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TVアニメ『月が導く異世界道中』が描く現代日本の前向きな諦め:「ブサイク」の異界と張り出した女性嫌悪

(2023年7月8日追記:過去に執筆した文章を読み返し、一部の表現に反省すべき箇所があったと判断したため、本文に修正を加えました。)

はじめに

 いつのころからだろうか――この世のほかに、もっと別なところに、自分を受け入れてくれる「場所」があるのではないか、というほのかな期待が生まれたのは。
 疲れ切って帰路につくとき、ふと電車の窓を眺めていて「ここは私のいるところではないかもしれない」といった奇妙な気分に陥ることがある。今の生活に不満があるわけではない。だが、「ここではないどこか」へのあこがれは、いつも私の心のすきまにひそやかに入り込んでくるのだ。青臭い感情と、人はたぶん笑うだろう。
(田中貴子『鏡花と怪異』平凡社、2006年、137頁)

 「俺は夜なんて駆けない 未来に賭ける」、「そうアタシは半人前 ブサイク ただ凡人/転生さえ願った業人」――「うっせぇわ」を手がけたシンガーソングライター・syudouの吐き捨てるような歌声がオープニング映像とともに響きわたる。このひねくれた歌詞は、2021年9月に放送が終了したTVアニメ『月が導く異世界道中』の斜に構えた作風によくお似合いだ。
 本作は弓道部に所属する高校生の深澄みすみまことが、ある日帰宅するやいなや、異世界に勇者として召喚されるところから始まる。この突然の召喚は、もともと異世界の住人だった真の両親が日本に来る際に女神と結んだ「いつか最も大切なものを一つ捧げる」という契約にもとづくものだった。しかし、真は自分を召喚した女神に初対面で「ブサイクね」と嘲笑され、「白鳥成分ゼロ。どこの醜いアヒルの子よ」、「クーリング・オフ決定。さっさと視界から消えてくれる? 存在がキモい、ウザい」、「ヤバ、声すら醜いとか」などと罵倒される。挙句の果てに真は勇者称号を剥奪され、最果ての不毛の荒野に捨てられてしまう。真に与えられた力はヒューマン以外の言葉の理解・会話・読み書きだけであった。
 真は不毛の荒野をさまようなか、魔獣に襲われていたハイランドオーク(ブタに似た種族)の娘・エマを助ける。エマの暮らす村は数年にわたって深い霧に包まれ、作物が実らない状態に陥っていた。真はエマが霧を晴らすための生贄に捧げられる予定であることを知り、霧の原因となっている「神の山」へひとり赴く。真はそこで竜のしんを破り、主従契約を結んで従者に加える(これに伴い、蜃には新たにともえの名が与えられる)。さらに、真は「災害の黒蜘蛛」と呼ばれる暴食の魔獣を戦闘不能にして従者に組み入れる(黒蜘蛛にはみおの名が与えられる)。こうして真はヒューマン以外の多種族が共存する「亜空」の支配者として成り上がることになる。
 本稿では、本作の主人公が「ブサイク」として排斥されつつも、異形のユートピアである「亜空」を構築してそこに収まる構図に着目し、本作が現代日本における「前向きに諦めようとする」心のありようをよく描出した作品であることを明らかにする。

