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「犯人の心理」がよぎる瞬間

殺人事件の被害者の知人としてTVの取材でペラペラと話をしていた人が、何日か後に逮捕される。こうした光景を皆さん、見たことはないだろうか。

ワイドショーをみながら、「なんでわざわざ取材を受けたのだろう、バカみたい」と逮捕前の犯人の取材対応に対し、嘲笑していた。

心理学を勉強したわけではないのでわからないけれど、嘘をついたり、後ろめたいことがあると、それらを隠蔽するが如く、余計なことをしてしまうのは人間特有の習性なのだろうか。犯人は必ず現場に戻るといわれるし。

犯人の心理は、実際どうなのかわからないが、自分自身、知られたら困ることなのに、しゃべりたい衝動にかられる気持ちは、少なからずある。

先日、「身バレの恐怖 vs 自分のアイデンティティ」という記事を投稿した。

 
この中では、記事を投稿するたびに、身バレするのではないか、という恐怖を綴っている。
 
大きく矛盾しているように聞こえるが、身バレしたくないという恐怖におののきながらも、「犯人の心理」がよぎる瞬間がある。

noteに投稿すること自体やましいことでも何でもないが、特定の出来事や特定の人を念頭に、記事を書いているという「ちょっとした後ろめたさ」からなのか、当人を前にしたとき、「あの記事は、あのような場面で、ああ言われたから~」と状況や場面を釈明したくなる衝動に駆られる。

 
「しゃべりたいけど、しゃべったらおしまいなので、ぐっとこらえる」という状況は記者時代にもあった。

 
当事者以外は知りえないネタをつかんだ時、「実はこれも知ってる、あれも知ってる」とそこまで知らない関係者に伝えたいのだが、ここで言ったら水の泡になると口にチャックする。

 
逆に取材を受ける側は(何かの意図がない限り)喜々と話してくれるほうが、少ない。
それでも、全く別のアングルから話を聞こうとすると、警戒感が薄れたのか、話を進めてくれることもある。段々饒舌になっていき、記事を書くまでの確証には至らないけれど、なんとなくネタの真偽の方向性が見えてくる。

「語るに落ちる」だな、とそんなとき実感する。

しゃべりたいけれど、ぐっとこらえる。
 
単なる私がおしゃべり好きだからなのか、それとも犯罪者的な心理がどこかで働いているからなのか、定かではない。

noterとしての活動を、公にできる日はくるのだろうか。
毎回ちょっとしたスリルを感じながら、机に向かっている。

 
https://twitter.com/ATF_TOKYO

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