今年も紅葉が落ちるところは写真で残せそうにない。【写真散文】
シャシンサンブン。
写真散文:秋らしいもの見つけに寺へ行く
今年はなんだか忙しない。
自分の性格と照らし合わせると忙しいというより、後回しのツケかもしれない。とにかく身の回りの状況が変わる変わる。良くも悪くも。
そんなことが関係しているかは分からないが、気張らない空間で紅葉を撮りに行きたいと思った。季節を感じられるし。
とりあえずバッグにカメラを詰め込み、行き先をぼくの好きな二箇所のお寺に設定し、予定の関係で二日に跨いで行くことにした。
人が多かったりで気張る環境だったらそれまで。
一箇所目のお寺を跨ぐ。
お寺自体には休日の日中ながら平均して六人ぐらいしか人口が居なかった。併催された骨董市みたいなところにはぼちぼち人が居たので、良い感じに人の流れをコントロールさせていたのかも。
肝心な木々の様子はというと、まだ若緑が残る秋模様といった感じ。夏の装いが味を残してるとも言えるし、衣替えが追いついていないとも言える。
ところで、紅葉という単語を見ると、ぼくは反射的に〝もみじ〟と読んでしまいがちだけど、もちろん他に〝こうよう〟とも読む。
ただ、〝もみじ〟と書いても紅葉って変換されてしまうので漢字は気難しさが窺える。
海外の人が漢字は難しいと思う気持ちは、少なからず日本語しか使わないぼくにもある。その気持ちが同じかは分からないが普通に難しいよ。
その反射的な変換機能が備わっているからか、ここ何年かは〝秋=紅葉=もみじ(と変換)=秋っぽい〟という刷り込みを自らしてきたようにも感じる。
もみじという種族に限らず紅葉する木を撮りたいと手足を動かしたものの、撮れたもののほとんどがもみじだった。これは課題。
撮った写真を見返すと、山門の写真、常香炉からの写真、撮影するぼくからは微妙に全部見えない銀杏の木を見上げる人の三枚が好きだ。
緑こそ混じってるものの、自然な色の幅を感じられると思うと、紅葉しきれていない未熟な時に行ってもいいのかもしれないと思った。
銀杏に関しては所謂ポツン写真なのかもしれないけど、〝自然と人間〟の〝自然な距離感〟はこれぐらいでいいんだと思う。
二件目のお寺を跨ぐ。別日で平日。
ここのお寺は拝観料がある。最近はここに限らず拝観料として財布から小銭を出す際、もうその時点でお賽銭をしてる気持ちになってきた。
人は思ったより多めで、このお寺は親切に紅葉の具合を『三割』と掲示してくれていた。なので、三割という先入観で木々を見る。
〝本当に三割なのか? まあまあ赤いのに〟
そんな気持ちは留めといて、三割なのだから三割として見るしかない。
写真を見返してみて、何をどうしても紅葉や枯れ木が紛れ込む五重塔のことを思い出した。
つらさとか不満があったとかでは無く、むしろ一番満足できた。
五重塔として純粋に撮るのは諦めてはいるけど、その上でどう撮るかぼくなりに考えた結果、半分だけ紅葉を入れてみた。自分が良いと思ったので何も考えず良いこととする。
あと、葉っぱで囲えると楽しい。
二日を跨ぎ合計数時間を費やして今年の紅葉を撮ってみたけれど、ぼくの中ではいつも通りと言えるほど中身に具体性があるわけではない。
撮影している時は赤く変色した葉にお寺っぽさを感じられるものをただ単に組み合わせることぐらいしか考えなかった。
それも蓋を開けてみたらまだ緑が広がっていたりと、今年は葉が紅く色付くのが醍醐味な秋シーズンというものを写真に出来たのかは今だに分からない。
よくよく考えれば、植物として見れば生存戦略なのかもしれない現象を、段階的に観察しながら美しいと思う人間の感性はなんとも複雑だと思う。
とはいえ、限界を迎えて落ちていくだけの葉を目にしたら、なんだかんだ秋らしさとか一年がもうすぐ終わるんだなって謎の総括を想ったり、それを写真にしたいと思うんだから不思議。
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