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悪意なき怪異としての「ブサイク」

 見た目が悪い(ブサイク)という属性は「無能」とは異なる。『盾の勇者の成り上がり』(2019年1月期・4月期)、『ありふれた職業で世界最強』(2019年7月期)、『回復術士のやり直し』(2021年1月期)といった近年の作品群が一見して戦闘に向かない役職の主人公に「無能」の烙印を押すのに対して、『月が導く異世界道中』は主人公の弱みを「ブサイク」であるというただ一点に求める。その意味で本作は、主人公が役に立たない「無能」と蔑まれて追放される物語とは明らかに重心が異なっている。
 本作の主人公である真は、異世界の神の加護が及ばない現代日本で長年過ごしてきたため、その反動で異世界では超人的なパワーとスキルを発揮できるということになっており、本作も異世界という箱庭における「無双」譚の色彩を帯びてはいる。しかし、真が「ブサイク」であることで被る不利益は「無双」できる能力をもってしても相殺・打消できないほどに甚大である。真は素顔をさらせば、ヒューマンから途端に「化け物」呼ばわりされ、ヒューマンの街に近づけば矢を射かけられる始末である(第3話)。そのうえ、真は女神によってヒューマンとのバーバル・コミュニケーションの可能性を奪われているため、ヒューマンとの会話は一切成立せず、筆談(ポップアップウィンドウによる意思表示)を余儀なくされる。「話せばわかる」というわけにはいかないのだ。そう、真の「無双」は仮面と沈黙なしには成立しない。第3話以降、真は「クズノハ」の偽名を用いてヒューマンの街に出入りするようになるが、「亜空」の外では「化け物」呼ばわりされる顔を仮面で隠し、ヒューマンには通じない言語を発する口を封じて、いかにも不審者といった装いで行動せざるをえない。さらに、真の容姿を「ブサイク」と判定するのはヒューマンだけにとどまらない。真はハイランドオークからも「亜人の血が混じってるのかもしれん。あんな外見だからな」と囁かれ(第1話)、エルダードワーフ(武器の製造に長けた種族)からも「若様はかろうじてヒューマン種とお見受けします」と言われてしまう(第3話)。
 とはいえ、作画上、真の容貌が「ブサイク」の表現として十分な説得力を持っているとは言い難い。確かに、真は他のキャラクターより明らかに小さい黒目をトレードマークとして描き分けられてはいるが、これが「化け物」や「異形」なのかと問われると首肯しかねるところがある(この問題はアニメにおける「美少女」の表現が器量の良し悪しや程度を精細に描き分けられないこととパラレルに論じられるかもしれないが、本稿ではこれ以上掘り下げない)。真のキャラクターデザインは、少しでも画面が乱れれば「作画崩壊」と喚き散らし、ウェルメイドな画面に過度の喝采を送る視聴者の姿を浮き彫りにしているようにすら思える。例えば『惡の華』(2013年4月期)のようなロトスコープの表現に耐えられない視聴者であれば、「真の顔のどこがブサイクなんだよ」と文句をつける資格はない。

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 とまれ、本稿では作画の説得力のなさを度外視して、真が「ブサイク」とされていることを前提に議論を進めていきたい。本作で注目すべきは、異形こそが純真で、人間はむしろ汚らしいという典型的な構図が前景化していることである。第1話においてすでに、見た目がブタであるエマが「聡明だし性格もいい」とされる一方で、「ヒューマンは凶暴で残忍な種族」という認識が示されている。第9話以降に登場する森鬼たちも(容姿はそれほど「ブサイク」ではないが)、自分たちのすみかから高値で売れる素材を奪うヒューマンを「こそ泥」扱いしており、森に自生する植物を採集しているだけだという言い分はヒューマンのエゴとして片付けられる。こうした構図を前提として、ヒューマンと視認されないほどの「ブサイク」とされる真が竜の巴の能力で生み出された「亜空」という領域に「化け物」たちを集めて異形のユートピアを構築するのだから、本作は「ブサイク」という言葉で異形/化け物を代表させていると言うことができる。すなわち、本作は異形の観点から論じるのがふさわしい。
 本作では、「ブサイク」という言葉で代表される異形/化け物が悪意なき怪異として描かれている。この点で、本作は泉鏡花が好んだ怪異の描き方に接近していると言うことができる。国文学者の田中貴子は鏡花の「怪異小説」を論じた『鏡花と怪異』(平凡社、2006年)のなかで、鏡花の描く怪異は怖くないという川村二郎や種村季弘の批評を引用しつつ、次のように述べている。

 ここで注意したいのは、鏡花のいう二つの世界のすきま〔注:善と悪の間〕から出現するお化けは悪意を持っていない、ということである。悪意がない、ということは、特定の人物に恨みを晴らすためにつきまとうような怨霊ではないということだ。相手が悪意を持っていないということは、こちらに危害が及ぶ心配はなく、したがって出てくるお化けは怖くなくなるのである。
(田中貴子『鏡花と怪異』平凡社、2006年、24頁)

