのは覚悟のうえで自分の将来を考え、資格を生かそうと人事部に異動願を出した。

そうこうしている間に移植腎の数値が下がりだした。移植から5年目だ。今回も食事制限を行った。しかし、敢え無く移植後8年目でその機能を失った。また、透析に逆戻りだ。痛くもないおなかにおおきな傷跡を作って私を助けてくれた母には、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。透析は月水金の夕方から。その日は仕事を4時半に終えねばならない。”フル勤務”できない、というのがまたもマイナスに作用した。「いつ、なにがあっても人事の管理職というのは動けなければならない」ということだ。この時点でこの会社で管理職になることは途絶えた。

この会社の人事には計15年いたのだが、一度もそんなスクランブルな出来事には遭遇したことがない。失意の下で40代を終え、50代にはいることになる。

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