 田中は「鏡花の描く怪異にはほとんど因果因縁を持ったものはない」と指摘している。田中によると、鏡花は上田秋成『雨月物語』のような「理由のない怪談」を推しており、自身でも「『理由のない』怪異をそれとわかる形にしないで『何となく』書いて怖がらせる」という手法を意識的に選択していたという。その結果、鏡花は読者を怖がらせるという点においては成果をあげられなかった、と田中は評価する(同書25-26頁)。田中はこれに続けて、鏡花の全集に収録された多くの「怪異小説」を縦横無尽に論じているが、本稿ではさしあたり「幻のユートピア――女たちの異界へ」という章のなかで展開された議論を補助線として用いることにしたい。
 田中は、鏡花作品における女性が現世から異界へといざなわれるパターンに着目し、次のように述べている。

鏡花には芸者や遊女への暖かいまなざしが感じられるし、鏡花作品の中には「望まない結婚」をする女性も多く登場している(当時としては、ある程度身分のある生まれの女性であれば恋愛結婚などは考えるべくもなかっただろうが)。彼女らへのシンパシーが、鏡花をして「女性のための」ユートピアを創出せしめたのだろう。鏡花というと何やら美しいだけの「男から見られる女」ばかり描いたかのように思われがちだが、このような異界の創造の源には、現代でいう意味のフェミニズムに近いものがあるように思う。もちろん、鏡花が今流のフェミニストなどといいたいわけではないのだが。
(同書141頁)

 鏡花がしばしば被差別民や放浪する芸人といった「常民」ではない人々に心を寄せていたことはよく知られている。(同書156頁)

 この点に関連して、田中は小柳滋子の「男性原理社会に対するアンチテーゼとしての“女の異界”は、近代文明社会を象徴する大都会東京の日常の時空間に混入して、《白昼と暗夜を繫ぐ黄昏の如く》俗界に接触し、うつつの時空間を侵食してゆく」という主張を引用している(同書167頁)。かかる批評を踏まえて言えるのは、異界とは取りこぼされた者たち――ここでは女性――のユートピアであり、それゆえに満たされぬ者たちを蠱惑してやまないということだ。そして、本稿の分析対象である『月が導く異世界道中』は、前述した女性のユートピアを異形のユートピアに置き換えた構造をしていると整理することができる。「ブサイク」が怪異と同視され、その内実とは関係なく、おぞましいという憎悪や敵意をヒューマンから向けられる構図の裏側には、「ブサイク」という理不尽な属性を受け入れてくれる世界、すなわち異形の世界への憧憬があるのは確かだろう。
 それでは、こうした憧憬をどのように価値づけすればよいのだろうか。この点について、節を改めて議論を深めていくことにしたい。

「ブサイク」の異界という構図の功罪

 まず断っておかなければならないのは、「ブサイク」として排斥されるという事象自体をありえない、被害妄想だと切って捨てるのはさすがに酷であるということだ。筆者自身も加害者の側として、自分のなかに見た目差別ルッキズム的な感情が潜んでいることを全否定はできないし、同時に被害者の側としても、「ブサイク」と言えば相手を傷つけられると考えるような意地の悪い人間から口撃を受けたことくらいはある。だからこそ、異形/化け物として一方的に疎まれる「ブサイク」を受け入れてくれるユートピアを肯定する構図は、ある種の赦しであるように思える。本作は醜いアヒルの子が実は白鳥だったというどんでん返しも、「ブサイク」と罵倒される底辺ポジションを返上するために正面を切って戦いを挑むという泥臭い努力譚も採用していない(*)。そこに見いだされるのは、社会学者の橋迫瑞穂にならって言えば、社会に対して「前向きに諦めようとする態度」である(橋迫瑞穂『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』集英社新書、2021年、202頁)。

(*)ちなみに、「泥臭い努力譚」として念頭に置いていたのは『アクセル・ワールド』(2012年4月期・7月期)である。『アクセル・ワールド』の主人公・ハルユキは「デブでいじめられっ子」であり、「ブサイク」とはまた違う属性ではあるが、他の登場人物と明らかに異なるタッチ・頭身で描き分けられている点で類似性を感じた。自己肯定感の低い主人公が憧れの先輩のために傷つくことを厭わず、着実に戦いのピラミッドを勝ち上がっていく様子は旧時代の「売れ線」になってしまったのだろうか。

 「ブサイク」が収まるべき異界、すなわち異形のユートピアがどこかにあるはずだという鬱屈した心情に対して、甘ったれた現実逃避にすぎないとか、結局は現状を肯定するだけの弱々しい迎合だとか、お叱りの言葉をぶつけるのは簡単だ。しかし、出口の見えない、息が詰まるような圧制のもとでは、狂気や自暴自棄やけくそに抗い続けることはきわめて難しい。首脳部が悪事に手を染めていることが社会全体にお墨付きを与えているのかはともかく、人々がいたるところで他人を踏みつけ、足蹴にしては「ああ、まだ下には下があるのだ」とほくそ笑んで安心するような状況が、現代日本では常態化しているように思える。人々はそれぞれの立場なりに俯いて涙を落としているが、その涙は強酸の雫のように下位の者に降りかかり、僅かな希望も溶かしてしまう。そんな「トリクルダウン」構造が入れ子状または重層的に成立している状況のもとで、本作はある種の清涼感を与える作品として、時代精神を如実にあらわしていると言えよう。異形のユートピアへの憧憬は、抗議活動よりもアノミーを選び、再分配を要求するよりも「親ガチャ」に外れた不運を嘆いてみせる心のありようと通底しているのではないだろうか。それは絶望の自死を避け、生き地獄のカンフル剤を投与するという意味で、「前向きに諦めようとする態度」だと評価できる。

 とはいえ、本作が女性のユートピアを異形のユートピアに置き換えたことには大きな弊害が伴っていることも指摘しておかなければならない。本作は鏡花とは異なって、取りこぼされた者たちの位置に女性ではなく「ブサイク」な男性を置いたが、それによって「弱者男性」的な女性嫌悪ミソジニーが張り出してくることを許すことになった。本作には、「ブサイク」な男性に敵意や恐怖の念を向けるのが女性であるという問題含みの構図が見られる。第1話で真を「ブサイク」と罵るのは女神であり、第3話で真を「化け物」と誤認して逃げ出すのも女性である(第4話では男性から「どうせ素顔はゴブリンみたいにブッサイクなんだろうな」と陰口を叩かれているが、これは面と向かっての悪口ではない)。極めつけは、第9話から第11話にかけて展開される娼婦殺害のくだりである。真はヒューマンの街の裏路地で娼婦から声をかけられるが、竜の巴と黒蜘蛛の澪の介入により事なきを得る。その娼婦は昼職では冒険者を生業としており、真が支配する「化け物」の街(蜃気楼都市)での強盗致死傷に関与してしまう。大切な仲間を傷つけられたばかりか、「何よその顔? なんて醜いの、あなたも亜人?」と言われた真は、容赦なく娼婦の両腕を切断してから、悶え苦しむ彼女の喉笛を掻っ切って殺害するにいたる。真を「醜い」と罵った商売女が残虐に殺されるという展開は「ざまあみろ」という歪んだ清涼感を演出するものかもしれないが、一歩間違えば女殺しフェミサイドに正当性を与えかねない危険な筋書きと言うほかない。「ブサイク」な男性を低位に置く構図を作り出しているのは女性なのか、いま一度考え直してみる必要があるだろう。
 ここで、前節で取り上げた田中貴子を再び引用すると、女性のユートピアを異形のユートピアに置き換えたことに伴う弊害がより明白となる。

「高野聖」、「夜叉ヶ池」、そして「天守物語」の三作品について、超越的女性=姫神の前世物語を見てきたが、いずれもが、俗世において男性主導型共同体から何らかの侵襲を受け、それへの恨みによって姫神へと生まれ変わった女性たちであることが明らかになった……かつて男社会から手痛い仕打ちを受けた姫神たちだからこそ、現世で苦しむ女性たちを救済することができる力を持ち得たのである。(田中『鏡花と怪異』、179頁)

 『月が導く異世界道中』の主人公である真も、異世界での活動や修練によって魔力が膨れ上がり、女神の水準に迫る勢いを見せる。「ブサイク」は苦難を経て「神」に並ぶ者への羽化を始め、「クソ女神」の世界で取りこぼされた者たちを救済する力を手に入れるわけだ。しかし、真はいくら「ブサイク」であっても「男社会から手痛い仕打ちを受けた」女性ではないため、本作は男社会(または男性優位主義マチズモ)そのものに対する批判を徹底できずに終わってしまった。これが本作の限界であり、同時に「前向きに諦めようとする態度」に起因する必然であるとも言える。異形のユートピアと「弱者男性」的な女性嫌悪ミソジニーはコインの両面であり、前者だけを都合よく称揚することはできない。だが、行き詰まりや破局を迎えんとする状況を目の前にして、ついつい異界に出口を求めてしまう心の弱さは、程度の差こそあれ、誰だって持っているはずだ。こうした葛藤を伴う二面性ゆえに、本作はかえって毒々しい魅力を放っているのである。

本作の出演者について

 本作の主な出演者についても簡単に触れておく。dアニメストアで配信されたオーディオコメンタリー版(2021年10月26日まで期間限定配信、以下「オーコメ」と略称)で花江夏樹・佐倉綾音・鬼頭明里の三人が言及しているように、本作は「異世界慣れ」していないキャスティングが際立っている。知名度やキャリアの点では定評があるものの、いわゆる「なろう系」作品への出演経験は少ない声優を主要な役柄に起用しているため、フレッシュ感はないが、「テンプレ」からのずらしを堪能できる仕上がりにはなっているということだ。
 主人公の深澄真役を演じる花江夏樹は、同時期に放送していた『死神坊ちゃんと黒メイド』(2021年7月期)と並んで、ファニー・フェイスの役柄に中音域の優男を見事に顕現させている。花江夏樹は第1話オーコメで、真は地味な顔立ちの役柄なので「あんまり守らなくていい」と発言している。確かに、彼はスター性を排した実直な演技をこなしており、時には語尾に向かってハキハキと喋るような遊びも取り入れるなど、全体として文句のないパフォーマンスを見せている。ただ、彼は第7話オーコメでは、真がヒューマンの言葉を話せない設定のため、口パクに合わせる必要がなく楽だったという志の低い発言をしていて、少し気にかかる。これは例えば『シャドーハウス』(2021年4月期)のシャドーたちの演技にも同じことが言えるが、口パクに合わせない表現は間のとり方やペース配分における工夫の幅が広がるため、むしろ難しいと言うべきではないだろうか。アフレコ職人としての技術に専心することがよい役者の作法とは限らないということを敢えて強調しておきたい。
 竜の巴役を演じる佐倉綾音は、低く調律した本体と甲高く調律した分体を一人二役で演じ分けている。さすがにキャリアの長さを感じさせる安定感だが、豪放磊落な低音域を響かせる役柄は彼女としては意外に珍しく、耳馴染みのない暴力的な演技を存分に楽しめる。黒蜘蛛の澪役を演じる鬼頭明里は、「声のざらつき」(le grain de la voix)のない汎用的な声優でいつも聴く者を困らせるが、そんなとらえどころのなさが本作ではポジティブな方向に作用している。すなわち、強烈な飢餓状態にあったため、真と主従契約を結ぶ以前の記憶は一切ないという役柄に、彼女の無私な調律が説得力を与えている。それにしても、花江夏樹の声で喋る主人公の血を吸って覚醒する「化け物」を鬼頭明里が演じるとは、『鬼滅の刃』ファン垂涎の展開ではないか! なお、共演者の花江夏樹は巴と澪の魅力として、二人が純粋な優しさや正義の心を持っておらず、自分本位で動いていてサバサバしており、自分たちのためなら殺しも辞さないところを挙げている(第7話オーコメより)。確かに、巴と澪は真との主従契約でヒューマンに近い姿形となってはいるが、中身は怪獣・化け物である。第4話においては、真の馬車を狙った襲撃者を巴が力加減に失敗してバラバラにしてしまい、証拠隠滅のため澪が襲撃者の死骸を捕食している。正当防衛的な展開も相まって、まさしく「悪意なき怪異」が現出した印象的なシーンであった。さすがに花江夏樹はお目が高いと言うべきだろうか。
 ハイランドオークのエマ役を演じる早見沙織は、「この子は見た目はブタだけど、同じ種族のなかでは美少女に相当するのだろうな」という圧倒的な説得力で殴りかかってくる。これは佐倉綾音の声だけど明らかに「化け物」に聞こえるという調律と対照的であり、視覚偏重に陥った現代人の感覚を攪乱する戦略としてきわめて優れている。2013年のポケモン映画『神速のゲノセクト ミュウツー覚醒』で水ゲノセクトが諸星すみれの声で喋り始めたとき、視覚と結びついた社会通念が一瞬にして破壊され、呆然と立ち尽くした者は少なくないだろう。『セントールの悩み』(2017年7月期)で蛇頭のケツァルコアトル・サスサススールが綾瀬有の声で喋り始めたとき、上品な箱入り娘で、好奇心旺盛で、時に天然な女子高生が聞こえてきて、「声ってなんだろう」という原初的な問いに立ち返った者もいるはずだ。『オーバーロードII』(2018年1月期)で蜥蜴人リザードマンのクルシュ・ルールーが雨宮天の声で喋り始めたとき、雨宮天は爬虫類の役柄に縁があるなと思いつつ、クルシュの愛情と覚悟に胸を打たれぬ者はいないだろう。このように、異形に早見沙織を当てるという戦略自体は特段目新しいものではない。しかし、早見沙織の選出によって、この戦略において後代の声優が越えるべきハードルがかなり高くなってしまったのは確かであり、現時点の決定版として『月が導く異世界道中』を挙げるのは悪くない選択に思える。
 最後に、本作は石平信司監督・はたしょう二音響監督のタッグのもとで、端役に辻親八・手塚ヒロミチ・新祐樹が配役されており、『FAIRY TAIL』シリーズや『EDENS ZERO』を想起せざるをえなかったことも付言しておく。

おわりに

 『月が導く異世界道中』は時代劇に寄せた「世直し道中」の物語でもある。本作の第1話と第4話のエンディングでは、『水戸黄門』の主題歌である「ああ人生に涙あり」が花江夏樹・佐倉綾音・鬼頭明里によってカバーされており、勧善懲悪のイメージを視聴者に植えつけることに成功している。同時に本作は、親分子分関係や兄弟の盃といった俗っぽい任侠イメージも作中に取り込んでおり、「世直し」と言いつつ実際にやっているのが私刑とヒューマン殺しなのは興味深い。
 ここで思い出すのは、『CØDE:BREAKER』(2012年10月期)の「法で裁けぬ悪を裁く」というキラーフレーズだ。フィクションで多用されるクリシェと現実の思考パターンは相互に影響を及ぼし合っており、自力救済・実力行使を正当化する考え方は現代日本においても根強い。私刑の妖しい魅力に惹きつけられる法なき蛮族にとって、暴力的な「世直し」は間違いなく爽快感を与えるものである。俯瞰的な視点で見れば、本作に付随する「弱者男性」的な女性嫌悪ミソジニーも自力救済を肯定する心情の一種であると言えよう。「弱者男性」や「異常独身男性」を自称する者が求めているのは再分配や福祉ではなく、見下される側から見下す側に回ることであり、かかる昏い欲望は現状肯定や自暴自棄やけくそといったねじけた態度であらわれてくる。ギリギリの地点で「一発逆転」を狙った挙句、失敗してパブリック・エネミーと化さないためには、次善の策として「前向きに諦めようとする態度」を選ばざるをえないという事情もあるのかもしれない。そうであれば、まずは「前向きに諦めようとする」大勢の人々も、河川敷などで「決闘」を行う中高生も、自分は洗練された市民だと信じて疑わない人も、本邦ではひとしく法なき蛮族であるという自覚を持つことから始めなければならないだろう。

参考文献(2022年1月12日追記)

田中貴子『鏡花と怪異』平凡社、2006年。

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